PR

世界史|オーストリアの歴史:古代から現代まで一挙解説

世界史

はじめに

本稿では、オーストリアの歴史を、古代から現代に至る流れの中で俯瞰的に整理します。ヨーロッパの中心に位置し、多くの民族・言語・文化が交錯したこの地が、どのようにして国家としての地位を確立していったかを、時代区分ごとにたどります。王朝変遷や戦争、条約、国家再編といった出来事を通して「なぜ今のオーストリアがあるのか」という問いに迫り、国際関係やヨーロッパ史の観点からもその意義を明らかにしていきます。

フランク王国の統治下

フランク王国の時代には東方辺境領(Ostmark:オーストリアの語源)と呼ばれ、東方防衛と領土拡大の最前線として重要な役割を果たした。東からアヴァール人が侵入したが、カール大帝の下でこれを撃退した。

東フランク王国(843〜962)の統治下

フランク王国が分裂し東フランク王国が成立すると、東フランク王国の辺境防衛線となった。東方ではマジャール人の西進が始まったが、レヒフェルトの戦い(955年)を経て、これを撃退した。また、スラヴ人も撃退した。

神聖ローマ帝国の伯爵領(970〜1156)

現在のオーストリアにあたる地域には、オストマルク東方辺境伯領が置かれた。
その後、970年、レオポルト1世により、オーストリア辺境伯領とされた。

神聖ローマ帝国の公爵領(1156〜1453)

1156年、ハインリヒ2世の時代にオーストリア公国に昇格し、首都をウィーンに移した。

1278年には、ハプスブルク家が統治を開始した。

1315年には、スイスが独立した。

1359年には、ルドルフ4世がオーストリア大公を名乗り始めた。

1438年のアルプレヒト2世以降、神聖ローマ帝国の皇帝の座を世襲した。

神聖ローマ帝国の大公爵領(1453〜1804.8.11)

成立過程

1453年に、オーストリア大公の名称を正式なものとし、オーストリア大公国となった。
大公は公よりも上位とされるが、王よりは下位とされる。

ウェストファリア体制以前

1526年、モハーチの戦いでハンガリー王がオスマン帝国に敗北した。
これを契機として、ハンガリー(→現在のハンガリー西部)やボヘミア(→現在のチェコ)、クロアチア(→現在のクロアチア西部)を獲得した。

1529年、オスマン帝国によりウィーンが包囲されたが、なんとか退却させた。

1583年、ウィーンからプラハに遷都した。

ウェストファリア体制下の動き

1618年から三十年戦争が始まった。
神聖ローマ帝国も参戦したが、オーストリア大公国が戦場になることは少なく、国力が相対的に上昇した。
1648年、ウェストファリア条約が締結された。その後、プラハからウィーンに遷都した。

ハンガリーでの内乱に端を発した、1683年から1699年の大トルコ戦争において、オスマン帝国により再度ウィーンが包囲された。結局、オスマン帝国から、ハンガリー(現在のハンガリー東部)やトランシルヴァニア(現在のルーマニアの西部)、スラボニア(現在のクロアチア東部)を獲得した<カルロヴィッツ条約>。

1701年から1714年のスペイン継承戦争により、南ネーデルラント・ミラノ公国・ナポリ王国・サルデーニャ島を獲得した<ラシュタット条約>。

1716年から1718年の墺土戦争により、オスマン帝国から北セルビア、北ボスニア、西ワラキアを獲得した。

1718年から1720年の四国同盟戦争により、サヴォイア公国(→サルデーニャ王国)との間で、サルデーニャ島を譲る代わりにシチリア島を獲得することを取り決めた<ハーグ条約>。

1735年、ポーランド継承戦争により、ナポリはスペイン=ブルボン家の領土(→両シチリア王国)となった。

1740年、男子が途絶えマリア=テレジアが後を継いだことを契機として、オーストリア継承戦争が勃発した。
その結果、シュレジエン(ボヘミア王国の一部とされていた)をプロイセン王国に奪われた。
1756年には、フランスと同盟(外交革命)を結び、七年戦争に突入するが、シュレジエンを回復できなかった。

1772年、ポーランドの王位継承に端を欲する混乱に乗じて第一次ポーランド分割に参加し、ガリツィアの東側を獲得した。

1795年、第三次ポーランド分割に参加し、ガリツィアの西側を獲得した。

地図

ウェストファリア体制下の流れは以下の図のようになります。

このように、オーストリア帝国は、ドイツ人を中心に、マジャール人やチェック人、スロヴァキア人、ポーランド人、スロヴェニア人、クロアチア人

オーストリア帝国(1804.8.11-1867.3.30)→オーストリア=ハンガリー帝国(1867.3.30〜1918.11.12)

成立過程

19世紀前後、ナポレオンが躍進し、また、神聖ローマ帝国は形骸化が進んでいた。
1804年、神聖ローマ皇帝フランツ2世が、オーストリア皇帝フランツ1世として即位し、帝位を兼ねた。
1806年7月12日、既に実質的に制御できていなかったドイツ諸侯が神聖ローマ帝国から離脱した。ドイツ諸侯はライン同盟を結成し、ナポレオン率いるフランス帝国と同盟を結んだ。
1806年8月6日、フランツ1世は神聖ローマ帝国の位を放棄した。

ウィーン体制下の動き

1815年6月9日、ナポレオン戦争が終結した。
ウィーン議定書により、オーストリア帝国は、新たに形成されたドイツ連邦(オーストリア帝国・プロイセン王国をはじめ複数の主権国家から成る)の盟主となった。
また、南ネーデルラントがオランダ領となった代償に、ロンバルディアと旧ヴェネツィア共和国領(ヴェネツィア・ダルマチア等)を獲得した。

その後、自由主義運動が活発化した。
1848年3月13日、ウィーンで三月革命が発生したメッテルニヒが失脚したが、その後鎮圧された。
1848年6月、オーストリア帝国内のボヘミアで、パラツキーを中心に、スラヴ人(チェック人など)を中心としたスラヴ民族会議が行われた。オーストリア帝国により解散。
1849年4月、オーストリア帝国内のハンガリーで、コシュートが反乱を起こした。ロシア帝国と共に鎮圧。

1859年7月11日、イタリア統一戦争でサルデーニャ王国やフランス帝国に敗北し、ミラノ公国はサルデーニャ王国に返還された<ヴィラフランカの講和>。

1864年、プロイセン王国と共にデンマーク戦争を戦い、デンマーク王国にシュレスヴィヒ及びホルシュタインを放棄させた。
1865年8月、プロイセン王国との協定により、ホルシュタインを獲得した。

1866年8月23日、プロイセン=オーストリア戦争でプロイセン王国に敗北し、ドイツ連邦は解体された。
また、ホルシュタインをプロイセン王国に割譲した。
さらに、ヴェネツィアをイタリア王国に割譲した。

1867年3月30日、オーストリア帝国は、国内のナショナリズムの高まりを抑えるため、マジャール人の多いハンガリーに自治権を与えた(アウグスライヒ)。
その結果、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。

1877年から1878年のロシア=トルコ戦争により、ロシア帝国とオスマン帝国の間で締結されたサン=ステファノ条約に各国が反発した。そのため、ビスマルクが仲介し、1878年7月13日、ベルリン条約が締結された。
オーストリア帝国は、ボスニア=ヘルツェゴビナの統治権を獲得した(主権はオスマン帝国のまま)。

オスマン帝国で青年トルコ革命が生じたことを契機として、1908年10月、領土を確保するため、ボスニア=ヘルツェゴビナを併合した。
同地は、スラヴ人が多く居住していた。

1914年6月28日、オーストリア帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナンドが、ボスニアの州都サラエボで、セルビア系の青年に暗殺された。
その後、1914年7月28日、ドイツ帝国の支援を受けて宣戦布告。
第一次世界大戦の幕開けである。

簡略図

ウィーン体制の下でのオーストリアの様子は以下のとおりです。

第一次世界大戦の動き

1918年10月28日、チェコ人・スロヴァキア人がチェコ・スロヴァキア共和国として独立した。

1918年10月29日、スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人が独立した。
戦後、ユーゴスラビア王国となる。

1918年10月31日、マジャール人を中心とした暴動が起こり、1918年11月16日にハンガリー人民共和国として独立した。その後、ハンガリー王国となる。

1918年11月3日、イタリア王国と休戦した。

1918年11月12日、皇帝はスイスへ亡命した。
オーストリア帝国は滅亡した。

ドイツ=オーストリア共和国(1918.11.12〜1919.9.10)

成立過程

1918年11月12日、ウィーンで臨時国民議会が開かれ、ドイツ=オーストリア共和国の樹立が宣言され、帝国領内のドイツ語圏を統合する形で成立した。ドイツ共和国との統合(アンシュルス)を希望していたが、これは後の国際条約により制約されることになる。

オーストリア第一共和国(1919.9.10〜1934.5.1)

成立過程

1919年9月10日、第一次世界大戦敗戦後の講和条約<サン=ジェルマン条約>により、ドイツ=オーストリア共和国は独自の外交権を保持するが、ドイツとの統合は認められず、国名もオーストリア共和国に改められた。

条約において、以下のように取り決めがされた。
イタリア王国に、南チロル・トレンティーノを割譲した。
ポーランド第二共和国に、ガリツィアを割譲した。
ハンガリー西部(ブルゲンラント州)を獲得した。
戦勝国となったチェコスロヴァキア王国やセルブ=クロアート=スロヴェーン王国の独立を承認した。

簡略図

第一次世界大戦後、以下の図のようになります。

オーストリア連邦国(1934.5.1〜1938.3.13)

成立過程

1930年代に入ると世界恐慌の影響で失業やインフレーションが深刻化し、社会民主党とキリスト教社会党の対立は激化した。議会制民主主義のもとでは政策決定が困難となり、政治的な停滞と混乱が続いた。1933年、首相ドルフースは議会の手続きを停止し、事実上の独裁的権力を掌握した。これを契機に、オーストリアは立憲民主制から大統領制・連邦制を基盤とするオーストリア連邦国へと移行する方向に進んだ。1934年5月1日、ドルフース内閣は新憲法を公布し、オーストリア連邦国の正式な成立が宣言された。この憲法は、議会制を縮小し、連邦制の下で州知事や大統領の権限を強化する構造を持っていた。

ナチス=ドイツによる併合(1938.3.13〜1945.4.13)

成立過程

ナチス=ドイツはヒトラーの指導のもと、ドイツ民族の統一を掲げ、オーストリア併合(アンシュルス)を積極的に推進した。オーストリア国内にもナチス党の支持者は多かった。これに対し、連邦国政府は国内のナチス党員の活動を抑圧し、独立を維持しようとしたが、ナチス=ドイツの圧力に抗しきれなかった。1938年3月12日、ドイツ軍は無血でオーストリアに進駐し、事実上の占領が行われた。翌日、オーストリア政府はナチス党員による新政権樹立を容認し、オーストリア併合が公式に宣言され、オーストリア州となった。併合後、オーストリア国内ではナチスの統治が急速に進められた。

4連合軍の共同管理(1945.4.13〜1955.5.15)

成立過程

1945年4月13日、ドイツから離脱した。1945年5月、ドイツの降伏に伴いオーストリアは解放されたが、独立国家としての完全復活は即座には実現せず、戦勝四カ国(東部はソ連、北部はアメリカ、西部はフランス、南部はイギリス)による共同管理が開始された。

オーストリア第二共和国(1955.5.15〜現在)

成立過程

占領期間中、オーストリアは再建のための法制度や行政機構を整備し、1945年12月にはオーストリア共和国の暫定政府が発足した。憲法も再制定され、連邦制と議会制民主主義を基盤とする新国家の枠組みが整えられた。

1955年5月15日にオーストリア国家条約が締結され、四カ国による共同管理は終了した。オーストリアは完全な独立と主権を回復するとともに、中立国家として国際的に承認され、戦後ヨーロッパの平和秩序において重要な役割を果たすことになった。

1955年10月26日、永世中立であると憲法に規定した。

現在

1955年12月14日、国際連合に加盟した。

1995年1月、EUに加盟した。

データ

主な民族ドイツ人
主な言語ドイツ語
主な宗教カトリック

おわりに

オーストリアの歴史をたどることで、単に領域や政体が変遷してきたというだけでなく、「多民族帝国」から「小さな中核国家」へ、そして「中立・連合欧州国家」へと変貌を遂げたダイナミズムが浮かび上がります。現在のオーストリア共和国は、かつての大帝国の栄光と挫折を背負いながら、新たな時代の中で自らの位置を見定めてきた国家です。歴史を知ることで、現代のオーストリアが抱える課題や可能性もより深く理解できることでしょう。

タイトルとURLをコピーしました