はじめに
本稿では、オーストリアの歴史を、古代から現代に至る流れの中で俯瞰的に整理します。ヨーロッパの中心に位置し、多くの民族・言語・文化が交錯したこの地が、どのようにして国家としての地位を確立していったかを、時代区分ごとにたどります。
王朝変遷や戦争、条約、国家再編といった出来事を通して「なぜ今のオーストリアがあるのか」という問いに迫ります。
第1回は、バーベンベルク家の時代です。
バーベンベルク家
フランク王国の一部
[790年代]
現在のオーストリアにあたる地域において、カール大帝が東方から侵入したアヴァール人を撃退した。
このころから、辺境伯バーベンベルク家の統治が始まった。
東方辺境領と呼ばれ、フランク王国の辺境伯として、東方防衛と領土拡大の最前線として重要な役割を担った。
東フランク王国の一部
[843年]
フランク王国が分裂し、東フランク王国が成立した。
東フランク王国の辺境伯として、東方の防衛線を担った。
[955年]
東方からマジャール人の西進が始まった。
オットー1世のもと、レヒフェルトの戦いでこれを撃退した。
同じ頃、スラヴ人も撃退した。
神聖ローマ帝国の一部
[962年]
オットー1世が教皇から戴冠を受け、神聖ローマ帝国が成立した。
神聖ローマ帝国の辺境伯として、東方の防衛線を担った。
[970年]
オストマルク東方辺境伯領となった。
オストマルク(Ostmark)はオーストリアの語源である。
[1156年]
オーストリア公国に昇格し、首都をウィーンに置いた。
[1246年]
バーベンベルク家が途絶えた。
ボヘミア王国の占領
[1246年]
後継者不在に乗じて、隣国のボヘミア王オットカル2世により占領された。
おわりに
1246年、バーベンベルク家が断絶したことで、オーストリアは再び不安定な時代へと突入します。
しかし、この時期に形成された東方辺境伯領の構造や政治的基盤は、後にハプスブルク家が台頭する際の重要な土壌となりました。
ローマ帝国から中世の領邦形成に至るまでの長い歴史を追うことで、中欧の複雑な政治状況とオーストリアの成立過程がより深く理解できます。
本記事が、その歴史的背景を把握する一助となれば幸いです。
次回
第2回の記事では、神聖ローマ帝国の滅亡(1804年)までをまとめています。

