はじめに
本稿では、ハンガリーの歴史を、古代から現代に至る流れの中で俯瞰的に整理します。東欧に位置し、固有の民族・言語を有するこの地が、どのようにして地位を確立していったかを、時代区分ごとにたどります。王朝変遷や戦争、条約、国家再編といった出来事を通して「なぜ今のハンガリーがあるのか」という問いに迫り、国際関係やヨーロッパ史の観点からもその意義を明らかにしていきます。
オーストリアについては、別記事を参照してください。
マジャール人の定住
9世紀末頃、現在のハンガリーに当たる場所に、マジャール人が定住し始めた。
10世紀初め頃、チェック人によるモラヴィア王国を滅ぼした。
955年には、東フランク王国に侵攻したが、レヒフェルトの戦いで敗れた。
その後成立した神聖ローマ帝国によりキリスト教が広まった。
997年からマジャール人の首長ヴァイクがハンガリーの統一を始めた。
ハンガリー王国(1000-1918.11.16)
成立過程
1000年、ヴァイクはローマ教皇の戴冠を受けてイシュトヴァーン1世として即位し、ハンガリー王国が成立した。
その版図は、現在のチェコ、スロヴァキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニア、セルビア、スラヴォニア(クロアチアの一部)、スロヴェニア、オーストリアを含んでいた。
1102年、クロアチア王国を同君下位とした。

モンゴルの侵攻
1241年、モンゴルのバトゥによる侵攻を受け、首都を占領され、弱体化した。
オスマン帝国の隆興

上の画像は、14世紀中頃の東欧の概略図である。
14世紀中頃、オスマン帝国はバルカン半島の征服を開始した。
1389年、オスマン帝国はセルビア王国に勝利し(コソヴォの戦い)、ハンガリー王国に接近した。
1396年、ハンガリー王国はオスマン帝国に敗れた(ニコポリスの戦い)。
1444年11月10日、ハンガリー王国はオスマン帝国に敗れた(ヴァルナの戦い)。
1453年にオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼした後、ハンガリーより東に位置する地域のほとんどがオスマン帝国の支配下に入った。
1526年、ハンガリー王国はオスマン帝国に敗れた(モハーチの戦い)。
オスマン帝国はハンガリー全域を支配しなかったため、ハンガリーは、①ハプスブルク家(オーストリア)領のハンガリー、②オスマン帝国領のハンガリーに分かれた。
オーストリア領
ハンガリーでの内乱に端を発した、1683年から1699年にかけての大トルコ戦争の結果、ハンガリー全域が①ハプスブルク家領のハンガリーとなった。
1867年、オーストリア=ハンガリー帝国が成立し、ハンガリー王国の自治権が拡大した。
1914年、第一次世界大戦が始まった。
ハンガリー民主共和国(1918.11.16〜1919.3.21)
成立過程
第一次世界大戦末期の1918年10月31日、マジャール人を中心とした暴動が起こった。
1918年11月16日、ハンガリー民主共和国として独立した。
ハンガリー・ソビエト共和国(1919.3.21〜1919.8.6)
成立過程
1919年3月21日、共産党主導の国家樹立が宣言された。
1919年5月、オーストリア=ハンガリー帝国から独立したチェコスロヴァキア共和国に侵攻した。
その後、ルーマニア王国と戦った(ハンガリー・ルーマニア戦争)。
ハンガリー第一共和国(1919.8.6〜1920.2.29)
成立過程
ルーマニア軍の侵攻によってソビエト共和国が崩壊した。混乱の中、保守的なナショナリスト勢力が台頭し、ハンガリーの政治秩序回復を目指した。
ハンガリー王国(1920.2.29〜1946.2.1)
成立過程
1920年3月、国民議会がハンガリー王国の復活を決議した。しかし、王は不在であり、摂政が権力を握り政権を運営した。
トリアノン条約
1920年6月4日、第一次世界大戦及びハンガリー・ルーマニア戦争の講和条約として結ばれた。
北部をチェコスロヴァキア共和国、東部をルーマニア王国、南部をセルブ=クロアート=スロヴェーン王国、西部をオーストリア共和国に割譲した。
ハンガリー王国にとって厳しい内容であり、国内では領土喪失と民族問題が中心課題となった。
第二次世界大戦
トリアノン条約の修正を目指し、ハンガリーはイタリアやドイツなど不満を抱く国々と接近し、特にナチス・ドイツと関係を深めていった。1938年、チェコスロバキア共和国がドイツに譲歩した際、ハンガリーはスロヴァキア南部およびカルパティア・ルテニアの一部を回復した。1939年にはさらにルーマニアからトランシルヴァニア北部の一部を得て、領土を一部回復した。
1940年11月20日、日独伊三国同盟に参加し、第二次世界大戦に枢軸国側として参戦した。1941年にはユーゴスラビア侵攻、1941年から1944年にはソ連侵攻にも参加した。しかし戦争の進行とともに、ハンガリー国内では戦争への不満やユダヤ人迫害政策への批判も高まった。その結果、1944年3月、ナチス・ドイツはハンガリーに進駐し親独政権を樹立した。この間、ユダヤ人の強制収容やホロコーストがハンガリー国内で本格化した。ソ連赤軍は1944年末からハンガリー領内に侵攻を開始し、1945年初頭にはソ連軍がブダペストを制圧し、ナチス支配下の政権は崩壊し、臨時政府が成立した。領土的にはトリアノン条約前の回復分は失われ、戦後の国境はほぼ1920年以降のラインに復帰した。
ハンガリー第二共和国(1946.2.1〜1949.8.23)
成立過程
終戦後、ナチス協力者の粛清と戦争責任の追及が進む中で、国内の政治勢力は再編され、複数の政党が活動を再開した。1945年11月の総選挙では、小農業者党が圧倒的多数を獲得し、国民の支持を背景に新政府を組織した。
政府は旧ハンガリー王国体制の清算を進めた。ハンガリーは形式上「王国」であったが、実際には王が存在せず摂政が統治していたが、戦後の民主化を進める上で障害と考えられた。そこで、国民議会は1946年2月1日に王制廃止を正式に決議し、共和制への移行を宣言した。
ハンガリー人民共和国(1949.8.23〜1989.10.23)
成立過程
ハンガリー第二共和国において、国の再建はソ連の占領政策に強く影響されており、ソ連の後押しを受けたハンガリー共産党が徐々に権力を拡大していった。1947年の選挙では、共産党が不正により議席を大きく伸ばした。その後、政治的自由は制限され、言論・結社の自由も失われていく。最終的に、1948年には共産党と社会民主党が合同してハンガリー勤労人民党を結成し、共産党一党体制の道が開かれた。1949年には新憲法が制定され、社会主義国家としての基本原則と、勤労者階級による国家運営を明記した。1949年8月20日、国名が正式にハンガリー人民共和国と改められ、ここに社会主義体制の確立が宣言された。計画経済が導入される一方で、秘密警察による監視と粛清が横行した。
ハンガリー動乱(1956)
1953年、スターリンの死後、ソ連で緩和の動きが始まると、ハンガリーでも改革への期待が高まった。ソ連は穏健派のナジ・イムレを首相に任命したが、強硬派の巻き返しにより、1955年にナジは失脚した。これに対する不満は知識人や学生の間で急速に高まった。1956年10月23日、ブダペストで学生の平和的デモが行われたが、警察の発砲によって流血事件となり、全土に蜂起が広がった。事態の急変を受け、ナジ・イムレが首相に復帰し、多党制の復活、政治犯の釈放、ソ連軍の撤退交渉、ハンガリーの中立化とワルシャワ条約機構からの離脱を宣言した。これはソ連にとって東欧支配の根幹を脅かすものであった。その後、ソ連により抵抗勢力は鎮圧された。約2500人のハンガリー人が死亡し、20万人以上が国外に脱出した。ナジ・イムレは逮捕され、1958年に処刑された。
ハンガリー第三共和国(1989.10.23〜現在)
成立過程
1980年代に入ると、ハンガリーの経済は社会主義的統制経済の弊害により停滞していた。1985年以降、改革派の知識人や若手政治家を中心に、体制の民主化と市場経済化を求める動きが広がった。1988年秋から1989年にかけては言論・結社の自由が拡大し、反体制的な集会やデモが公然と行われるようになった。1989年3月、政府と新興野党勢力との間で平和的な体制転換を目的とした交渉が始まった。この会議では、複数政党制の容認、議会制民主主義の導入、憲法改正、自由選挙の実施などが協議され、社会主義体制から民主制への移行が制度的に進められ、半年後には政治改革に関する基本合意が成立した。また同年5月、1949年以来オーストリアとの国境に設けられていた鉄条網の撤去を開始した。1989年10月23日、国民議会は大幅な憲法改正を行い、国名をハンガリー共和国へと改めた。この日は、1956年のハンガリー動乱勃発の日でもあったことから選ばれた。改正憲法は、権力分立、法の支配、人権尊重、複数政党制を明記し、社会主義的国家体制を完全に終結させた。
現在
1999年3月にはNATO加盟国となり、ハンガリーが西側安全保障体制の一翼を担う存在となったことを意味した。
経済面ではEUとの統合を進め、2004年5月に正式加盟を果たした。
データ
| 主な民族 | マジャール人 | 
| 主な言語 | ハンガリー語 | 
| 主な宗教 | カトリック | 
おわりに
ハンガリーは、様々な苦労を乗り越えながら、現在は西側的価値との統合を果たしています。現在は、欧州連合(EU)および北大西洋条約機構(NATO)への加盟を通じた安全保障と地域連携の強化など、平和・繁栄への貢献も明らかです。今後もハンガリーが欧州の協調・安定に果たす役割を理解するためには、過去の転換点と現在の展開をつなぐ視点が不可欠です。
  
  
  
  