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世界史|オーストリアの歴史2:バーベンベルク断絶からオーストリア帝国成立まで

世界史

はじめに

本記事は、オーストリアの歴史1の続きです。
1246年、現在のオーストリアにあたる地域は、ボヘミア王オットカル2世により占領されました。

ハプスブルク家

[1254年]
神聖ローマ帝国の皇帝に、帝国領域外の人物がついていた(大空位時代)。

[1273年]
ハプスブルク家のルドルフがドイツ王ルドルフ1世として即位した(ドイツ王になるということはその後皇帝になることを意味する、以下同じ)。
ハプスブルク家は、もともと、ライン川上流(現在のスイスあたり)を支配していた貴族であった。

[1278年]
神聖ローマ帝国内におけるボヘミア王国の強大化は他の諸侯に警戒されていた。
そこで、皇帝ルドルフ1世はオットカル2世を攻撃し、ウィーン近郊で勝利した(マルヒフェルトの戦い)。
その後、ハプスブルク家の統治が始まった。

[1291年]
ルドルフ1世が死去した。
これ以降1452年まで、ハプスブルク家は連続して神聖ローマ皇帝を輩出していない。
スイスがハプスブルク家に反発した。

[1315年]
スイスが独立した。

フリードリヒ3世

[1440年]
ハプスブルク家のフリードリヒがドイツ王となった(後に皇帝フリードリヒ3世として戴冠)。
これ以降、ハプスブルク家が神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲した。

[1453年]
オーストリア大公の名称を正式なものとし、オーストリア大公国となった。

[1477年]
ハプスブルク家のマクシミリアンが、ブルゴーニュ公国の公女と結婚した。
同年、ブルゴーニュ公の死去により、実質的にブルゴーニュ公国を手に入れた。

[1493年]
フリードリヒ3世死去。

マクシミリアン1世

[1493年]
ハプスブルク家のマクシミリアンがドイツ王となった(後に皇帝マクシミリアン1世として戴冠)。

[1496-1497年]
強大化するフランスに対抗する必要があった。
そのため、マクシミリアン1世の息子・娘がスペイン王国の王女・王子と結婚した。

[1504年]
カスティリャ女王の死去により、実質的にカスティリャ王国を手に入れた。

[1515年]
強大化するオスマン帝国に対抗する必要があった。
マクシミリアンの孫息子・孫娘がボヘミア・ハンガリー王女・王子と結婚した。

[1516年]
アラゴン王の死去により、実質的にアラゴン王国を手に入れた。
マクシミリアン1世の孫カールが相続し、カルロス1世となった。

[1517年]
宗教改革始まる。

[1519年]
マクシミリアン1世死去。

カール5世

[1519年]
スペイン王カルロス1世は、神聖ローマ皇帝の称号をも獲得しカール5世となる。

[1526年]
ハンガリーがオスマン帝国に敗北し(モハーチの戦い)、ボヘミア・ハンガリー王が死去。
カール5世の弟フェルディナンドが、ボヘミア王・ハンガリー王フェルディナンド1世になる。

[1529年]
オスマン帝国によるウィーン包囲。
冬と補給の困難性により防衛に成功した。

[1555年]
アウクスブルクの和議。

[1556年]
カール5世が退位。
ハプスブルク家は、スペイン系とオーストリア系に二分された。
オーストリア系は、オーストリア大公国、ハンガリー王国、ボヘミア王国を有することとなった。
スペイン系は、スペイン王国、ネーデルラント、ルクセンブルク、サルデーニャ王国、ナポリ王国、シチリア王国、ミラノ公国、植民地を有することとなった。

ここからは、オーストリア系についてのみ解説する。

フェルディナンド1世

[1556年]
カール5世の退位により、皇帝に即位。

[1564年]
フェイルディナンド1世死去。

フェルディナンド2世

[1564年]
フェイルディナンド1世の息子が即位。

[1576年]
フェイルディナンド2世死去。

ルドルフ2世

[1576年]
フェイルディナンド2世の息子が即位。

[1583年]
ウィーンからプラハに遷都。

[1612]
ルドルフ2世死去。

マティアス

[1612]
ルドルフ2世の弟が即位。

[1618]
宗教対立からボヘミア王国での騒動を経て、三十年戦争が始まった。
宗教戦争であり、フランスとの間の政治的な戦争でもあった。

フェルディナンド2世

[1619年]
マティアスの従兄弟であるフェルディナンド2世が即位。

フェルディナンド3世

[1637年]
フェルディナンド2世の子フェルディナンド3世が即位。

[1648年]
ウェストファリア条約が締結された。
結果として、神聖ローマ帝国は形骸化し、帝国内でのハプスブルク家の権力は弱まった。
他方で、オーストリア大公国、ハンガリー王国、ボヘミア王国内では、カトリックによる一体性を強化することに成功した。
その後、プラハからウィーンに遷都した。

レオポルト1世

[1658年]
フェルディナンド3世の子レオポルト1世が即位。

[1683年]
ハンガリーでの内乱に端を発した大トルコ戦争において、オスマン帝国が再度ウィーンを包囲。
ポーランド王らの支援により勝利し、その後オスマン帝国領に侵攻した。

[1699年]
大トルコ戦争により、オスマン帝国から、ハンガリーやトランシルヴァニア、スラヴォニアを獲得した<カルロヴィッツ条約>。

[1700年]
スペイン系のハプスブルク家が途絶え、フランス(ブルボン家)系の王が即位した。

[1701年]
スペイン継承戦争が起こった。
戦争への出兵と引き換えに、プロイセン王国の成立を認めた。

ヨーゼフ1世

[1705]
レオポルト1世の子ヨーゼフ1世が即位。

カール6世

[1711年]
ヨーゼフ1世の弟カール6世が即位。

[1713年]
女子にも相続権を拡大したが、諸侯の反発を受けた。

[1714年]
スペイン継承戦争の結果、スペイン領であった南ネーデルラント・ミラノ公国・ナポリ王国・サルデーニャ王国を獲得した<ラシュタット条約>。
その代わりに、フランスのルイ14世の孫が王となることを承認した。

[1718年]
1716年から始まった墺土戦争により、オスマン帝国から、北セルビア、北ボスニア、西ワラキアを獲得した。

[1720年]
1718年から始まった四国同盟戦争により、サヴォイア公国(→サルデーニャ王国)との間で、サルデーニャ島を譲る代わりにシチリア島を獲得することを取り決めた<ハーグ条約>。

[1735年]
ポーランド継承戦争により、ナポリ王国とシチリア島はフランスの領土となったが、トスカーナ大公国やパルマ公国などを獲得した。

マリア・テレジア、ヨーゼフ2世(共同統治を含む)

[1740年]
男子の世継ぎが途絶え、カール6世の子マリア・テレジアが相続した。
フランスは、プロイセン王国、バイエルン選帝侯領らと帝国分割をはかり、シュレジエンをプロイセンに、皇帝位をバイエルンに、南ネーデルラントはフランスに、それぞれ帰属させることを計画した。
そして、プロイセン王国がシュレジエンに攻め込み、オーストリア継承戦争が勃発した。
その結果、シュレジエンをプロイセン王国に奪われた。

[1756年]
長年敵対してきたフランスと同盟を結んだ(外交革命)。
さらにロシア帝国とも結び、プロイセン王国との間で七年戦争が始まった。
しかし、ロシア皇帝の死もあり、シュレジエンを回復できなかった。

[1770年]
マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットとルイ16世が婚姻。

[1772年]
ポーランドの王位継承に端を欲する混乱に乗じて第一次ポーランド分割に参加。

ヨーゼフ2世

[1780年]
マリア=テレジアが死亡し、ヨーゼフ2世の単独統治となる。
上からの改革を進める。

[1789年]
フランス革命が起こる。

レオポルト2世

[1790年]
マリア=テレジアの子レオポルト2世が即位。

フランツ1世

[1792年]
レオポルト2世の子フランツ2世が即位。

[1795年]
第三次ポーランド分割に参加し、さらに領土を獲得した。

[1796年]
ナポレオン率いる革命政府軍が北イタリアに侵入し、これに敗れた。
ミラノと南ネーデルラントを失う<カンポ・フォルミオ条約>。

[1804]
ヨーロッパの大半を支配下に置いたナポレオンが、フランス皇帝に即位した。
そのため、神聖ローマ皇帝フランツ2世は、オーストリア皇帝フランツ1世と称することとした。

地図

ハプスブルク家の領土の変遷は大まかに以下の図のようになります。

おわりに

バーベンベルク家断絶後の混迷を経て、ハプスブルク家は中欧最大の勢力として長い支配体制を築きました。
領地の拡張、内部分割、宗教改革の衝撃、三十年戦争の疲弊、そして啓蒙専制やマリア・テレジア、ヨーゼフ2世による改革など、この時期はオーストリアという国家の骨格が形成された時代でした。
最終的にナポレオン戦争の激動の中で、1804年にフランツ2世が「オーストリア帝国」を宣言し、ハプスブルク帝国は新たな時代へと踏み出すことになります。
この記事が、オーストリア近世史の大きな流れを理解する助けとなれば幸いです。

次回

第3回は、オーストリア帝国の滅亡(1918年)までまとめていきます。

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