はじめに
7世紀初頭、アラビア半島では部族社会が続き、東では東ローマ帝国とササン朝ペルシアが長期戦争によって疲弊していた。そんな中、預言者ムハンマドによって始まったイスラム共同体は、わずか数十年でアラビア半島を統一し、さらにシリア・エジプト・イランへと勢力を拡大していく。
本記事では、610年の啓示から661年のウマイヤ朝成立までを年代順に整理し、イスラム共同体が拡大していく過程を追っていく。
地図
おおよそ、以下の3カ国が関係します。

*AIにより作成した画像です。そのため、領土が広すぎるなど正確性に欠く地図となっています。
国境地帯をイメージするために、参考としてご覧ください。
経緯
621年まで
610年に啓示を受けて以来、預言者 ムハンマド は、メッカの有力部族クライシュ族から激しい迫害を受けながらも信徒を拡大していた。まだイスラム国家は成立していなかったが、後の正統カリフ時代を支えるウンマ(共同体)の理念が形成され始めた。
また、ムハンマドは、ヤスリブ(後のメディナ)の部族との接触を深めた。メディナ側ではアラブ部族アウス族・ハズラジュ族の抗争が続いており、統合の指導者を必要としていた。
619年には、ムハンマドを保護していた叔父が亡くなった。
北方では602年から始まった 東ローマ帝国・ササン朝戦争 が続き、中東世界は疲弊していた。これは後にイスラム勢力が急拡大する背景となる。
620年代
622年
ムハンマドとその随行者はメッカを脱出することとなり、ヒジュラが行われ、メディナにイスラム共同体(ウンマ)が成立した。これがイスラム暦元年とされる。メディナでは宗教共同体であると同時に軍事・行政組織としてのウンマが形成され、後の征服国家の原型となった。イスラム勢力の領域はまだメディナ周辺に限られていたが、独立した統治体制が確立した歴史的転換点である。
また、この地域のイスラム教を信仰しない人々との間で都市国家を成立させる同意を得た。それを約する成文法も存在した。
623年
イスラーム共同体はメッカ商隊への襲撃を開始し、経済的・軍事的対立が深まった。これは単なる略奪ではなく、クライシュ族との全面対決に向けた戦略的行動だった。当時のイスラム勢力は依然として小規模であり、周辺遊牧部族との同盟構築が最重要課題だった。アラビア半島の統一はまだ遠く、イスラム国家は存続自体をかけた時期にあった。
624年
バドルの戦いにおいて、イスラーム共同体はメッカ側を撃破した。軍事的勝利はムハンマドの権威を飛躍的に高め、アラビア半島各地でイスラム勢力への支持が拡大した。イスラム共同体は単なる宗教集団から軍事国家へと変貌を始め、周辺部族は力関係を考慮して同盟関係を見直し始めた。
625年
ウフドの戦いでイスラム共同体は苦戦し、多数の犠牲者を出した。決定的敗北ではなかったものの、共同体内部では統率の重要性が再認識された。メディナ周辺のユダヤ系部族との緊張も高まり、イスラム共同体の軍事色が強まっていく。依然として勢力範囲は西アラビアに限定されていた。
626年
イスラム共同体は防衛体制を整え、メッカ勢力との最終決戦に備えた。アラビア半島各部族は依然として独立性が強く、ムハンマドは軍事力だけでなく婚姻・同盟・宗教的権威を通じて支持拡大を図った。
627年
塹壕の戦い において、イスラム共同体は塹壕戦術でメッカ連合軍を退けた。この勝利によってメッカ勢力は攻勢能力を失い、アラビア半島における主導権は徐々にイスラム側へ傾いた。イスラム共同体は単なる宗教共同体ではなく、外交・軍事・課税を行う国家へと発展し始めた。
この頃、ニネヴェの戦いにおいて、東ローマ帝国はササン朝を破った。
628年
フダイビーヤの和約が締結され、イスラム共同体は事実上メッカ側から政治主体として承認された。この休戦により、ムハンマドは周辺部族への布教と外交に集中できるようになった。東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオス1世(在位610-641年)やササン朝ペルシアの皇帝ホスロー2世(在位590-629年)への書簡送付、など、対外的普遍宗教としての姿勢も見せ始めた。
629年
イスラム共同体は北方へ進出し、東ローマ帝国の勢力圏に近づいた。ムウタの戦い(現在のヨルダンあたり)では東ローマ帝国側のアラブ同盟勢力と交戦した。大規模勝利ではなかったが、後のシリア征服の前哨戦となった。イスラム共同体はアラビア内部勢力から地域覇権国家へ転換し始めた。
630年代
630年
メッカ征服が実現し、イスラム共同体はアラビア西部の中心都市を掌握した。カアバ神殿の偶像が破壊され、イスラム教がアラビア半島の中心宗教として確立される。これにより諸部族の帰順が急速に進み、イスラム共同体は半島統一国家へ成長した。
631年
アラビア半島各地の部族が次々とメディナへ使節団を送り、イスラム教に改宗し、イスラム共同体へ加入した。「使節団の年」と呼ばれるこの時期、イスラム共同体の領域は半島の大部分に及んだ。一方で、多くの部族はムハンマド個人への忠誠という性格が強く、後の離反の火種も残されていた。
632年
ムハンマドが死去し、アブー=バクル がカリフに選出された。これが正統カリフ時代の始まりである。しかし多くのアラブ部族が離反し、イスラム共同体は崩壊寸前となった。これに対しアブー=バクルは リッダ戦争を開始し、アラビア半島再統一に乗り出した。
⭐︎633年
リッダ戦争が本格化し、離反部族が次々と鎮圧された。
同時にイスラム共同体は北方へ遠征し、ササン朝の現在のイラクに相当する領土への侵攻を開始した。これは単なる略奪ではなく、疲弊した大帝国へ向けた恒常的征服戦争の始まりである。イスラム共同体は半島国家から対外帝国へ変貌し始めた。
また、東ローマ帝国が北方のシリア方面から攻め込んだため、これにも対処した。
634年
アブー=バクルが死去し、ウマル・イブン・ハッターブ が即位した。
シリア方面には、東ローマ帝国アラビア属州やユダヤ属州が存在した。イスラム共同体はシリア方面で東ローマ帝国軍と交戦を続け、ダマスクス方面へ圧力を強めた。ウマルは軍営都市建設や徴税制度整備を進め、征服国家としての制度基盤を形成した。
635年
イスラム共同体はシリア南部で優勢を拡大し、ダマスクス包囲を進めた。東ローマ帝国は長年の対ササン戦争で疲弊しており、防衛体制は脆弱化していた。イスラム共同体は遊牧騎兵の機動力を活用し、補給線の弱い帝国軍を各地で圧迫した。領土はアラビア半島を越えてレヴァントへ広がり始めた。
636年
ヤルムークの戦い で東ローマ帝国軍を壊滅させ、東ローマ帝国シリア属州の支配を決定づけた。同年、ササン朝に対しても カーディシーヤの戦い が行われ、イスラム共同体が勝利した。これにより東ローマ帝国はシリアを失い、ササン朝もメソポタミア防衛線を突破されてイラクを実質的に失った。イスラム国家は一気に世界帝国化した。
637年
イスラム共同体はササン朝の都クテシフォンを占領した。東ローマ帝国側ではエルサレムが降伏し、ウマル自ら入城したと伝えられる。イスラム共同体はイラク・シリアの主要都市を支配し、地中海東岸とメソポタミアを結ぶ広大な領域を掌握した。
638年
エルサレム正式接収後、イスラム共同体はイェルサレム大司教(キリスト教)との協定に基づき、キリスト教徒を庇護民(ズィンミー)とする保護政策を実施し、ジズヤを支払わせた。また、ユダヤ教徒に対しては、イェルサレム大司教側の意向からその居住を禁じた(8世紀末には緩和された)。これは、現在のエルサレムにおける、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の共存のベースとなっている。
シリア統治も安定化し、軍営都市(ミスル)として、バスラ(現イラク東部)が建設された他、フスタート(現エジプト)やクーファ(現イラク中部)などの建設構想が進んだ。東ローマ帝国はアナトリア防衛へ後退し、イスラム勢力との国境線が形成され始めた。
639年
イスラム共同体は東ローマ帝国領アエギュプトゥス属州(aegyptus:egyptの語源)に対する遠征を開始した。東ローマ帝国にとってエジプトは穀倉地帯であり、その喪失は致命的だった。アムル・イブン・アース率いる軍はナイル川流域へ進軍し、地元コプト教徒の不満も利用して支配拡大を進めた。
640年代
640年
エジプト遠征が継続された。イスラム共同体はシリア・イラク・エジプトという古代オリエント核心地帯を次々支配下に置いていった。東ローマ帝国は海軍力こそ維持したが、陸上帝国としての支配力を大きく失った。またこの年、後にウマイヤ朝を開くムアーウィヤがシリア総督に任命された。
641年
アレクサンドリアが陥落し、エジプト征服がほぼ完了した。これにより東ローマ帝国は穀物供給の中心を喪失した。一方イスラム国家は地中海貿易へ接近し、財政基盤を大きく強化した。
ササン朝は東方イランへ後退しつつ抵抗を継続した。
⭐︎642年
ニハーヴァンドの戦い でササン朝軍に大勝した。イスラム共同体はイラン高原へ急速に進出し、ササン朝は事実上崩壊状態となった。イスラム共同体は東はイラン、西はエジプトに至る巨大帝国へ成長した。
643年
イスラム軍はイラン南部・アルメニア方面へ進出し、征服範囲をさらに拡大した。同時に北アフリカ方面への軍事行動も始まり、東ローマ帝国との戦線は長大化した。征服地ではジズヤ課税と軍営都市制度によって支配体制が整備された。
644年
ウマルが暗殺され、ウスマーン・イブン・アッファーン が即位した。征服事業は継続され、イラン東部・アルメニア・北アフリカ方面(東ローマ帝国キレナイカ属州を征服)で拡張が続いた。一方でウマイヤ家出身者の重用に対する不満が高まり、内部対立の芽も形成された。
645年
ウマルの死に乗じて東ローマ帝国が攻め込み、一時アレクサンドリアが奪回されるも、イスラム共同体が再占領した。これによりエジプト支配は確定的となった。イスラム共同体は地中海沿岸への影響力を強め、海軍建設の必要性も意識され始めた。
646年
イラン方面ではササン朝残存勢力の掃討が進み、北部のホラーサーン方面への進軍準備が始まった。イスラム共同体の版図は急速に広がったが、アラブ征服軍と被征服民との関係整理が大きな課題となっていった。
647年
東ローマ帝国領の北アフリカ(現在のリビア・チュニジア)への遠征が本格化した。イスラム共同体はスフェトゥラの戦い(現チュニジア)で東ローマ帝国を破るなど、西方進出を続けた。
648年
地中海における海軍整備が進められ、東ローマ帝国領のキプロス方面への遠征が行われた。イスラム共同体は陸上征服国家から海洋勢力への転換も始めた。同時に内部ではウスマーン政権への不満が蓄積していった。
649年
イラン北部のホラーサーンや、アルメニア•アゼルバイジャン方面で遠征が続き、中央アジア接近が始まった。東ローマ帝国との境界では小規模戦闘が頻発し、恒常的国境戦争の様相を帯び始めた。
650年代
650年
イスラム共同体はスィスターン、ホラーサーンを征服し、ペルシアを征服した。ウスマーンはクルアーン正文の統一事業を進め、異本を廃棄した。これは帝国拡大による宗教的一体性維持を目的とした政策だった。一方、地方総督への親族登用が反発を招き、エジプト・イラク方面で不満勢力が拡大した。
651年
ササン朝最後の王ヤズデギルド3世が死亡し、ササン朝の滅亡が事実上確定した。イスラム共同体はその領土を継承し、西アジア最大勢力となった。イラン世界のイスラム化が本格的に始まる。
652年
征服範囲の急拡大に対し、メディナ中央政府の統制力低下が顕著となり、地方勢力が自立色を強めていった。
653年
東ローマ帝国との海戦が増加し、地中海覇権争いが始まった。シリア総督ムアーウィヤ は独自の軍事基盤を築き、後の内戦に向けた政治力を蓄積した。
654年
イスラム海軍は東ローマ海軍と戦い、地中海東部への影響力を拡大した。また、アラブ部族間の利権争いが激化した。
655年
マストの海戦 においてイスラム海軍が東ローマ帝国へ大打撃を与えた。これにより東地中海における東ローマの優位が崩れ、イスラム共同体は海洋国家としても台頭した。
656年
ウスマーンが反乱勢力に殺害され、アリー・イブン・アビー・ターリブ が即位した。しかしシリア総督ムアーウィヤはウスマーン殺害責任追及を掲げて対立し、第一次内乱(フィトナ)が始まった。同年 ラクダの戦いが起きるなど、共同体は深刻な分裂へ向かった。
657年
スィッフィーンの戦い が発生した。戦闘は決着せず仲裁に持ち込まれたが、これに反発した一派がハワーリジュ派として分離した。イスラム共同体は対外征服より内戦対応を優先せざるを得なくなった。
658年
アリーはハワーリジュ派鎮圧に成功したものの、シリア支配回復には失敗した。共同体は事実上、イラク中心のアリー勢力とシリア中心のムアーウィヤ勢力に分裂した状態となった。
659年
ムアーウィヤはエジプト支配を強化し、アリー勢力を圧迫した。正統カリフ国家は統一性を失い、地方軍閥化が進行した。東ローマ帝国はイスラム内戦を好機として国境地帯で反撃を試みた。
660年代
660年
ムアーウィヤがダマスクスで独自にカリフを宣言し、事実上の並立政権状態となった。イスラム共同体は政治的・宗教的分裂を深め、後のスンナ派とシーア派対立の基盤が形成されていく。
661年
アリーがハワーリジュ派によって暗殺され、ウマイヤ朝成立 により正統カリフ時代は終焉した。ムアーウィヤはダマスクスを首都として世襲的王朝支配を開始する。
おわりに
610年にメッカで始まった小規模な宗教共同体は、661年までの半世紀ほどで西アジア最大級の勢力へ成長した。背景には、ムハンマドの指導力だけでなく、東ローマ帝国とササン朝の疲弊、アラブ部族統合、軍事制度や課税制度の整備など、複数の要因が重なっていた。
しかし急速な拡大は内部対立も生み、正統カリフ時代末期には第一次内乱(フィトナ)が発生する。アリーの死後、ムアーウィヤによるウマイヤ朝が成立し、イスラム世界は新たな時代へ進むこととなった。
正統カリフ時代は、単なる征服史ではなく、後のイスラム文明・中東世界・地中海世界の構造を決定づけた重要な転換点だったのである。
