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世界史|アルメニア共和国

世界史

はじめに

アルメニア共和国は、コーカサス地方に位置する小国でありながら、世界でも特に長い歴史と独自文化を持つ国家として知られている。古代から東西文明の交差点に位置していたため、ローマ帝国、ペルシア、ビザンツ帝国、オスマン帝国、ロシア帝国など、数多くの大国の影響を受けながら歴史を歩んできた。

特にアルメニアは、301年に世界で初めてキリスト教を国教化した国家として有名であり、その宗教的伝統は現在の民族意識にも深く結びついている。一方で、周辺諸国との対立や支配の歴史も長く、20世紀にはアルメニア人虐殺やナゴルノ=カラバフ問題など、民族を揺るがす大きな悲劇にも直面した。

また、ソヴィエト連邦時代を経て1991年に独立を回復した後も、アゼルバイジャンとの対立は続いており、現在のコーカサス情勢を理解する上でもアルメニアの歴史は重要な意味を持っている。本記事では、古代王国から現代国家成立まで、アルメニアの歴史を時代ごとにわかりやすく整理して解説していく。

データ

首都エレバン
宗教キリスト教
言語アルメニア語

経緯

古代

古代マケドニア王国が分裂して成立したセレウコス朝は、シリア・メソポタミアからイラン方面まで広大な領域を支配した。その中にアルメニア地域も含まれていた。紀元前3〜2世紀頃のアルメニアでは、現地有力者が総督や従属王として統治し、セレウコス朝に服属していた。

紀元前189年ごろ、セレウコス朝がローマに敗れその支配が弱体化する中で、アルメニア最初の統一王朝としてアルタクシアス朝が成立した。創始者のアルタクシアス1世は、もともとセレウコス朝の地方総督だった。

その後、シリア、メソポタミア方面へ勢力を広げ、勢力圏は一時は黒海から地中海近くまで及んだ。しかし急速な拡張はローマ共和国との衝突を招き、紀元前69年にはローマ軍の侵攻を受けた。以後アルメニアはローマとパルティアの間で揺れ動く緩衝国家となった。最終的に紀元後12年頃までに王朝は衰退し、アルメニア王位はローマとパルティアの影響下に置かれるようになった。

アルサケス朝アルメニアは、アルメニアがローマ帝国とパルティアの間の緩衝地帯となる中で成立した。1世紀中頃、ローマ皇帝ネロの時代にローマ軍が侵攻し、一時はローマ側の王を擁立した。その後両国は妥協に達し、パルティア王家の王子がアルメニア王となることが認められた。ただし、即位にはローマ皇帝の承認を必要とした。この体制によってアルサケス朝アルメニアが成立した。

その後数、アルサケス朝アルメニアは形式上は独立王国だったが、実際にはローマとパルティア(後にはササン朝)の間で揺れ動いた。3世紀になると、パルティアが滅び、代わってササン朝が成立した。ササン朝はゾロアスター教的な王権理念を強く持っており、アルメニアへの影響力拡大を目指した。これに対しアルメニアは301年頃にキリスト教を国家宗教として採用した。アルメニアは一般に世界で最初にキリスト教を国教化した国家とされる。この決定はゾロアスター教を重視するササン朝との差異を明確化した。

4世紀後半になると、ローマ帝国とササン朝の対立はさらに激化し、両国はアルメニアを分割した。西部はローマの影響下に、東部はササン朝の保護下に置かれた。アルサケス朝自体は東部で存続したが、その独立性は大きく失われた。最終的に428年、ササン朝は最後の王を廃して王国を消滅させ、総督統治へ移行した。

中世

7世紀半ば、正統カリフ時代から続くイスラム勢力は、ササン朝を滅ぼし、さらにアルメニアへ進出した。640年代から650年代にかけてアルメニア諸都市が攻略され、アルメニアはイスラム世界の支配圏に組み込まれた。

8世紀半ばにアッバース朝が成立すると、支配の仕組みは変化し、中央集権化が進んで税負担増加や直接統治が強まった。9世紀に入ると、アッバース朝自体が各地で統制力を失い始めた。アルメニアではバグラトゥニ家が税徴収や軍事指揮を任されるようになり、事実上の地域支配者へ成長した。そして885年、アッバース朝と東ローマの双方から王として承認され、バグラトゥニ朝が成立した。これは428年のアルサケス朝滅亡以来、約450年ぶりのアルメニア王国復活だった。

バグラトゥニ朝は繁栄する一方で、政治的統一は十分ではなかった。10世紀末以降、東ローマ帝国は東方拡大政策を進め、介入を強めた。1045年、東ローマ帝国が侵攻しはバグラト朝本体は滅亡した。

その後1064年には中央アジアから進出してきたセルジューク朝がアルメニアを占領した。1071年、マラズギルド(現トルコ)の戦いでセルジューク朝が東ローマ帝国を下し、支配力を決定的なものにした。

※現在のアルメニア地域とは離れるが、セルジューク勢力の拡大によってアルメニアから南下したアルメニア人が1080年、地中海東岸のキリキア地方(現トルコ)にルーベン朝を築いた。初期のルーベン朝は規模の小さい山岳政権だったが、十字軍時代の到来が大きな転機となった。1090年代末から始まった第1回十字軍により、西ヨーロッパの十字軍諸勢力が中東へ到来した。キリキアのアルメニア人は十字軍に食料や案内を提供し、互いに協力関係を築いた。12世紀には王朝は拡大し、神聖ローマ皇帝や教皇との関係を深めた。そして1198年、正式に王として戴冠し、キリキア・アルメニア王国が成立した。しかし13世紀になると王位継承問題や貴族間対立が激しくなり、1226年には分家のヘトゥム家によるヘトゥム朝へ継承された。その後1375年にマムルーク朝の支配下に入った。

12世紀後半になるとセルジューク勢力が分裂し弱体化した。一方、北方のジョージア王国は急速に勢力を拡大し、アルメニア各地を奪還した。形式上はジョージア王国への臣従関係を維持していたが、実際の統治はアルメニア人貴族が行った。しかし、13世紀前半になると東方からモンゴル帝国が接近し、1230年代にはアルメニア地域へ侵攻し、これに服属した。

アルメニア人貴族はモンゴル軍の遠征への参加を求められ従軍した。特に1250年代以降、西アジアを支配したイルハン朝の成立後は、アルメニア地域はその支配圏に入った。

14世紀になると状況は悪化した。イルハン朝内部の政治対立や王朝の衰退が進み、1335年にイルハン朝が崩壊するとアルメニア地域は再び混乱へ陥った。

モンゴル系有力部族ジャライル族出身の支配者が勢力を拡大し、現在のイラクやイラン北西部を中心にジャライル朝を建てた。アルメニア地域もその勢力圏に組み込まれた。ただしジャライル朝によるアルメニア統治は、強固な中央集権支配ではなかった。アルメニアでは地方有力者や遊牧勢力が依然として強く、ジャライル朝は現地支配者を通じた間接統治に頼ることが多かった。さらに周辺では黒羊朝などのトルクメン諸勢力も台頭し、アルメニアは争奪地域となった。

1386年、ティムール軍はアルメニア地域へ侵入した。ティムールは現地支配者や地方有力者を服属させ、朝貢や軍事協力を求める間接支配を行った。1405年にティムールが死去すると、その帝国は後継者争いによって急速に分裂した。

近世

黒羊朝は15世紀前半に勢力を拡大し、アゼルバイジャンから東アナトリア、アルメニア高原を支配下に置いた。特に1430年代から1460年代頃にかけて、アルメニア地域は黒羊朝の重要な辺境領域となった。黒羊朝の支配者はイスラム教徒だったが、住民の多くを占めたアルメニア人キリスト教徒社会を完全に排除したわけではなく、現地の有力貴族や教会組織を一定程度利用しながら統治した。しかし黒羊朝内部では部族間対立も多く、政治基盤は安定していなかった。

その状況を利用して台頭したのが白羊朝である。15世紀後半、白羊朝は勢力を急拡大し、1467年頃に黒羊朝を決定的に破った。これによってアルメニア地域も白羊朝の支配へ移行した。しかし白羊朝もまた安定した国家にはなれなかった。支配構造が依然として部族連合的であり、内部抗争が激化した。その結果、15世紀末には国家の結束が崩れ始める。

16世紀初頭、新たな勢力としてサファヴィー朝が台頭した。白羊朝を打ち破り、現在のアルメニア地域を含む南コーカサスを支配下に置いた。これによってアルメニアは、新たなイラン系国家の統治下へ入った。そして、サファヴィー朝は西方のオスマン帝国と対立し、アルメニア高原は両国の境界地帯となった。

17世紀になると、アルメニア地域はオスマン帝国とサファヴィー朝の対立の中に置かれた。1639年のズハーブ条約によってアルメニアは両帝国の支配圏に分割され、西部はオスマン帝国、東部はイラン側の支配下へ入った。

18世紀初頭、サファヴィー朝は内部腐敗や軍事力低下によって急速に弱体化し、1722年にはアフガン勢力の侵入で事実上崩壊した。この混乱に乗じてオスマン帝国は東方へ進出し、アルメニア地域の多くを支配下に置いた。

その後、イラン側ではアフシャール朝が勢力を伸ばし、1730年代からオスマン帝国を押し返してアルメニア東部を奪回した。しかし統治者のの死後にはイラン側の統制が再び弱まり、アルメニア東部では地方政権が半独立的に統治を行うようになった。一方、西部は引き続きオスマン帝国が支配した。

カージャール朝は18世紀末にイランを再統一すると、アフシャール朝崩壊後に分裂していたアルメニア地域東部を支配下に置き、間接支配が行われた。

近代

18世紀末から19世紀にかけて、ロシア帝国は黒海・カフカス方面への勢力拡大を進めた。その背景には、南方の不凍港獲得、オスマン帝国とイランへの対抗、さらに正教会・東方キリスト教徒保護を名目とした政治的影響力拡大があった。アルメニア人の一部にも、イスラム諸王朝よりキリスト教国家ロシアの支配を歓迎する期待が存在した。

1804~1813年のロシア帝国とカージャール朝の戦争後、ゴレスターン条約によってロシアは東カフカスの広大な地域を獲得した。しかし当時、アルメニア中心地であるエレバン一帯はなおカージャール朝の支配下に残った。

続く1826~1828年の戦争でロシア帝国はさらに南下し、エレバンを占領した。そして1828年のトルコマンチャーイ条約によって、エレバン・ナヒチェヴァン地域がロシアへ割譲された。

さらに1828~1829年のロシア帝国とオスマン帝国の戦争でもロシアは進出を試みたが、西アルメニア(現在のトルコ東部)は基本的にオスマン支配下に残った。その結果、アルメニア地域は「ロシア領東アルメニア」と「オスマン領西アルメニア」に分断される構造が形成された。この分断は後のアルメニア民族問題の出発点となる。

1828年のトルコマンチャーイ条約以後、アルメニア地域は大きく「ロシア支配下の東アルメニア」と「オスマン支配下の西アルメニア」に分かれた。この分断は、その後のアルメニア史を決定づける構造となった。

1877~1878年の露土戦争でロシア帝国はオスマン帝国に勝利し、講和交渉でアルメニア人保護問題を国際問題として提起した。アルメニア人の間では自治や改革への期待が高まったが、実際の改革はほとんど進まなかった。その結果、民族運動が次第に組織化された。

19世紀末にはオスマン政府がアルメニア民族運動を国家への脅威とみなすようになった。1894~1896年にはハミディエ虐殺が起こり、多数のアルメニア人が殺害された。これによってアルメニア人社会には深刻な不安が広がり、多くの人々が国外へ移住した。

20世紀初頭の青年トルコ革命では一時的に民族平等への期待が高まったが、次第にオスマン政府内でトルコ民族主義が強まった。こうして第一次世界大戦直前には、アルメニア地域は東ではロシア帝国の統治と民族意識の成長、西ではオスマン帝国下での不安定化と民族対立という、対照的な状況に置かれていた。

1914年に第一次世界大戦が始まると、アルメニア地域はロシア帝国とオスマン帝国の戦線となった。オスマン政府はロシア軍の進攻や、一部アルメニア人義勇兵がロシア側に参加したことを警戒し、アルメニア人集団を国家への潜在的脅威とみなして1915年以降、オスマン政府は西アルメニアおよびアナトリア各地のアルメニア人に対し強制移住政策を実施した。移送の過程では数十万から100万人を超える規模の死者が出たと推計されている。この出来事は現在も国際問題とされている。

アルメニア東部では1917年のロシア革命によってロシア帝国が崩壊した。ロシア軍がカフカス戦線から撤退すると、アルメニア地域は政治的空白状態となった。当初はカフカス諸民族の連合政権が試みられたが、民族間の利害対立から短期間で崩壊した。

1918年5月、アルメニア人勢力はオスマン軍の進撃を辛うじて阻止し、独立国家であるアルメニア第一共和国を樹立した。しかし新国家は極めて厳しい状況に置かれていた。領域は狭く、難民が大量流入し、飢餓や疫病も発生した。さらに周辺ではジョージアやアゼルバイジャンとの国境紛争も起こった。

戦後の講和ではアルメニア側に有利な構想も現れた。1920年のセーヴル条約では東アナトリアの広い地域を含む「大アルメニア」案が示された。しかしこの条約は実際には実現しなかった。トルコ民族運動を率いた勢力が軍事的に優勢となり、同時に赤軍も南カフカスへ進出したためである。

1920年末、アルメニア第一共和国は崩壊し、赤軍が進駐した。翌年にはカルス条約によって現在に近いトルコ・アルメニア国境が確定した。アルメニアはその後、アルメニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連体制へ組み込まれた。

1922年にはザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国(アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアの3共和国を統合したソ連内の連邦国家)が成立した。民族独自性よりソ連全体の統制が優先され、宗教活動や民族政治は制限された。また、歴史的にアルメニア人が多く居住した地域の一部がアゼルバイジャン側に編入された問題も残った。ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国は民族問題を完全には解決しないまま、ソ連の統治体制が安定し、経済・行政機構も整備されたことで1936年に解体され、アルメニアは独立したソ連構成共和国であるアルメニア・ソビエト社会主義共和国となった。

第二次世界大戦前夜のアルメニア地域は、西側ではトルコ共和国の支配下でアルメニア人口が大幅に減少し、東側ではソ連構成共和国として再編された状態になっていた。

1941年に第二次世界大戦でドイツがソ連へ侵攻すると、アルメニアは直接の戦場とはならなかったが、重要な人的・後方支援拠点となった。戦後のアルメニアは勝戦国ソ連の一部として復興を進めた。

現代

戦後直後には、ソ連が隣国トルコに対してアルメニア人居住地域の返還を要求する動きも見られた。これは第一次世界大戦中のアルメニア人虐殺問題とも関連していた。ソ連は東部トルコの一部地域の割譲を求めたが、冷戦の進行によりトルコが西側陣営へ接近すると、この要求は実現しなかった。

1960~70年代には経済成長が進んだ。アルメニアは天然資源に乏しかったが、科学技術分野が発展した。ただし、経済発展の裏側では中央集権的な経済構造による非効率や、環境問題も生じていた。

1980年代に入ると、ソ連全体が経済停滞に直面した。さらに1985年にゴルバチョフが改革政策を開始すると、アルメニアでも民族問題が表面化した。その中心となったのが、ナゴルノ・カラバフ問題である。ナゴルノ・カラバフは住民の多数がアルメニア人だったが、行政上はアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国に属していた。

1988年、ナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア系住民はアルメニア共和国への編入を要求した。エレバンでは大規模な支持デモが起こり、民族運動は急速に拡大した。これに対してアゼルバイジャン側でも反発が強まり、両民族間の衝突が発生した。ソ連政府は事態の統制に苦しんだ。

1990年頃にはアルメニアでは独立を求める動きが強まり、1991年に住民投票で圧倒的多数が独立を支持した。そして同年12月のソ連崩壊により、アルメニア地域は約70年間続いたソ連支配を終え、独立したアルメニア共和国となった。

1991年のアルメニア共和国成立時、最大の問題はナゴルノ・カラバフ問題だった。1992~1994年の第一次ナゴルノ・カラバフ戦争では、アルメニア勢力が優勢となり、ナゴルノ・カラバフ本体だけでなく、その周辺のアゼルバイジャン領も占領した。結果として約100万人規模の難民が発生し、アゼルバイジャン人住民の多くが避難した。1994年の停戦後、アルメニアは軍事的勝利を得たが、その代償として地域の孤立が進んだ。特に隣国のトルコは、民族的・政治的にアゼルバイジャンを支持し、1993年にアルメニアとの国境を閉鎖した。アルメニアは西側との陸路をほぼ失い、北のジョージア、南のイランへの依存を強めた。トルコとの関係悪化には1915年のアルメニア人大量虐殺問題も大きく影響していた。

1998年、初代大統領がカラバフ問題で譲歩姿勢を示したことで強い反発を受けて辞任した。その後の政権は、ナゴルノ・カラバフ出身の政治家や軍人が大きな影響力を持つようになった。

2000年代には権力集中が進み、民主化の停滞も指摘された。2008年大統領選挙では不正疑惑が生じ、大規模な抗議活動が発生した。警察と衝突し死者も出た。形式上は民主主義国家だったが、実際には強い大統領権限と政財界の結び付きが問題視された。

外交面では、独立後のアルメニアは長くロシアを安全保障上の最大の後ろ盾としてきた。ロシア軍基地が国内に置かれ、ロシア主導の安全保障機構にも参加した。これはアゼルバイジャンとトルコへの対抗上、現実的な選択だった。しかし2018年、大きな政治転換が起こった。長期政権化を進めようとした政権に対し大規模抗議運動が起こり、いわゆる「ビロード革命」によって新大統領のもと腐敗対策や司法改革が進められた。従来の親ロシア色の強い体制から、より民主主義・欧州志向の傾向が強まった。

2020年の第二次ナゴルノ・カラバフ戦争である。アゼルバイジャンは軍備を大幅に近代化し、特にトルコ製無人機を活用して優勢に戦った。アルメニア側は敗北し、1990年代に獲得した占領地の多くを失った。ロシア仲介で停戦したが、アルメニア国内では政権への激しい批判が起こった。

2023年にはアゼルバイジャン軍がナゴルノ・カラバフ全域を事実上掌握し、現地のアルメニア系住民約10万人がほぼ一斉にアルメニア本国へ避難した。これにより数十年続いた「アルメニア系支配地域」は消滅した。

アゼルバイジャンとの和平交渉も進められている。国境画定や交通路の再開をめぐる協議が続き、近年は一定の進展も見られるが、完全な外交正常化には至っていない。

おわりに

アルメニアの歴史は、古代王国の成立からキリスト教国家としての発展、そして大国による支配と民族的苦難の連続によって形づくられてきた。周囲を強大な帝国に囲まれながらも、独自の言語や宗教、文化を守り続けてきた点は、アルメニア民族の大きな特徴である。

特に301年のキリスト教国教化や、中世アルメニア王国の繁栄は、現在の民族意識の基盤となっている。一方で、オスマン帝国時代のアルメニア人虐殺や、ナゴルノ=カラバフ問題をめぐる対立は、現代政治にも深い影響を与え続けている。

1991年にソ連から独立を果たした後も、アルメニアは安全保障や経済面で多くの課題を抱えている。しかしその一方で、長い歴史の中で育まれた文化や宗教的伝統は今なお強く受け継がれている。アルメニアの歩みを知ることは、コーカサス地域の歴史だけでなく、民族問題や宗教、国際政治を理解する上でも重要な意味を持っているのである。

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