はじめに
アフガニスタンは、中央アジア・南アジア・中東を結ぶ要衝として古くから重要な役割を果たしてきた国である。シルクロードの中継地点として多様な民族や文化が行き交い、その歴史は数多くの王朝や帝国、そして外国勢力との戦いによって形づくられてきた。
特に近代以降のアフガニスタンは、イギリスとロシアによる覇権争い、冷戦下でのソ連侵攻、イスラム勢力の台頭、さらにアメリカ主導の軍事介入など、世界情勢と深く結びつきながら激動の時代を歩んできた。こうした背景から、「帝国の墓場」と呼ばれることもあり、外部勢力に対する強い抵抗の歴史を持つ国として知られている。
また、現在のアフガニスタン情勢を理解するうえでは、タリバン政権の成立や長年にわたる内戦の経緯を知ることが欠かせない。本記事では、古代イスラム王朝から近代国家の成立、ソ連侵攻、タリバン政権、そして現代に至るまで、アフガニスタンの歴史をわかりやすく整理して解説していく。
データ
| 首都 | カーブル |
| 宗教 | イスラム教 |
| 言語 | ダリー語・パシュトゥー語 |
経緯
古代
古代にはアレクサンドロス大王の東方遠征後のギリシア系王国が成立した。
1世紀ごろ、中央アジアの遊牧系集団を起源とするクシャーナ朝がおこった。初期の支配中心は現在のアフガニスタン北部であった。その後、勢力が南へ拡大すると、インド側のプルシャプラ(現在のパキスタン)も政治中心になった。
3世紀前半、イラン高原から出たササン朝は東方への勢力拡大を進め、現在のアフガニスタン地域を支配していた衰退期のクシャーナ朝に進出した。バクトリアなど西部地域を支配下に置き、クシャーノ・ササン朝と呼ばれる総督政権を設置したことで、この地域ではイラン系文化やゾロアスター教の影響が強まった。
7世紀半ば以降、イスラム共同体はササン朝を打倒した後、その東方へ進出し、現在のアフガニスタン地域にも到達し、勢力を広げた。征服は一度で完了したのではなく、山岳地帯や地方勢力の抵抗により長期間続いた。
ウマイヤ朝期には本格的な征服が進み、ホラーサーン総督を通じて統治が行われ、現地支配者を従属させ租税徴収を進めた。都市部ではイスラム化が進んだ一方、仏教やゾロアスター教など既存宗教も一定期間存続し、地域全体のイスラム化は段階的に進行した。
アッバース朝は、ウマイヤ朝支配への不満を背景に成立したが、その革命運動はホラーサーン地方(現在のアフガニスタンを一部含む)を中心に展開された。ただしアッバース家そのものはアフガニスタン出身ではなく、アラブ系家系であり、政治中枢も人口・農業・交易が集中し、旧来の政治中枢にも近いメソポタミアであった。そのため、東部の重要地域としてホラーサーンを中心に統治された。しかし距離が遠く広大であったため、次第に中央の支配力は弱まり、現地の有力者や地方政権の自立が進んだ。
ホラーサーン総督に任命されたターヒルは、その後アッバース朝の当時のカリフと対立し、徴税や軍事を独自に管理するなど事実上独立してターヒル朝を成立させた。9世紀半ば以降、地方豪族の台頭により支配力が弱まった。
873年に南部から登場したサッファール朝はターヒル朝を滅ぼした。
また、サーマーン家はターヒル朝の滅亡に伴い自立し、ホラズム地方に勢力を広げた。900年、南下してサッファール朝を倒し、これを支配下に置いた。
中世
サーマーン朝は広大な領域を維持するため、トルコ系奴隷軍人(マムルーク)を積極的に登用した。その軍人の一人が962年頃にガズナへ移り、現地で独自の勢力を築いた。さらに後継者たちが勢力を拡大し、977年にガズナを中心にガズナ朝を成立させた。その後インド遠征を繰り返し、アフガニスタンからイラン東部、北インドに及ぶ国家へ成長した。しかし11世紀後半以降はセルジューク朝との戦いで西方のホラーサーン地方を失い、勢力は縮小した。最終的に1151年にガズナを失い、1186年にラホール(現パキスタン)も占領されてゴール朝に滅ぼされた。
ゴール朝においても、13世紀初頭には有力地方勢力の自立が進み、さらにホラズム朝の攻撃を受け、1215年頃までに滅亡した。
ホラズム・シャー朝は11世紀末に中央アジアのホラズム地方で成立し、12〜13世紀初頭に急成長した。アフガニスタン地域ではゴール朝衰退後に勢力を広げ、ホラーサーンやガズナを支配下に置いた。
1220年、チンギス・ハン率いるモンゴル軍は、ホラズム・シャー朝への報復戦争の過程で現在のアフガニスタンへ侵入した。その後、アフガニスタン地域はモンゴル帝国の一部として組み込まれたが、帝国が分裂すると地域ごとに支配勢力が変化した。北西部や西部は主にイルハン朝の影響下に入り、一方で北部や東部ではチャガタイ・ハン国の勢力が及んだ。
14世紀半ばになるとイルハン朝は内部抗争によって崩壊し、アフガニスタン西部では地方勢力が自立した。
一方、チャガタイ・ハン国でも分裂と内紛が進み、アフガニスタン北部・東部では支配力が低下した。
こうした混乱の中で中央アジアの軍事指導者 ティムールが勢力を拡大し、1380年代頃までにアフガニスタン主要地域を支配下に組み込んだ。
近世
アフガニスタン地域では、14世紀後半にティムールが支配を確立し、各地を統一した。その死後もティムール朝の重要地域として維持され、とくにヘラートは15世紀に政治・文化の中心として発展した。しかし15世紀末になると、後継争いが激化し、地方支配が弱体化した。16世紀初頭にはその混乱の中で中央アジアのウズベク勢力が進出し、ティムール朝の支配を圧迫した。1507年にはヘラートを占領してティムール朝のアフガニスタン支配は終焉し、北部を中心にウズベク勢力が大きな影響力を持つようになった。
西方では急速に勢力を伸ばしていたサファヴィー朝が台頭していた。創設者のイスマーイール1世はイラン統一を進め、1510年のメルヴの戦いでウズベク勢力の長を破って戦死させた。この勝利によりサファヴィー朝はヘラートを含むアフガニスタン西部へ進出し、地域支配を拡大した。一方、ウズベク勢力自体が消滅したわけではなく、北方の中央アジアに拠点を残して再編され、ブハラ方面を中心に勢力を維持した。その後も北部アフガニスタンではウズベク勢力とサファヴィー朝が対立を続け、アフガニスタンはイラン側勢力と中央アジア勢力の境界地域としての性格を強めていった。
また東部のカンダハール周辺は、後にインドのムガル帝国とも争奪対象となり、アフガニスタンは三方面の勢力が交差する地域となった。17世紀末から18世紀初頭には地方支配が弱体化し、1722年にアフガニスタンの反乱勢力が首都イスファハーンを占領してサファヴィー朝は崩壊へ向かった。
その後、軍事指導者 ナーディル・シャーがサファヴィー家の復興を名目に勢力を拡大し、アフガニスタン方面への遠征を進めた。1730年代までにヘラートやカンダハールを奪回し、アフガニスタン地域を再びイラン側勢力の支配下へ組み込んだ。1736年、ナーディル・シャーは自ら即位してアフシャール朝を成立させた。アフガニスタン地域はその東方防衛とインド遠征の重要拠点となり、多くのアフガン系兵士も軍に組み込まれた。しかし1747年にナーディル・シャーが暗殺されると、急速に統制が崩れた。アフガニスタンでは権力の空白が生まれ、ナーディル軍に属していたアフガン人有力者 アフマド・シャー・ドゥッラーニーが自立し、後のアフガニスタン国家形成へつながっていった。
しかし創始者の死後は後継者争いと部族対立が激化し、中央統制が弱体化した。
近代
1826年にはバーラクザイ朝が成立し、国内支配を引き継いだ。バーラクザイ朝の君主は「王(シャー)」ではなく「アミール(首長)」を称した。
19世紀になると、アフガニスタンは中央アジアへ南下するロシア帝国と南のインドを支配するイギリス帝国による覇権争いの舞台となる。特にインドを支配していたイギリスは、ロシアの南下を警戒してアフガニスタンへの介入を強めた。
1838年には第一次アフガン戦争が勃発し、イギリス軍が侵攻した。しかし、山岳地帯を利用した激しい抵抗に遭い、イギリス軍は大きな損害を出して撤退を余儀なくされた。
続く第二次アフガン戦争ではイギリスが再び軍事介入し、1880年にはアフガニスタンは事実上イギリスの保護国となった。ただし、完全植民地化には至らず、一定の自治権は維持された点に特徴がある。
1919年、第三次アフガン戦争の結果、アフガニスタンはイギリスから外交権を獲得し、独立国家として国際的に認められた。
完全独立を回復した後もアフガニスタン首長国のままだった。しかし、国家の独立と主権強化を国内外に示す目的から、1926年には王制へ移行してアフガニスタン王国となる。
第二次世界大戦では、基本的には「中立外交」で乗り切りました。1933年に即位した ザーヒル・シャー の時代、政府はイギリス・ソ連・ドイツなど複数国と関係を築き、一国への依存を避ける政策を採った。第二次世界大戦中は公式には参戦せず、中立を維持した数少ない国の一つだった。 1941年にイギリスとソ連がイランへ進駐すると、アフガニスタンも圧力を受け、ドイツ人顧問らを国外退去させて慎重な姿勢を取った。こうして大国の衝突を回避した。
現代
戦後はさらに均衡外交を発展させ、冷戦下ではソ連とアメリカ双方から経済援助やインフラ支援を受けた。道路や教育制度の整備が進んだ一方で、急速な改革は都市部と農村部の格差や政治的対立も生んだ。1960年代には立憲政治が導入されたが、政党政治は安定せず、経済停滞や干ばつによる不満も拡大した。こうした中、1973年に国王 モハンマド・ザーヒル・シャー が外遊中、従兄で元首相の モハンマド・ダーウード・ハーン が無血クーデターを起こし王政を廃止した。これにより約200年以上続いた王制は終焉し、アフガニスタン共和国が成立した。
1973年に王政を打倒して成立した アフガニスタン共和国 では、モハンマド・ダーウード・ハーン が近代化と権力集中を進めた。当初はソ連と協力関係にあったが、次第にソ連依存を減らし、アラブ諸国や西側諸国との関係強化を図ったため、国内の親ソ勢力との対立が深まった。また政治的抑圧や経済停滞によって不満も拡大した。1978年、軍内の親ソ派が中心となって サウル革命 を起こし、ダーウード政権は崩壊した。その後、アフガニスタン民主共和国 が成立し、親ソ政権が誕生した。
翌1979年、ソヴィエト連邦が軍事介入を開始し、親ソ政権を支援した。アメリカ合衆国 と パキスタン は、ソビエト連邦 の影響力拡大阻止を目的に、アフガニスタンの反政府武装勢力(ムジャーヒディーン)を支援した。パキスタンは武器や人員の中継拠点となり、アメリカは資金や兵器を供与した。これによりアフガニスタンは冷戦の代理戦争の舞台となった。
1987年にはイデオロギー色を弱めるため、国名は アフガニスタン民主共和国 から アフガニスタン共和国 に変更された。
ソビエト連邦 は長期化する戦争負担や国内経済の悪化に直面し、1988年の和平合意を経て1989年にアフガニスタンから撤退した。しかし親ソ政権自体は直ちに崩壊せず、モハンマド・ナジーブッラー は国民和解政策を掲げて政権維持を図った。しかし1991年にソ連が崩壊すると、経済援助や軍事支援が急減し、政権の基盤は大きく弱体化した。各地の反政府勢力が攻勢を強めた結果、1992年にナジーブッラー政権は崩壊し、アフガニスタンは武装勢力間の内戦へ移行した。
1992年に親ソ政権が崩壊すると、アフガニスタンではムジャーヒディーン諸派が権力を争い、首都カーブルでも激しい内戦が続いた。この混乱の中で、パキスタン国境地域の宗教学校出身者を中心とする ターリバーン が1994年に台頭し、治安回復と秩序回復を掲げて勢力を拡大した。1996年にはカーブルを制圧してアフガニスタン・イスラム首長国の樹立を宣言した。
2001年の アメリカ同時多発テロ事件 後、アメリカやイギリスが介入し、北部同盟の支援を受けた国際部隊はタリバン政権を崩壊させ、その後カルザイ暫定政権が成立する。2004年には新憲法が制定され、国名はアフガニスタン・イスラム共和国へ改称された。
さらに2014年には、アフガニスタン史上初となる民主的な政権交代が実現し、国家統一政府が発足した。これは長年続いた内戦と混乱の中で、平和的な政治移行への重要な一歩とみなされた。
しかし、ターリバーンは再び勢力を回復し、2021年にカーブルを掌握して再び政権を握り、現在に至っている。
おわりに
アフガニスタンの歴史は、周辺大国の思惑と国内の民族・宗教対立が複雑に絡み合うことで形成されてきた。古代から交易路の要衝として栄えた一方で、外部勢力による侵攻を何度も受け、それに対抗する中で独自の国家意識を築いてきたのである。
19世紀のイギリスとの戦争、20世紀後半のソ連侵攻、さらに21世紀初頭のアメリカ主導の軍事介入は、いずれもアフガニスタン社会に大きな影響を与えた。特に長年続いた内戦と政権交代は、政治・経済だけでなく、人々の日常生活にも深刻な変化をもたらしている。
しかしその一方で、アフガニスタンは多様な民族文化と長い歴史的伝統を持つ国でもある。同国の歴史を学ぶことは、中東や中央アジアの国際関係を理解するだけでなく、現代世界における宗教、民族、国際政治の問題を考える上でも大きな意味を持っているのである。

