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世界史|インド

世界史

はじめに

インドは世界最大級の人口を抱える国家であり、古代から現代に至るまで多様な民族・宗教・文化が交差してきた地域である。

その歴史は、インダス文明に始まり、アーリア人の進出、仏教とヒンドゥー教の発展、イスラム王朝の成立、ムガル帝国の繁栄、ヨーロッパ列強の進出、イギリス植民地支配、そして独立後の民主国家建設へと続いている。

また、インド史は単なる一国の歴史ではない。仏教の東アジアへの伝播、インド洋交易を通じた国際交流、イスラム世界との接触、ヨーロッパ諸国の植民地拡大など、世界史全体に大きな影響を与えてきた。

本記事では、古代のインダス文明から現代のインド共和国に至るまで、およそ5000年にわたる歴史の流れをできるだけわかりやすく整理しながら解説する。

歴史

古代

文明成立以前の紀元前7000年頃には、現在のパキスタン西部の メヘルガル に農耕・牧畜社会が成立していた。

紀元前2600年頃になると地域内の集落が発展して本格的な都市文明が形成された。代表的な都市には モヘンジョダロ、ハラッパー、ドーラーヴィーラー などがある。現在のパキスタンからインド北西部に広がった青銅器文明である。主にインダス川流域とその支流地域を中心に発展した。この文明を築いた民族については確定していない。

紀元前1900年頃から文明は衰退し始めた。

紀元前1500年頃までに中央アジア方面からアーリア人が北西インドへ進出し、パンジャーブ地方を中心に定住した。彼らはサンスクリット語を話した。彼らの社会では、自然現象を神格化した多神教的信仰が行われていた。神々への供物や祭祀をまとめた聖典群が『ヴェーダ』であり、この時代をヴェーダ時代という。祭祀を司ったのが後のバラモンである。

インダス文明の住民の一部はアーリア人と融合し、一部は南方へ移動したと考えられている。征服や移住が進むにつれ、先住民との支配・被支配関係が生まれた。その中で形成されたのがヴァルナ制度である。ヴァルナとは「色」を意味し、社会は以下の四つの身分に分類された。バラモン(司祭)、クシャトリヤ(戦士・王族)、ヴァイシャ(農民・牧畜民・商人)、シュードラ(被支配民・労働者)。最初の三身分は主としてアーリア人が占め、征服された先住民の多くはシュードラに組み込まれたとされる。ただし時代が進むと民族的区別は薄れ、社会的身分制度へ変化した。

紀元前1000年頃以降、アーリア人はガンジス川流域へ進出した。人口が増加し、小規模な部族社会から領域国家へ移行していく。そして、祭祀はますます複雑化し、バラモンの権威が上昇して成立した宗教がバラモン教である。

紀元前6世紀頃になると、ガンジス川中流域では多数の国家が成立した。特に有力だったのが マガダ国 や コーサラ国 である。

農業や商業の発展によって商人層が力を持つようになったが、ヴァルナ制度では高い地位を得られなかった。また戦士階級であるクシャトリヤの中にも、バラモン優位の社会への不満が広がった。こうした状況の中で、バラモン教を批判する新しい思想運動が現れた。その代表がジャイナ教と仏教である。ジャイナ教を創始したのは ヴァルダマーナ である。彼はクシャトリヤ出身で、バラモンの祭祀に頼らず、自らの修行によって魂を解放できると説き、徹底した不殺生を重視した。仏教を創始したのが ガウタマ・シッダールタ である。彼もクシャトリヤ出身であり、人間の苦しみは欲望から生まれると考え、八正道による解脱を説いた。仏教はヴェーダの権威や身分制度を絶対視せず、誰でも修行によって救済されると主張した。

紀元前4世紀後半、アレクサンドロス3世 の遠征によって北西インドはギリシア世界と接触した。その後、紀元前317年頃に成立した マウリヤ朝 は北インドの大部分を統一し、特に アショーカ王 の時代には仏教が厚く保護され、仏教が発展した。しかし、アショーカ王の死後にマウリヤ朝が衰退すると、仏教への国家的支援も弱まった。

地方社会に根付いていたバラモンたちは依然として大きな影響力を持ち続けていた。バラモン教は仏教やジャイナ教との競争の中で変化する。元来バラモン教は、ヴェーダに基づく複雑な祭祀を重視していた。しかし一般民衆はより身近な信仰を求めた。その結果、各地の土着神や民間信仰を積極的に取り込みながら発展していく。紀元前後から数世紀にかけて、先住民信仰や地方信仰と融合する形で、ヴィシュヌ神(宇宙の維持者)やシヴァ神(破壊と再生を司る)への信仰が広がり、また女神信仰も盛んになった。さらに『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』といった大叙事詩が成立した。特に『マハーバーラタ』は、神への献身(バクティ)による救済を説いた。宗教思想も大きく変化し、紀元前後までに成立したウパニシャッド哲学では、祭祀よりも精神的修養や真理の探究が重視された。その結果、古い祭祀中心のバラモン教は、ヴェーダの権威を維持しつつも、シヴァ神・ヴィシュヌ神・女神信仰、輪廻転生思想、バクティ信仰、土着信仰などを取り込んだ包括的な宗教体系となった。これが後にヒンドゥー教と呼ばれるものである。ヒンドゥー教は特定の創始者を持たず、成立年も明確ではない。紀元4〜6世紀の グプタ朝 の時代には、ヒンドゥー教が国家の保護を受けるようになる。グプタ朝の君主たちは主としてヴィシュヌ神を崇拝し、神殿を建設した。

一方、仏教は当初こそ北インドで繁栄したが、ヒンドゥー教が民衆信仰を柔軟に吸収したことで次第に勢力を失った。さらに中世以降の政治的変動も重なり、インド本土では衰退していく。ただし仏教は スリランカ、中国、日本、チベット などへ広がり、世界宗教として発展した。

南インドに話を移す。民族的には、南インドの住民の多くはドラヴィダ系を祖先とするものと考えられている。紀元前1000年頃から紀元前300年頃にかけて、鉄器の普及とともに農業生産力が向上し、各地で首長国的な政治勢力が成長した。この時代には巨石文化が広く見られ、大型の石を用いた墓が各地に築かれた。こうした社会は血縁や部族を基盤とするもので、まだ統一的な国家は存在しなかった。宗教面では、自然崇拝や祖先崇拝、戦士や豊穣を司る地方神への信仰が中心であった。

紀元前3世紀になると、先述のとおり北インドではマウリヤ朝が成立しデカン高原北部まで勢力を広げたが、南インド最南端までは直接支配できなかった。アショーカ王の碑文にはチェーラ朝、チョーラ朝、パーンディヤ朝など南インド諸国の名が見られ、これらは独立国として扱われている。

チェーラ朝は現在のケーララ州(インドの南西部)を中心として成立した。統治は王を中心とするが、地方豪族の自立性が強く、中央集権国家ではなかった。3世紀頃になると衰退した。

チョーラ朝はカーヴィリ川流域を中心とするタミル地方東部に成立した。王は軍事指導者として諸豪族を統率したが、実際には地方支配者の協力による連合王国的な性格が強かった。3世紀頃には勢力を失った。

パーンディヤ朝は南インド最南端のマドゥライ周辺を支配した王朝である。中央集権化は限定的であった。

チェーラ、チョーラ及びパーンディヤの三王朝の衰退後、タミル地方では歴史記録が乏しい時期に入った。諸勢力が各地を支配したと考えられている。4世紀頃になるとタミル地方北部からパッラヴァ朝が台頭した。パッラヴァ朝はインド南東部のチェンナイからカーンチープラムを中心に勢力を拡大した。

インド中部に話を移す。紀元前185年頃に北インドを中心領域とするマウリヤ朝が滅亡すると、北インドでは シュンガ朝 が成立したが、中部のデカン地方には中央政府の支配が及ばなくなった。この中で成立したのがサータヴァーハナ朝である。この王朝はドラヴィダ系とアーリア系の要素を併せ持つ国家であり、領域は現在のマハーラーシュトラ州からアーンドラ•プラデーシュ州に及んだ。しかし3世紀頃になると地方勢力が自立し、王朝は分裂・滅亡した。

その後、デカン地方では複数の地域王朝が台頭した。東部にはイクシュヴァーク朝が成立した。王朝はバラモン教を保護する一方で仏教寺院の建設も支援し、多様な宗教文化が共存した。しかし4世紀初頭には衰退し、西部では地方勢力が独立した。デカン地方全体を統一する勢力は現れなかった。

北インドに戻る。4世紀初頭のクシャーナ朝衰退後、多くの小国家が並立していた。こうした状況の中、ガンジス川中流域のマガダ地方を拠点とするグプタ家(アーリア人と考えられている)が勢力を拡大し、チャンドラグプタ1世が320年頃にグプタ朝を成立させた。続くサムドラグプタは優れた軍事指導者であり、デカン高原から南インド東岸にかけての諸王国へ進軍してパッラヴァ朝を含む多くの王国を破ったが、直接併合は行わず、服属と朝貢を認めて王位を保持させた。

4世紀後半から5世紀初頭にかけてのチャンドラグプタ2世の時代、王朝は最盛期を迎えた。西方へ進出してグジャラート地方やアラビア海沿岸を支配下に収めた。この時期のグプタ朝の領域は、西はグジャラート地方、東はベンガル地方、北はヒマラヤ山麓、南はナルマダー川流域に及んだ。

5世紀後半になると王朝は次第に衰退へ向かった。最大の要因は中央アジアから侵入したエフタルの圧力であった。さらに、王位継承争いや地方豪族の自立化が進み、中央政府の統制力は急速に低下した。

6世紀初頭にはエフタル勢力が北西インドへ本格的に進出した。王朝はなお存続したものの、その支配はガンジス川流域の一部に限定されるようになり、各地では独立勢力が台頭した。やがて6世紀半ばまでにグプタ朝は事実上滅亡し、北インドは再び分裂状態へと戻った。

6世紀前半になると、北インドの諸勢力がエフタルを打ち破った。エフタルの支配は急速に崩壊した。その後の北インドでは、多くの地方王朝が覇権を争う群雄割拠の状態が続いた。

こうした状況の中で台頭したのが、現在のハリヤナ州(インド北西部)周辺から台頭したヴァルダナ家である。6世紀後半に勢力を拡大し始めた。そして、ハルシャは606年頃に即位すると、ガンジス平原の諸勢力を次々と服属させ、カナウジを首都と定めた。ハルシャは最終的にはパンジャーブ地方からガンジス中下流域に至る広大な地域を支配下に置いた。ただし、地方王や豪族の自治権は依然として大きく、各地の支配者は臣従と引き換えに一定の独立性を維持していた。また、南インドへの進出も試みたが、630年頃、デカン地方のチャールキヤ朝に敗れ、ナルマダー川以南への勢力拡大には失敗した。宗教面では宗教的寛容を維持した。この時代には中国から僧の 玄奘 が来訪している。

インド中部に移る。当時のデカン地方では、かつて強大だったサータヴァーハナ朝の崩壊後、多数の地方勢力が並立していた。チャールキヤ家はその中から勢力を伸ばし、周辺諸国を征服して6世紀半ばにプラケーシン1世がチャールキヤ朝を成立させた。首都は現在のカルナータカ州にあるバーダーミ。

王朝の最盛期を築いたのは7世紀前半のプラケーシン2世である。彼は北のナルマダ川流域から南のカーヴィリ川方面まで支配権を広げ、デカン地方の覇者となった。当時、北インドではヴァルダナ朝のハルシャが北インド統一を進めていたが、630年頃、プラケーシン2世はナルマダー川付近でその南下を阻止した。この戦いにより、北インドとデカン地方の政治的境界が明確になったとされる。

一方でチャールキヤ朝は南インドのパッラヴァ朝と長期間対立した。642年頃には首都バーダーミが陥落し、プラケーシン2世も戦死したと考えられている。

その後、王朝は一時衰退したが、7世紀後半に再建され、再びデカン地方の有力勢力となった。しかし8世紀に入ると地方豪族の勢力が強まり、753年頃に家臣であったラーシュトラクータ朝の創始者ダンティドゥルガによって滅ぼされた。

南インドに移る。パッラヴァ朝は、4世紀頃から首都を現在のタミル・ナードゥ州カーンチープラムにおいて成立した。パッラヴァ朝の起源は明確ではないが、サータヴァーハナ朝の衰退後に南インド東部で勢力を伸ばした地方豪族から発展したと考えられている。6世紀後半から7世紀にかけて王朝が本格的に発展し、その後最盛期を迎えた。当時、デカン高原ではチャールキヤ朝が勢力を拡大しており、両国は南インドの覇権を争った。642年頃にはチャールキヤ朝の首都を占領し、パッラヴァ朝は南インド有数の強国となった。

宗教面ではヒンドゥー教、とくにシヴァ神やヴィシュヌ神への信仰が盛んだった。一方で仏教やジャイナ教も一定の保護を受けており、多様な宗教文化が共存していた。

8世紀以降になると、デカン地方のラーシュトラクータ朝との戦争や、タミル地方で勢力を回復したチョーラ朝の圧力を受けて徐々に衰退した。そして9世紀末、チョーラ朝の王アーディティヤ1世によって征服された。

中世

北インド及びインド中部に戻る。ヴァルダナ朝のハルシャが後継者を残さず死去すると王朝は急速に崩壊した。その後、多数の地方勢力が分立する時代に入った。

8世紀になると、北インドでは新たにプラティーハーラ朝が台頭した。この王朝は現在のラージャスターン地方(インド北西部)から勢力を広げ、西方から侵入してきたアラブ勢力を撃退した。一方、ベンガル地方(インド北東部)ではパーラ朝が成立し、仏教保護政策を進めながら勢力を拡大した。さらにデカン高原ではラーシュトラクータ朝が強大化し、北インドにも進出した。

最終的にはプラティーハーラ朝が優勢となり、9世紀には北インド最大の勢力となったが、三国の長期抗争によっていずれも消耗した。10世紀後半以降、プラティーハーラ朝が衰退すると北インドは再び分裂状態となった。各地ではラージプート諸王朝が成立した。

その頃、西方では中央アジア系のイスラム勢力が勢力を拡大していた。11世紀にはガズナ朝のマフムードが繰り返し北インドへ侵攻し、12世紀末にはゴール朝がラージプート諸王朝を破った。その後1206年、ゴール朝の将軍アイバクがデリー諸王朝の最初の王朝である 奴隷王朝 を建国し、北インドはイスラム王朝の時代へ移行した。

デカン高原においては、973年、チャールキヤ家のターヤラパ2世が、ラーシュトラクータ朝 を倒してカリヤニ•チャールキヤ朝(途中から首都カリヤニ)を建国した。6~8世紀に栄えた初期チャールキヤ朝とは別系統だが、その後継者を自称した。現在のカルナータカ州(インド南西部)を中心に、マハーラーシュトラ南部(カルナータカ州の北)やアーンドラ地方(カルナータカ州の東)西部まで勢力を広げた。

11世紀になると南方の チョーラ朝 との対立が激化した。宗教面ではヒンドゥー教が中心で、特にシヴァ派とヴィシュヌ派が保護された。一方でジャイナ教にも寛容であり、多様な宗教が共存していた。

12世紀後半になると王権は衰退し、地方の有力諸侯が自立を強めた。最終的に1189年頃に王朝は崩壊した。

南インドに戻る。9世紀後半、チョーラ朝の王ヴィジャヤーラヤはパッラヴァ朝とパーンディヤ朝の争いに乗じて勢力を拡大した。その子アーディティヤ1世はパッラヴァ朝を滅ぼし、タミル地方の大部分を支配下に置いた。10世紀には北方のラーシュトラクータ朝との戦争で苦戦し、一時的に衰退した。しかし10世紀末に盛り返し、パーンディヤ朝やチェーラ朝を服属させ、スリランカ北部まで征服した。続くラージェーンドラ1世の時代には北インドのガンジス川流域への遠征を成功させ、領土が最大となった。1025年頃には東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国へ海軍遠征を行い、マラッカ海峡の交易路に大きな影響力を及ぼした。13世紀になると王朝の衰退が明確となり、南部では復興したパーンディヤ朝が急速に勢力を回復させた。そして1279年、最後の王ラージェーンドラ3世の死後、王朝は事実上消滅し、その領土はパーンディヤ朝に吸収された。

北インドに戻る。奴隷王朝はトルコ系軍人による王朝であり、首都デリーを拠点にガンジス川流域へ勢力を拡大し、ラージプート勢力(ヒンドゥー系の武人・戦士貴族階)やベンガルの地方政権と交戦した。

1290年にはトルコ系貴族に代わり ハルジー朝 が成立した。アラーウッディーン・ハルジー はモンゴル軍の侵攻を撃退しながら、デカン高原へ大規模遠征を行い、インド亜大陸の大部分へ影響力を及ぼした。しかし南部は直接統治ではなく朝貢関係に近かった。

1320年には トゥグルク朝 が成立した。特に ムハンマド・ビン・トゥグルク は全インド支配を目指し、首都をデリーからデカン高原へ移そうとするなど大胆な政策を実施した。しかし急進的な改革は失敗し、各地で反乱が発生した。その結果、南インドでは1336年に ヴィジャヤナガル王国 が成立し、さらに1347年には バフマニー朝 が独立した。

インド中部に移る。14世紀前半、北インドの トゥグルク朝の政策は失敗し、各地で反乱が続発した。デカン地方に駐屯していたトルコ系・アフガン系・ペルシア系のイスラム軍人や官僚が中央政府への不満を強め、1347年に独立を宣言してバフマニー朝が成立した。

バフマニー朝は現在のマハーラーシュトラ州南部、カルナータカ州北部、テランガーナ州を中心とするデカン高原の広大な地域を支配した。

宗教的にはスンナ派イスラム王朝として出発したが、支配層には多様な民族が存在した。中央アジアやイランから移住した者と、古くからインドに定着したイスラム教徒が対立することも多かった。一方で住民の大多数はヒンドゥー教徒であった。そのため多民族・多宗教国家としての性格を持っていた。

建国直後から最大の敵となったのが南方の ヴィジャヤナガル王国 であり、150年以上にわたって断続的な戦争を繰り返した。

南インドに移る。14世紀初頭、 14世紀前半、北インドの トゥグルク朝の政策は失敗し、各地で反乱が続発した。1336年に兄弟の ハリハラ1世 と ブッカ1世 がトゥンガバドラ川流域で独立し、ヴィジャヤナガル王国を建国した。首都はヴィジャヤナガル(現ハンピ )。

宗教的背景としてはヒンドゥー教勢力の復興が重要である。王国はシヴァ派やヴィシュヌ派を保護した。

14世紀後半になるとヴィジャヤナガルは急速に拡大し、タミル地方やカンナダ地方を統合した。

近世

北インドに戻る。1398年には中央アジアからティムール が侵攻し、デリーは略奪された。この侵攻によって北インドは再び分裂状態に陥った。

1414年にサイイド朝 が成立した。その後、サイイド朝は急速に弱体化し、1448年にはアーラム・シャーがデリーを放棄。

1451年、シルヒンドの支配者だったバフルール・ローディーがデリーに入城して即位し、 ローディー朝 を開いた。

サイイド朝、ローディー朝の両王朝とも支配力は限定的で、ベンガル(東部)、グジャラート(南西部)、マールワー(中部)、ジャウンプル(北部)など北インド各地に独立したイスラム王国が並立した。またラージプート諸侯も勢力を回復し、メーワール王国(ヒンドゥー教)が強力な勢力となった。

16世紀初頭、ローディー朝ではアフガン系諸侯の対立が激化し、国内は混乱した。この状況を利用して中央アジアのティムール家出身の バーブル が、カーブル(現アフガニスタン)からインドへ侵攻する。1526年にローディー朝を破り、デリーを占領した。これによってムガル帝国 (首都デリー)が成立した。

インド中部に戻る。バフマニー朝では15世紀後半以降、イラン系の影響が強まり、シーア派色が次第に濃くなった。その改革は既得権層の反発を招き、王朝内部の対立が激化した。

その結果、15世紀末から16世紀初頭にかけて地方総督が次々と独立した。後にデカン・スルタン諸国と呼ばれる ビジャープル王国 、 アフマドナガル王国 、 ゴールコンダ王国 などが成立し、バフマニー朝は名目上の存在となった。

1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがインド西海岸のカリカット(現コジコード)に到達した。当時のカリカットは、南インドのヒンドゥー国家(ヴィジャヤナガル王国とは異なる勢力)の支配下にあった。この国家は港湾国家であり、アラブ人・ペルシア人・グジャラート商人など多様な商人を保護して繁栄していた。そして、インド側にとってポルトガル人の到来は「未知の世界から来た初めての外国人」ではなく、新たな外国商人集団の来訪として受け止められた。ガマが到着した際、基本的には歓迎の姿勢を示した。なぜなら、カリカットの繁栄は外国商人の流入によって支えられており、新たな交易相手が増えることは利益につながると考えられたからである。しかし、ガマはイスラム商人を排除し、香辛料貿易を独占するための特権的地位を求めていた。結局、ガマは独占的通商権を得られず帰国した。

その後、ポルトガルは武力を用いて交易路の支配を目指し、1500年以降にはカリカット周辺で艦隊を派遣して商船を攻撃するようになる。

インド中部に位置するゴアは、バフマニー朝の崩壊後1490年に成立したビジャープル王国(イスラム教スンナ派)の支配下にあった。そして、同王国はヴィジャヤナガル王国(ヒンドゥー教)と激しく対立していた。この時、ゴア周辺にはビジャープル王国の統治に不満を持ち、ヴィジャヤナガル王国とも関係を有する、ヒンドゥー系海上勢力がいた。この勢力はポルトガル総督に接触し、ゴアを攻略すれば協力する旨交渉した。1510年3月、ポルトガルはゴアを攻撃した。当時、ビジャープル王国は内陸で軍事行動を行っており、ポルトガル軍は比較的容易にゴアを占領した。しかしビジャープル王国は直ちに反撃を開始し、ポルトガルは5月にはゴアから撤退した。

1510年11月、ポルトガルは再度ゴアを占領した。こうしてゴアはポルトガル領となった。ポルトガルは、イスラム教国を共通の敵と認識するヴィジャヤナガル王国とは友好的な関係を保った。

南インドに移る。16世紀、ヴィジャヤナガル王国はクリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(在位1509~1529年)のもと最盛期を迎える。デカンのイスラム諸国との戦争に勝利し、東海岸のアーンドラ地方を支配下に置いた。しかし、その死後、王国は徐々に衰退へ向かう。そして、デカン諸国は結束し、1565年の戦いでヴィジャヤナガルは敗北した。勝利したデカン諸国連合軍により、首都ヴィジャヤナガルは略奪・破壊しされた。

王族は南方へ逃れ政権を維持したが、首都と経済基盤を失ったことで中央集権体制は崩壊した。各地の領主は事実上独立した。

最終的に1646年頃王国の実体はほぼ消滅した。

その後、16世紀から17世紀にかけて、諸勢力が並立した。

北インドに戻る。1526年にデリー周辺で成立したムガル帝国は、1527年にはラージプート勢力に勝利し、北インド支配の基礎を固めた。

1530年にバーブルが死去すると息子のフマーユーンが即位した。しかし、1540年にフマーユーンは敗北してインドから追放され、ムガル帝国は一時的に滅亡した。しかし、フマーユーンは亡命先のサファヴィー朝から支援を受けて勢力を回復し、1555年にデリーを奪還した。しかし翌年に死亡し、幼い息子のアクバルが即位した。

1561年にはマールワー王国を征服し、1568年にはラージプートの象徴であったチットール要塞を攻略してメーワール王国を大きく弱体化させた。西方では1572~1573年にグジャラートを滅ぼし、スーラトなどの重要港湾を獲得した。東方では1574~1576年にベンガルを征服した。

1586年にはカシミール、1591年頃にはシンド地方の諸勢力を服属させた。

南方への進出はデカン高原のイスラム諸王国との戦争であった。アクバルは1600年にアフマドナガル王国の首都を攻略し、北デカンへの足場を築いた。

宗教面ではスンナ派ムスリムでありながら、ヒンドゥー教徒への人頭税を廃止し、異教徒を積極的に登用した。

1605年にアクバルが死去すると、息子のジャハーンギールが即位した。大規模征服は少なかったが、メーワール王国を圧迫し、1615年に和約を結ばせて事実上従属させた。北西ではペルシアのサファヴィー朝との対立が続いた。特にカンダハール(現アフガニスタン)をめぐって争いが発生し、1622年にはサファヴィー朝に奪われた。

1628年にはシャー・ジャハーンが即位した。彼の時代にはタージ・マハルが建設された。デカンへの圧力を強め、1636年にアフマドナガル王国を完全滅亡させた。またビジャープル王国とゴールコンダ王国を朝貢国化したしかし北西方面ではサファヴィー朝からカンダハール奪還を試みて失敗した。

1657年、シャー・ジャハーンが病に倒れると皇子たちによる後継者戦争が勃発した。三男のアウラングゼーブは有能な軍人であり、より正統派イスラム的な立場を取っていた。1658年に兄弟たちを打ち破り、父を幽閉して実権を掌握した。南インド征服を目指し、1686年ビジャープル王国を滅ぼし、翌1687年にはゴールコンダ王国を征服した。これによりデカンの主要イスラム諸国は消滅し、ムガル帝国はインド亜大陸のほぼ全域を支配下に置いた。

しかし同時期、ヒンドゥー勢力であるマラーター同盟が急成長した。アウラングゼーブが1707年に死去した時、帝国の領土は最大となっていたが、過度の征服戦争による財政悪化と地方反乱によって衰退の兆候も現れていた。

ヨーロッパ各国の進出に話を移す。

イギリスについて。1600年に設立された イギリス東インド会社⁠は、1608年頃からムガル帝国と接触した。1613年にはムガル帝国支配下のグジャラートのスーラトに商館を設置し、皇帝から通商権を獲得した。その後、1639年には地方支配者から南インドのマドラス(現チェンナイ)を借り受けた。さらに1661年には、ポルトガルからボンベイ(現ムンバイ)を譲り受けた。1690年にはベンガル大守との交渉を通じてカルカッタ(現コルカタ)を建設した。

オランダについて。1602年に設立された オランダ東インド会社⁠は、香辛料貿易を目的にインドへ進出した。オランダはコロマンデル海岸のプリカット(東部)を拠点とし、支配していたヴィジャヤナガル王国の後継勢力から活動許可を得た。またベンガルやマラバール海岸にも商館を置いた。彼らはポルトガル勢力を海上で圧迫したが、主力はインドネシア方面に向けられていたため、インド内陸への進出は限定的だった。

フランスも1664年に フランス東インド会社⁠を設立し、1674年にポンディシェリ(南インド東部)を獲得した。この地域は当時、デカンのビジャープル王国の影響下にあり、現地総督の許可によって商館が設置された。その後フランスはシャンデルナゴル(ベンガル地方)にも拠点を持った。

ムガル帝国に戻る。1707年、アウラングゼーブが死去し、各地で地方勢力が自立する。

西インドではマラーター同盟(ヒンドゥー教)が急成長した。マラーター同盟は、17世紀にシヴァージーがデカン地方西部で1674年に建国したマラーター王国を起源とし、その後有力家門が緩やかに結束する連合体へ発展しながらムガル領へ進出し、18世紀半ばにはインド中部の覇権勢力となった。

北西部のパンジャーブ地方ではシク教徒の軍事組織が発展し、後のシク王国成立(1801年)の基盤が形成された。

デカン高原では1724年に総督が独立しハイダラーバード国(スンナ派)が成立した。

東部では1717年にベンガル大守領が独立(スンナ派)した。

また、北部ではアワド大守領(ペルシア系、シーア派)やローヒルカンド(アフガン系ローヒラ人、スンナ派)なども半独立化した。

1739年、イランのナーディル・シャーがムガル帝国へ侵攻し、デリーを占領した。

1752年、ムガル帝国はマラーター同盟と協定を結び、マラーター同盟がムガル皇帝を保護する代わりに権限を与え、デリーは実質的にマラーター同盟の影響下となった。

1757年、ナーディル・シャー死去後に成立したドゥッラーニー朝がアフガニスタン方面より侵攻しデリーを占領したが、1758年にマラーター同盟が反撃してデリーとパンジャーブ地方を奪還した。

1761年、マラーター同盟はドゥッラーニー朝に敗れ、北インドの統一を果たせなかった。

1740年代、ヨーロッパでの オーストリア継承戦争 がインドにも波及し、南インド東部で英仏によるカーナティック戦争がおこる。ハイダラーバード国及びその支配下のカーナティック太守が大きな権力を持っていたこの地域で、イギリスはマドラス(チェンナイ)、フランスはポンディシェリ(マドラスより少し南)を拠点としていたが、1746年、フランスがマドラスを占領した。一方、インド側は、自領内で欧州勢力が勝手に戦争を行うことを認めず、フランスにマドラス返還を要求したが拒否されたため、フランスと交戦しこれに敗れた。1748年、オーストリア継承戦争が終結し、フランスはマドラスをイギリスへ返還した。

1749年、第二次カーナティック戦争(〜1754年)がおこる。戦争の発端は、ハイダラーバード国の継承問題、もう一つはその配下のカーナティック太守位をめぐり、英仏が別々の人物を支援したことにあった。結果、イギリスの支援した者がカーナティック大守となり、フランスの影響力は大きく後退した。

話をベンガル地方(東部)に移す。イギリスはカルカッタ、 フランスはシャンデルナゴルを拠点としていた。1756年、新しいベンガル太守が即位した。イギリス東インド会社は同年に開始した英仏間の七年戦争 に備え、軍備強化や。政権干渉を強めていた。そのため、ベンガル太守は同年にカルカッタを占領するが、1757年初頭に再奪還される。その後1757年6月の プラッシーの戦い が勃発し、これに勝利したイギリスはベンガル地方の実権を掌握した。

南インド東部に戻る。依然としてフランスはポンディシェリ(南インド東部)を保持していたところ、七年戦争の影響により、ここでも英仏は交戦した(第三次カーナティック戦争)。イギリスは1761年にポンディシェリを占領した。1763年、七年戦争が終戦し(パリ条約)、フランスはポンディシェリなどの商館返還を認められたが、インドでの政治・軍事的影響力をほぼ失った。

ベンガル地方に戻る。プラッシーの戦い後、イギリス東インド会社の支配に対する反発から、1763年に戦争となった。インド側はアワド太守、ムガル帝国と同盟を結び、イギリスに対抗した。結果、インド側は敗れ(ブクサールの戦い)、1765年にムガル帝国はイギリスにベンガル・ビハール・オリッサの徴税権を与えた。

南インド西部に移る。影響力拡大を目指すイギリスは、1767年、第一次マイソール戦争(~1769年)にてハイダラーバード国、マラーター同盟と一時的に同盟してマイソールを攻撃したが、痛み分けとなった。1780年、アメリカ独立戦争 により英仏が再び交戦すると、マイソール王国はフランスと接近したこともあり、第二次マイソール戦争(~1784年) がおこるも、決着つかず。1790年、マイソール王国の勢力拡大を警戒したイギリスは、ハイダラーバード国とマラーター同盟を味方につけて第三次マイソール戦争(~1792年)をおこし、これに勝利した。1799年にはマイソール王国がフランス革命政府やナポレオンとの連携を模索したため、第四次マイソール戦争がおこった。結果、

マイソール王国の大部分はイギリスの保護下に置かれた。

北インドのマラーター同盟に戻る。マラーター同盟は、宰相を中心とする連合国家であった。1775年、宰相の継承争いにイギリスが介入して、第一次マラーター戦争(~1782年)が発生したが、ほぼ引き分けに終わった。1803年、再度の後継争いから第二次マラーター戦争(~1805年)がおこり、デリーを占領され、ムガル皇帝を保護下に置かれた。1817年、支配回復を目指し第三次マラーター戦争(~1818年)をおこすも、イギリスに敗北し、宰相制度は廃止された。結果、北インドはイギリスの管理下に置かれた。

北インドのアワド大守領に移る。1801年、実質的にイギリスの保護国となった。

インド中部のハイダラバード国も、1798年に実質的にイギリスの保護国となった。

近代

インド北西部では、1839年にシク王国が王位継承争いと軍部の対立によって国不安定化し、イギリスの介入を招いた。その結果、第一次シク戦争及び第二次シク戦争がおこり、1849年、イギリスがパンジャーブを併合してシク王国は消滅した。

イギリスは、藩王(イギリス支配下で内政自治を認められた従属国の世襲君主)に実子の後継者がいない場合、養子による継承を認めず、領土をイギリスが併合するという政策をとった。ヒンドゥー社会では養子相続が一般的だったため、多くの支配層の反発を招きいた。特に アワド王国(=アワド大守領)は1856年に併合され、大きな不満を生んだ。その他、宗教面や経済面の問題から、1857年、北インドで反乱がおこり、デリーへ進軍してムガル帝国 の皇帝を名目上の指導者として擁立した。反乱は急速に広がったが、主に北インドと中央インドに限定されていた。南インドやベンガル東部では大規模な蜂起は起こらず、全国的な統一運動には発展しなかった。また、ハイダラバード藩王国やシク教徒などイギリス側には有力な協力者も存在した。そのため、1858年までに主要な抵抗は鎮圧された。最後のムガル皇帝は追放され、300年以上続いたムガル帝国は完全に消滅した。イギリス政府はイギリス東インド会社を廃止し、インドを直接統治する体制へ移行した。これにより イギリス領インド帝国 が成立した。また、イギリスは藩王国の併合政策を緩和し、既存の藩王を保護する方針へ転換した。さらに特定地域や宗教集団に軍事力が集中しないよう再編した。

1885年、インド国民会議が正式に発足した。当初の国民会議は独立を要求しておらず、インド人の官僚登用拡大、立法評議会の権限強化、財政改革、行政の公正化などを請願する穏健な組織であった。

1905年、ベンガル分割令によりベンガル州が分割された。イギリス側は行政効率化を理由としたが、実際には民族運動の中心地ベンガルを弱体化させ、ヒンドゥー教徒が多い西部とイスラム教徒が多い東部を分けることで分割統治を図ったと受け止められた。

イスラム教徒の政治的利益を守るため、1906年には 全インド=ムスリム連盟が結成された。1905年のベンガル分割令では、東ベンガルのイスラム教徒有力層が分割を支持した。イスラム教徒の地主や知識人らがダッカ(東ベンガル、現バングラデシュ)に集まり、イギリス政府への協力を通じてイスラム教徒の権益確保を目指す政治団体として成立した。

1911年にはベンガル分割令が撤回された。同時に首都をカルカッタからデリーへ移転し、ベンガル民族主義の中心地から行政機関を遠ざけた。1912年から行政機能の移転が始まり、新首都ニューデリーが建設された(1931年完成)。

1914年に第一次世界大戦が始まると、戦後の自治拡大を期待してイギリスを支援した。しかし十分な政治的見返りは与えられず不満が高まった。

ガンディーは1869年にグジャラートで生まれ、弁護士として南アフリカで活動した。1915年に帰国したガンディーは、当初は農民や労働者の問題解決に取り組み、大衆からの支持を獲得した。1919年、イギリス政府が反政府活動を厳しく取り締まるローラット法を制定すると、ガンディーは全国的な抗議運動を呼びかけた。同年には平和的集会に対して英軍が発砲する事件が発生した。こうして、請願中心だった国民会議は大衆運動へと転換し、ガンディーは民族運動の中心指導者として1920年には非協力運動を開始した。内容は、官職や爵位の返上、学校や裁判所のボイコット、英国製品の不買運動などである。1920年代後半になると、インドでは自治要求がさらに高まり、1929年、国民会議はラホール大会で完全独立を正式目標として採択した。1930年、ガンディーは塩の行進を開始した。一方、イスラム教徒の政治的権利を重視する 全インド=ムスリム連盟は、ヒンドゥー教徒が多数を占める国民会議への警戒を強めた。

1935年、イギリスはインド統治法を制定し、州レベルでの自治を拡大した。1937年の選挙では国民会議が多くの州で勝利した。一方で全インド=ムスリム連盟はあまり議席を得られず、独立後の統一インドではイスラム教の権利が保障されないとの懸念が示されるようになった。

1939年に第二次世界大戦が始まると、イギリスは一方的にインドの参戦を宣言した。国民会議はこれに抗議した。一方、ムスリム連盟はイギリスへの協力姿勢を示した。1940年、全インド=ムスリム連盟はラホール決議を採択し、イスラム教徒のための独立国家構想を示した。これは後のパキスタンに繋がる。

戦争が拡大すると、1942年に日本軍は東南アジアでイギリス軍を破り、1942年にはビルマを占領した。これによりインド東部は日本軍の脅威にさらされた。これを受けてガンディー は「インドを去れ」運動を開始した。これはイギリスに即時撤退を求める大衆運動であり、全国でデモやストライキが発生した。しかしイギリスはガンディーやネルー らを逮捕し、運動を弾圧した。

現代

1945年に戦争が終結すると、イギリスは財政的・軍事的に疲弊し、インド支配を維持することが困難になった。

一方で、独立をめぐるインド人内部の対立は深刻化していた。全インド=ドムスリム連盟の指導者ジンナーは、ヒンドゥー教徒が多数を占める国家ではムスリムが政治的少数派として不利益を受けると考えた。これに対し、 インド国民会議派のガンディー やネルー は宗教を超えた統一国家を理想としていた。

1946年、イギリス政府はインド統治の平和的移行を目指して使節団を派遣し、連邦制による統一国家案を提案した。しかし国民会議派とムスリム連盟の解釈の違いから交渉は決裂した。同年8月、カルカッタで大規模な暴動が発生した。暴動はベンガル、ビハール、パンジャーブなど各地へ拡大し、ヒンドゥー教徒とムスリムの間で多数の死傷者が出た。両共同体の共存は急速に困難になっていった。

こうした状況を受け、1947年2月にイギリス首相はインドからの撤退を表明した。新たに赴任した総督は、宗派対立の激化を前に統一国家構想を断念し、分離独立案を採用した。1947年6月にマウントバッテン案が公表され、パンジャーブ州とベンガル州を分割したうえで、ヒンドゥー教徒多数地域をインド、ムスリム多数地域をパキスタンとする方針が決定された1947年8月14日に パキスタン が独立し、翌15日に インド が独立した。ネルーが初代首相となり、ジンナーはパキスタン初代総督に就任した。しかし国境線は急いで策定されたため混乱が生じ、パンジャーブやベンガルでは宗教暴力が発生した。ヒンドゥー教徒やシク教徒はインドへ、ムスリムはパキスタンへと移住し、推定1000万人以上が故郷を追われた。さらに数十万人から100万人以上が虐殺や暴動によって命を落としたとされる。

ガンディーは宗派間の和解に全力を注いだ。彼は暴動の続くカルカッタやデリーへ赴き、断食を行いながら平和を訴えた。しかし一部のヒンドゥー民族主義者は、ガンディーがムスリムやパキスタンに譲歩しすぎていると考え、強い不満を抱いた。そして1948年1月30日、ニューデリーでの祈祷集会へ向かう途中、ガンディーはヒンドゥー至上主義者のに銃撃され死亡した。暗殺はインド社会に大きな衝撃を与え、政府は過激な民族主義団体の取り締まりを強化した。

独立時のインドには、イギリス直轄領だけでなく500以上の藩王国が存在していたため、藩王国の統合が進められた。①交渉による平和的編入(大多数)、②住民投票、③軍事行動、④戦争を伴う帰属決定という複数の形で進められた。

①の例として、トラヴァンコール藩王国は現在のケーララ州南部に位置し、当初は独立を主張した。しかし経済的・軍事的に独立維持が困難であることから交渉の末にインド加盟を受諾した。

②の例として、ジュナーガド藩王国(現在のグジャラート州にあった藩王国)は住民の大半はヒンドゥー教徒だったが、藩王はイスラム教徒だった。藩王は1947年にパキスタンへの加盟を宣言したが、周辺住民の反発が強まり、インドが進駐した。その後の住民投票で圧倒的多数がインド帰属を支持し、1948年に正式統合された。

③の例として、ハイデラバード藩王国は南インド最大の藩王国で、住民の多数はヒンドゥー教徒だったが、統治者はイスラム教徒だった。統治者は独立維持を望み、インドにもパキスタンにも加盟しなかった。しかしインド政府は国内分裂の原因になると判断し、1948年に軍事行動を実施した。わずか数日で降伏し、インドへ編入された。

④の例として、住民の多数がイスラム教徒でありながら、統治者がヒンドゥー教徒だったジャンムー・カシミール藩王国が挙げられる。1947年10月、パキスタン側がカシミールへ侵入すると、統治者はインドに軍事支援を求め、その条件としてインドへの帰属を認めた。これを受けてインドが進駐し、両国は全面的な武力衝突に発展した(第一次印パ戦争)。戦争は一進一退となり、1948年に国際連合が仲介に乗り出した。1949年に停戦が成立し、カシミールは国連監視下の停戦ラインによって分割され、インドはカシミールの約3分の2を、パキスタンは約3分の1を支配することとなった。

国家建設の中心となったのは憲法制定であった。1946年に招集された憲法制定議会は独立後も作業を継続し、議長のプラサードや起草委員長のアンベードカルらが中心となって新憲法を作成した。アンベードカルは不可触民出身であり、法の下の平等や差別禁止を強く主張した。

1950年1月26日、インド憲法が施行され、インドは正式に共和国となった。それまで国家元首であったイギリス国王との法的関係は解消され、プラサードが初代大統領に就任した。ただしインドは独立後もイギリス連邦に加盟し続け、完全な主権国家でありながら連邦の一員として協力関係を維持した。

この憲法は世界最大級の成文憲法であり、普通選挙による議会制民主主義を採用し、宗教・カースト・性別による差別を禁止した。また連邦制を採用しながらも中央政府に強い権限を与え、国家分裂を防ぐ仕組みを整えた。さらに不可触民や少数民族に対する優先枠を導入し、社会的不平等の是正を目指した。

1951~52年には独立後初の総選挙が実施された。結果はインド国民会議派が圧勝し、独立運動の指導者だったネルーが引き続き首相を務めた。

ネルー政権は経済面では社会主義的計画経済を採用した。1951年には第一次五カ年計画が開始され、農業生産の回復や灌漑事業、ダム建設などに重点が置かれた。独立直後の食糧不足や難民問題への対応が優先されたためである。その後1956年から始まる第二次五カ年計画では重工業化が重視され、製鉄所や機械工業など国営企業の育成が進められた。

外交面では、冷戦が激化する中でアメリカ陣営にもソ連陣営にも属さない非同盟路線を追求した。ネルーは独立を果たしたアジア・アフリカ諸国との連帯を重視し、1955年にはバンドン会議で中心的役割を果たした。

国内では言語や民族の違いから州再編要求が高まり、1956年には州再編法が制定された。これにより言語圏を基準として州境が見直され、テルグ語、タミル語、カンナダ語など各言語集団の自治要求に一定の回答が与えられた。

1950年代後半になると、中国との関係が徐々に悪化した。当初は友好関係が強調されたが、国境(西部ではラダックと新疆の間にあるアクサイチン地域、東部では現在のアルナーチャル・プラデーシュ州付近)の認識の違いが表面化した。

また、1959年、チベットで反中国蜂起が起こると、ダライ・ラマ14世がインドへ亡命した。中国政府はこれを強く非難し、国境地帯で衝突が発生するようになった。ネルーは国境前哨基地の建設を進めたが、中国側も軍備を増強し、緊張は急速に高まった。

1962年、中国は東西両戦線で攻勢をかけ、中印戦争となった。インドは装備や補給で大きく劣り、中国の進撃を阻止できなかった。東部戦線では中国がアッサム平原への入り口近くまで進出し、西部戦線でもアクサイチン一帯を制圧した。年末に中国は一方的停戦を宣言して撤退したが、西部のアクサイチン支配は維持した。

中国は1964年に核実験に成功し、インドの安全保障上の懸念は高まった。

インド独立後も、ポルトガルの独裁政権は16世紀以来保持していた西海岸のゴア等の返還を拒否した。1961年12月、ネルーはゴア等へ侵攻した。ポルトガルは約36時間で降伏し、これらの地域はインド(現ゴア州)へ編入された。

この併合により、インドに残っていた主要なヨーロッパ植民地はほぼ消滅した。ポルトガルは1974年の民主化後に正式承認した。

1964年には独立以来インドを率いてきたネルーが死去し、シャーストリーが首相に就任した。

1965年、パキスタンは、中印戦争で弱体化したインドなら有利に戦えると判断し、カシミールへ武装勢力を潜入させた。しかし住民の大規模蜂起は起こらず、インド軍が反撃したことで第二次印パ戦争が勃発した。戦闘はカシミールだけでなくパンジャーブ地方にも拡大した。最終的には国際連合やソ連の仲介によって停戦が成立し、1966年にタシケント宣言が締結された。領土の大きな変化はなかった。宣言調印翌日、シャーストリー首相はタシケントで急死した(心臓発作とされている)。

その後、ネルーの娘であるインディラ・ガンディーが首相に就任した。その後の1967年総選挙では国民会議派が引き続き第一党となったものの、多くの州で敗北し、地域政党や野党勢力が台頭した。

1971年、東パキスタンではパキスタンからの独立運動が激化し、パキスタン軍が武力弾圧を実施した。その結果、数百万人規模の難民がインドへ流入した。インドは独立派を支援し、パキスタンによるインド空軍基地への先制攻撃を受けて正式参戦した(第三次印パ戦争)。インドは主力を東パキスタンに集中し短期間で圧勝した。首都ダッカは陥落し、同年末にバングラデシュが独立した。

また、1972年のシムラ協定において、インドはパキスタンに対する優位な立場(捕虜等)を利用し、カシミール問題への第三者介入を制限する方向へ持ち込んだ。カシミール問題は国連監視下の問題ではなく、あくまで二国間交渉で解決する方針が確認された。

外交面では、インドは引き続き非同盟を掲げたが、実際にはソ連との協力を強めた。一方でアメリカとの関係は、1971年戦争時にアメリカがパキスタンを支持したことから悪化した。

1974年、初の核実験を実施した。

ヒマラヤ山脈のシッキム王国で、19世紀以降はイギリスの保護下に置かれた。1947年のインド独立後も直ちにはインドへ統合されず、1950年にインドの保護国となった。しかし国内では、少数派の王家(チベット系)と多数派のネパール系との対立が続いていた。

1973年、選挙不正への抗議運動が発生すると、インドは秩序維持を名目に政治に介入した。

1975年4月にはインド軍が首都の王宮を包囲して王の権力を無力化した。その後、シッキム議会は王制廃止とインド編入を決議し、住民投票では圧倒的多数がインドへの加盟を支持したと発表された。

これを受けてインド議会は憲法を改正し、1975年5月、シッキムはインドの22番目の州として正式に編入された。

1975年6月、裁判所はインディラの選挙運動に不正があったと認定した。インディラは非常事態宣言を発令し、反対派指導者を逮捕し、報道を統制し、市民的自由を大幅に制限した。

1977年、インディラは自ら総選挙を実施したが、有権者は非常事態への不満を示した。国民会議派は独立後初めて国政選挙で敗北し、野党連合であるジャナタ党が政権を獲得した。首相にはデーサーイーが就任した。しかし、ジャナタ党政権は内部対立が激しく、短期間で支持を失い、1979年には崩れた。

1980年初頭の総選挙ではインディラ・ガンディー率いる国民会議派が大勝し、再び首相へ返り咲いた。

1980年代初頭、北西部のパンジャーブ州ではシク教徒の一部が自治権拡大や独立国家の建設を要求するようになった。

1984年、政権は過激派が立てこもるシク教最大の聖地に軍を投入した。過激派は排除されたが、聖地への軍事侵入は多くのシク教徒の反発を招いた。その年の10月31日、インディラ・ガンディーは自身のシク教徒警護員によって暗殺された。事件後、各地で反シク暴動が発生し、多数の犠牲者が出た。

インディラの死後、息子のラジーヴ・ガンディーが首相に就任した。同年末の総選挙では、国民会議派が圧勝した。コンピュータや通信技術の導入が進められ、後のIT産業発展の基礎を築いた。

1980年代後半にスリランカ問題が大きな課題となった。スリランカでは多数派のシンハラ人政府と少数派のタミル人武装組織の内戦が激化していた。インド南部には多数のタミル人が居住していたため、インドは事態に強い関心を持った。

1987年、ラジーヴ政権はスリランカ政府と協定を結び、軍を派遣した。当初は停戦監視が目的だったが、やがてタミル武装組織との戦闘に発展し、多数の死傷者を出した。

国内政治では、ラジーヴ政権に汚職疑惑が浮上した。その結果、1989年総選挙では国民会議派が過半数を失い、反国民会議派連合が政権を獲得した。

1989年以降、単独政党による安定多数が得られなくなり、連立政権が常態化した。

また、1991年の総選挙運動中、ラジーヴ・ガンディーはタミル・ナードゥ州でタミル武装組織の自爆犯によって暗殺された。

1996年以降は連立政権が短期間で交代する不安定な政治が続いた。

1998年、ヒンドゥー民族主義を掲げるインド人民党が勢力を拡大した。

インド人民党は、その思想的源流を1925年に設立された民族奉仕団にもつ。この組織はインドをヒンドゥー文明に基づく国家とみなし、ヒンドゥー社会の団結を重視した。1951年には政治組織としてインド人民同盟が結成されたが、長らく少数野党にとどまった。1977年にはジャナタ党へ結集し、そこには人民同盟も参加していた。しかし政権獲得後、民族奉仕団との関係をめぐる対立から連合は分裂した。そこで1980年、インド人民同盟系の議員を中心にインド人民党が結成された。当初は穏健路線を採ったが、1984年総選挙では惨敗した。1980年代後半に国民会議派政権は少数派への配慮を進めたが、一部ヒンドゥー教徒の間では多数派が軽視されているとの不満が広がった。インド人民党はこれを背景にヒンドゥー民族主義を前面に押し出した。結果、インド人民党は都市中間層、上位カースト、北インドのヒンドゥー有権者を中心に支持を広げた。議席数は1989年に85議席、1991年に120議席へ急増し、1996年には下院第一党となった。さらに1998年総選挙ではインド人民党主導の国民民主同盟政権が樹立され、アタル・ビハーリー・ヴァージペーイーが首相に就任した。

2002年、グジャラート州でヒンドゥー教徒とイスラム教徒の大規模暴動が発生した。州首相だったナレンドラ・モディ(後のインド共和国首相)の対応は国内外で大きな論争となった。

2004年総選挙ではインド国民会議派を中心とする統一進歩同盟が政権を獲得し、首相にはマンモハン・シンが就任した。シン政権期のインド経済は高成長を続けた。しかし、政権後半には汚職疑惑が相次ぎ、経済成長も鈍化した。

2014年総選挙によりインド人民党は単独過半数を獲得し、グジャラート州首相として経済成長を実現したモディが首相に就任した。これは1984年以来初めての単独過半数政権であり、連立政治の時代に一区切りを付ける出来事だった。そして、モディ政権下ではヒンドゥー文化を重視する傾向が強まった。

1947年以来、ジャンムー・カシミールには憲法による特別自治権が認められていた。しかし、2019年、モディ政権はこの特別地位を廃止した。その結果、ジャンムー・カシミール州

とラダック地域が分離され、ジャンムー・カシミール連邦直轄領とラダック連邦直轄領へ再編された。反対派は、イスラム教徒多数地域の人口構成を長期的に変える狙いがあると主張する。また、パキスタンは、カシミールの最終地位が未確定なのに一方的変更を行ったとして強く反発した。さらに、ラダックには中国が自国領と主張している地域が含まれるためです。2020年にはガルワン渓谷で中印両軍が衝突し、数十年ぶりに死者を伴う国境紛争が発生した。

2023年にはG20首脳会議を開催し、グローバルサウスの代表国として存在感を高めた。

G20では、政府が英語文書でも「President of Bharat(バーラト大統領)」という表記を使用し、大きな議論となった。バーラトは、古代サンスクリット文献にも見られる伝統的名称である。

おわりに

インドの歴史は、数千年にわたる文明の積み重ねによって形づくられてきた。

古代にはインダス文明が栄え、その後アーリア人の進出とともにヴェーダ文化やヒンドゥー教の基礎が形成された。さらに仏教やジャイナ教が誕生し、マウリヤ朝やグプタ朝などの王朝が広大な地域を統合した。

中世にはイスラム勢力が進出し、デリー諸王朝やムガル帝国が成立した。一方で南インドでは独自の王朝が発展し、多様な文化が育まれた。近世以降はヨーロッパ諸国が進出し、最終的にはイギリスによる植民地支配が確立された。

20世紀にはガンディーやネルーらによる独立運動が展開され、1947年にインドは独立を達成した。その後も民主主義国家として発展を続け、現在では世界有数の経済大国・人口大国として国際社会で重要な役割を果たしている。

インド史を理解することは、ヒンドゥー教や仏教、イスラム教、植民地主義、民族運動、そして現代アジアの国際政治を理解することにもつながる。本記事が、長大で複雑なインド史を学ぶための入り口となれば幸いである。

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