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世界史|イラン•イスラム国

世界史

はじめに

イランは、古代ペルシア帝国の中心地として栄えた世界有数の歴史国家である。アケメネス朝、ササン朝、サファヴィー朝など多くの王朝が興亡を繰り返し、独自の文化と国家意識を形成してきた。本記事では、古代のイラン人国家の成立からイスラム化、近代化、イスラム革命を経て現代のイラン・イスラム共和国に至るまでの歴史を概観する。

歴史

古代


現在のイラン高原にはエラム人などの先住民が暮らしていた。紀元前2千年紀後半になると、中央アジアの草原地帯に住んでいたインド・イラン系のアーリア人集団の一部が南下を始め、遊牧や牧畜を営みながら徐々にイラン高原へ移住し、先住民と混血・融合していった(以下イラン人という)。イラン人は各地で部族集団を形成し、西部には後のメディア人、南西部には後のペルシア人の祖先が定着した。また、東方にはバクトリア人やソグド人などが広がった。

メディア王国は、メディア人により現在のイラン地域に成立した最初の有力なイラン人国家とされる。紀元前9世紀頃のメディア人は、現在のイラン西部のザグロス山脈周辺に居住し、多数の部族に分かれていた。当時の中東では、北西の強国であるアッシリア帝国が軍事遠征を繰り返しており、メディア人も侵攻を受けた。こうした外圧の中で部族統合が進み、国家建設に至った。その後、メディア王国は徐々に勢力を拡大し、新バビロニア王国(メソポタミア南部)と同盟を結び、アッシリア帝国に対抗した。

紀元前612年のニネヴェ陥落によりアッシリア帝国を滅亡させた。メディア王国はイラン高原からアナトリア東部に及ぶ広大な勢力圏を築いた。

紀元前550年頃、南方の属国的存在であったペルシア人(イラン人の一派)指導者キュロス2世が反乱を起こし、メディア王国は滅亡し、アケメネス朝が成立した。アケメネス朝はメディアの行政制度や貴族層を取り込み、メディア人は帝国内で重要な地位を維持した。その後、リディア王国、新バビロニア王国を征服し、アケメネス朝は西アジア最大の帝国へ発展した。その支配の中心となったのはペルシア人だったが、帝国は多民族国家であり、征服地の文化や宗教を比較的尊重した。

紀元前522年に即位したダレイオス1世は帝国を再編し、サトラップ(総督)制度や王の道を整備した。また、イラン高原全体ではゾロアスター教的な思想やイラン系言語が広まり、後世の「イラン世界」の基盤が形成された。  

紀元前5世紀以降、アケメネス朝はギリシア諸都市との戦争で消耗し、地方総督の自立化や王位継承争いも頻発した。そして紀元前334年にマケドニア王アレクサンドロス3世が侵攻を開始する。紀元前330年に王朝は滅亡した。  

アケメネス朝が紀元前330年に滅亡すると、イラン高原は一時的に アレクサンドロス3世 の支配下に入った。しかし紀元前323年に急死すると帝国は後継者戦争に突入し、イラン地域は最終的に ギリシア人のセレウコス朝 の支配下に置かれた。王朝の中心はメソポタミアやシリア方面にあり、イラン高原は辺境であった。イラン人はギリシア文化の影響を受けながらも、イラン系言語や宗教的伝統を維持した。

紀元前3世紀半ばになると、セレウコス朝は西方での戦争に追われて統治力が低下した。その頃、カスピ海東南部のパルティア地方に住むイラン系のパルニ人を中心に紀元前247年頃に独立し、パルティア王国(アルサケス朝)が成立した。アルサケス朝は紀元前2世紀に急速に勢力を拡大した。パルティアはアケメネス朝のような中央集権国家ではなく、有力貴族や地方王の自治を認める連合国家的な性格を持っていた。そのためメディア人やペルシア人、パルティア人など多様なイラン人が共存した。

3世紀初頭、アルサケス朝は長年の対ローマ戦争や有力諸侯の自立化によって統制力が弱まっていた。その中で、イラン南部ファールス地方の地方君主であったアルダシール1世が勢力を拡大し、224年にペルシア人によるササン朝を樹立した。ササン朝は、アルサケス朝よりも中央集権的な国家を目指した。王は「諸王の王」を称し、地方貴族を統制しながら全国的な官僚制度を整備した。また、イラン人の伝統宗教であるゾロアスター教を国家の保護下に置いた。

3~4世紀にはローマ帝国との抗争が続いたが、シャープール1世はローマ皇帝を捕虜にするなど大きな成果を上げた。その後も東方では中央アジアの遊牧民、西方ではローマ帝国およびその後継である東ローマ帝国と対峙し続けた。

6世紀にはホスロー1世の下で最盛期を迎える。税制改革や軍制改革が実施され、交易路の管理によって経済も発展した。この時代、ササン朝はメソポタミアから中央アジアに及ぶ西アジア最大級の帝国となった。

しかし、602年から始まった東ローマ帝国との長期戦争では、一時的にシリアやエジプトを占領したものの、最終的には反撃を受けて失地を回復された。数十年に及ぶ戦争は国家財政を疲弊させ、地方貴族や軍人の対立も深刻化した。王位継承争いも頻発し、国家の統合力は大きく低下した。

その混乱の中で、アラビア半島からイスラム教を掲げるアラブ人が進出した。636年のカーディシーヤの戦い、642年のニハーヴァンドの戦いでは敗北し、イラン高原の主要地域が次々と征服された。最後の王であるヤズデギルド3世は東方へ逃れたが、651年に殺害され、ササン朝は滅亡した。

中世

イランはイスラム共同体、続いてウマイヤ朝の支配を受けた。支配層の中心はアラブ人であり、征服されたイラン人はマワーリーとして政治的・社会的にアラブ人より低い地位に置かれた。また、公用語はアラビア語となり、ゾロアスター教国家だったササン朝の体制は解体された。しかし、アラブ支配への不満が根強く、ウマイヤ朝末期には、イラン東部ホラーサーン地方が反体制運動の拠点となった。

750年、ホラーサーンを基盤とする勢力がウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を成立させた。アッバース朝はウマイヤ朝よりも非アラブ系ムスリムを重視し、イラン人官僚や学者を積極的に登用した。その結果、イスラム世界の政治や文化におけるイラン人の影響力は急速に拡大した。

819年ごろには現在のウズベキスタン地域周辺にペルシア人を中心としたサーマーン朝(スンナ派)が台頭した。 821年にはイラン東部にペルシア人を中心としたターヒル朝(スンナ派)、860年代にはイラン南東部にイラン系のサッファール朝(スンナ派)が成立し、名目上はアッバース朝に従いながらも実質的な独立政権として振る舞った。

934年にはイラン西部・南部でイラン系のダイラム人によるブワイフ朝(シーア派)が勢力を拡大し、945年にはアッバース朝の首都バグダードを掌握した。カリフは存続したものの実権はブワイフ朝が握り、イラン系勢力がイスラム世界の中心政治に大きな影響を及ぼすようになった。ブワイフ朝はサーサーン朝以来のイラン的統治理念を継承し、ペルシア文化を保護した。

東方ではサーマーン朝が衰退し、その軍事力を担っていたトルコ系軍人たちが台頭した。その代表がガズナ朝である。ガズナ朝は支配者こそトルコ系だったが、多くのイラン人官僚や学者が活躍した。

11世紀には中央アジアからトルコ系のセルジューク朝が進出し、イラン全域を支配した。セルジューク朝も民族的にはトルコ系だったが、統治機構や文化はペルシア人官僚に依存していた。

12世紀後半になるとセルジューク朝が分裂し、代わってホラズム・シャー朝が台頭した。もともとはセルジューク朝の地方政権だったが独立し、イラン東部から中央アジア、さらにはイラン西部にまで勢力を広げた。支配者はトルコ系の出自を持っていたが、国家運営や文化は完全にペルシア化しており、実質的にはペルシア文化圏であった。

1218年頃にモンゴル商隊の殺害事件をきっかけとして、チンギス・ハンはホラズム・シャー朝への遠征を開始した。1219年からの侵攻で、ブハラやサマルカンドに続き、イラン東部やホラーサーンの諸都市が次々と攻略された1256年にはチンギス・ハンの孫であるフレグが西アジア遠征を行った。フレグはイラン各地を制圧し、1258年にはバグダード陥落によってアッバース朝を滅ぼした。

1260年、イランを中心にイルハン朝が成立し、イラン地域はモンゴル帝国の一部として統治されることになった。支配層はモンゴル人であり、イラン人は被支配層だった。

1295年、イルハン国のガザン・ハンがイスラム教へ改宗した。以後、イルハン朝は急速にイスラム化・ペルシア化した。宮廷ではペルシア語が重視され、モンゴル支配者もイラン文化を受容するようになった。

しかし14世紀半ばにイルハン朝が崩壊すると、イランは再び分裂した。各地では地方政権が乱立し、政治的統一は失われた。その混乱の中で14世紀末にはモンゴル系のティムール朝が中央アジアから侵攻し、イランを征服した。政治支配層はトルコ・モンゴル系だったとはいえ、実際の統治はペルシア人が担っていた。

1405年のティムール死後、ティムール朝は後継争いによって弱体化した。

近世

ティムールの孫で、シャー・ルフの孫でもあるスルタン・ムハンマドは、1440年代にイスファハーンやハマダーンを中心とするイラン中西部を支配し、ティムール朝中央政府から事実上独立した。 

当時のティムール朝は、創設者ティムールの死後に一応再統一されていたが、地方の王族たちは強い自立性を持っていた。1447年にティムール朝のシャー・ルフが死去すると後継者争いが激化した。アジャム国はその混乱の中で有力勢力となったが、他のティムール家諸侯との争いに敗れ、1450年代初頭までに政権は弱体化した。 その後、西イランへ進出したテュルク系遊牧連合の黒羊朝がアジャム国を圧迫し、最終的にその領土を併合した

15世紀後半になると西イランではトルコ系の黒羊朝と白羊朝が争った。両王朝とも国家運営にはペルシア人官僚を利用し、宮廷文化もペルシア化しており、イラン人の社会的基盤は維持された。

15世紀末になると、アゼルバイジャン地方で勢力を拡大していたサファヴィー教団が急成長した。教団の起源はペルシア系の神秘主義教団だったが、支持基盤にはトルコ系が多かった。教団指導者のイスマーイール1世は1501年にタブリーズへ入城し、サファヴィー朝を建国した。

サファヴィー朝は軍事的にはトルコ人に支えられながらも、国家運営ではペルシア人官僚層を活用した。徴税、司法、文書行政などは主としてペルシア人が担い、宮廷文化もペルシア語によって支えられた。さらにサファヴィー朝はシーア派(十二イマーム派)を国教化した。建国当初のイラン住民の多くはスンナ派だったが、国家主導の改宗政策が進められ、数世代を経てシーア派が社会の主流となった。この宗教的統一は民族的統一と結びつき、イラン人としての共同意識の形成を促した。

建国直後、イスマーイール1世はアゼルバイジャン、イラク・アジャム(イラン西部)、ファールス、ホラーサーンなどを征服し、分裂していたイラン地域を再統一した

1514年、チャルディラーンの戦いでオスマン帝国に敗北し、首都タブリーズが一時占領された。この敗北により西方への拡大は阻止された。以後サファヴィー朝はオスマン帝国との長期対立を続けながら国家体制の整備を進める。

16世紀後半には王権が弱体化し、トルコ人の諸部族の対立によって国内は不安定化した。しかし1588年に即位したアッバース1世が中央集権化を推進した。また1598年には首都をイスファハンへ移転し、都市整備や商業振興を進めた。ホラーサーンからウズベク勢力を追放し、オスマン帝国からイラク西部やコーカサスの一部を奪回した。

1629年のアッバース1世死後、後継者たちは彼ほどの統治能力を持たなかった。宮廷内の権力争いが激化し、軍事力も低下した。17世紀後半には国家機構の腐敗が進み、地方統制も弱まった。さらに交易路の変化により財政も悪化し、王朝は徐々に衰退していく。

18世紀初頭になると、東部で反乱が頻発した。特にイラン系アフガン人の反乱が深刻化し、1722年にはイスファハンを包囲した。長期包囲の末に首都は陥落し、サファヴィー朝は事実上崩壊した。その後も王家は名目上存続したが実権は失われ、各地で勢力が割拠する時代となる。最終的には軍事指導者のナーディル・シャーが国内を再統一し、1736年にサファヴィー家の君主を廃してトルコ系のアフシャール朝(シーア派の十二イマーム派)を樹立した。これによりサファヴィー朝は正式に滅亡した。

アフシャール朝は、コーカサスや中央アジアへ遠征し、1739年にはインドの デリー を占領して莫大な戦利品を獲得した。しかし重税や強権統治によって国内の不満が高まった。また、サファヴィー朝以来のシーア派国家色を弱めようとした宗教政策も支持を得られなかった1747年にナーディル・シャーが暗殺されると王朝は急速に分裂し、各地で有力者が自立した。

その後イラン系ルーリ人(luristan)のザンド朝(シーア派の十二イマーム派)が台頭した。1760年代までにイランの大部分を支配し、シーラーズを中心に安定した統治を行った。しかし、建国者の死後は後継者争いが激化し、王朝は衰退した。

北イランではトルコ系のアゼルバイジャン人に属するカージャール部族が勢力を伸ばし、ザンド朝との戦いに勝利して1794年にイランを再統一した。そして1796年に カージャール朝 (シーア派の十二イマーム派)を創設し、首都をテヘランに置いた。王朝の支配層はトルコ系であったにもかかわらず、行政・文学・学術はペルシア語によって運営され続けた。

近代

19世紀初頭、最大の脅威となったのは北から南下する ロシア だった。ロシアとの二度の戦争に敗れた結果、1813年の ゴレスターン条約 と1828年の トルコマンチャーイ条約 により、現在のジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン北部などカフカス地方を失った。

19世紀後半になると、今度は イギリス とロシアの勢力争いに巻き込まれた。そして、財政難から外国資本に利権を売却し、鉄道・鉱山・通信などの権益を譲渡した。1890年に政府が英国企業にタバコ事業の独占権を与えると、商人やウラマーが反発し、不買運動が発生した。これは外国支配への抵抗と国民意識の高まりを示す事件だった。

20世紀初頭にはさらに改革要求が強まる。1905年から始まった 立憲革命 では専制政治の制限を求めた。その結果、1906年に憲法が制定され、議会が開設された。立憲革命の主体は都市部のペルシア人であった。

1907年、英露協商 により、ロシア帝国とイギリスはイランを事実上の勢力圏に分割した。北部(テヘランやタブリーズを含む)はロシアの勢力圏、南東部はイギリスの勢力圏とされ、その中間部は中立地帯とされた。これはイラン政府の同意なく決められた。

1911年にはロシア軍が北イランへ侵攻し、議会を圧迫して立憲運動を弾圧した。イランの主権は大きく損なわれ、立憲革命は挫折状態に陥った。

1914年に 第一次世界大戦 が始まると、イラン政府は中立を宣言した。しかし実際には、北部にロシア軍、西部に オスマン帝国 軍、南部にはイギリス軍が進駐し、さらに後にはロシア革命後の混乱を受けて イギリス が影響力を拡大した。イランは戦場の一部となり、各地で戦闘や徴発が行われた。

この混乱の中で台頭したのが軍人の レザー・ハーン であり、1921年にクーデターを起こし、軍と官僚機構を掌握した。そして1925年、議会は最後のカージャール朝君主を廃位し、新たにペルシア人によるパフラヴィー朝ペルシア帝国(シーア派の十二イマーム派)を成立させた。

パフラヴィー朝はトルコの近代化に倣い、徹底的な中央集権化、軍隊の近代化、司法・教育の世俗化(宗教の政治分離)を推進した。また、1935年に国号をペルシア帝国から、アーリア人の土地を意味するイラン帝国に変更した。

第二次世界大戦が勃発すると、イランは中立を宣言した。しかし、親ドイツ的な姿勢を見せたことや、イランの石油利権およびソ連への物資輸送路を確保したいという連合国側の思惑から、1941年にイギリスとソ連の共同軍事侵攻を受けた。レザー・ハーンは亡命を余儀なくされ、息子のモハンマド・レザー・パフレヴィーが王位を継承した。大戦末期、イランは連合国側に立ってドイツに宣戦布告し、戦後の国際秩序形成に加わる資格を得た。

現代

1945年、サンフランシスコ会議に参加して国際連合の原加盟国となった。

また同年、北西部のアゼルバイジャン地方にはソ連軍が駐留を続け、親ソ政権が樹立された。またクルド人地域でも自治政権が成立した。イラン政府は国連に提訴し、アメリカの支援も受けてソ連に撤兵を迫った。1946年にソ連軍が撤退するとイラン軍が進駐し、両政権は崩壊した。これによりイランは領土の分裂を回避した。

1951年には首相となったモハンマド・モサッデクが石油国有化を断行した。その背景には、当時の石油産業がイギリス系の石油会社によって支配されている状況があった。国民からは大きな支持を受けたが、イギリスは経済制裁や石油禁輸で対抗した。

冷戦下でアメリカは、イランが不安定化してソ連の影響下に入ることを警戒した。1953年、英米の支援を受けたクーデターによってモサッデク政権は打倒された。国王は一時国外へ逃れたがその後帰国した。

1950年代後半から1960年代にかけて、国王はアメリカとの同盟を強化した。イランは反共国家として中東における西側陣営の重要拠点となった。

1963年に大規模改革が始まり、地主の土地を農民へ分配する土地改革、女性参政権の導入、教育拡大、工業化推進などが実施された。しかし、宗教勢力は、西洋化や王権強化をイスラム的価値観への脅威とみなした。この改革に強く反対した人物が、後に革命の指導者となるルーホッラー・ホメイニーであった。彼は1963年の反政府運動後に逮捕され、その後国外へ追放されたが、亡命先から国王批判を続けた。

1973年の第一次石油危機によって原油価格が急騰し、イランの石油収入は爆発的に増加した。しかし急激な経済成長は深刻なインフレや格差拡大も招いた。石油収入の恩恵は一部の官僚や企業家に集中した。また政治的自由は依然として制限されており、国王への批判は許されなかった。さらに西洋化政策への反発、宗教勢力の不満、知識人や学生の民主化要求が結びつき、反体制運動は次第に拡大していった。

1977年以降、経済停滞と政治的不満が深刻化すると全国で抗議運動が発生したが、政府は弾圧によって対応した。1978年には大規模なストライキが石油産業にも波及し、国家機能が麻痺し始めた。亡命中のホメイニーは反政府運動の象徴となり、多様な反体制勢力を結集していった。1979年1月、国王モハンマド・レザー・パフラヴィーは国外へ出国した。2月にはホメイニーが帰国し、革命勢力が政権を掌握した。同年4月の国民投票で王政は正式に廃止され、イラン・イスラム共和国が成立した。

1979年11月のアメリカ大使館人質事件を契機にイランはアメリカと断交した。

隣国のイラクの大統領サッダーム・フセインは、革命の波及を恐れるとともに、国境地帯の支配権をめぐる長年の対立を解決しようと考えた。特に争点となったのは、イラン南西部とイラク南部の境界を流れるシャット・アル=アラブ川であった。1975年のアルジェ協定でイラクは一部譲歩していたが、革命後の混乱を見て協定を破棄し、1980年9月にイランへ侵攻した。イランは1981年以降、軍の再編が進むと反攻に転じ、1982年にはイラン領内の主要占領地はほぼ回復した。その後イランはイラク国内への侵攻を開始したが、大きな成果は得られなかった。戦争後半になると、イラクは湾岸諸国や西側諸国の支援を受けて軍事力を回復し、化学兵器も使用した。1988年に停戦が成立した。革命政権は戦争を通じて国内の結束を強め、イスラム共和国体制を定着させることとなった。

1989年6月、最高指導者だったホメイニーが死去する。当時の大統領だったアリー・ハーメネイーが新たな最高指導者となった。同時に大統領にはアクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニーが就任した。ラフサンジャーニーは戦後復興を最優先課題とし、経済再建やインフラ整備を進めた。

1997年には改革派のモハンマド・ハータミーが大統領に当選し、言論の自由拡大や西側諸国との関係改善を目指した。

2005年には保守強硬派のマフムード・アフマディーネジャードが大統領に就任した。彼は革命理念への回帰や反米・反イスラエル姿勢を強調し、核開発計画を積極的に推進した。その結果、イランは国際社会から厳しい経済制裁を受けた。

2009年の大統領選挙ではアフマディーネジャードの再選が発表されたが、不正選挙疑惑から大規模な抗議運動が発生した。政府はこれを弾圧した。この出来事は改革派と保守派の対立を一層深めることになった。

2013年の大統領選挙では穏健派のハサン・ロウハーニーが当選した。ロウハーニーは保守派と改革派の中間に位置する現実主義者であり、国際社会との対話を重視した。特に核問題の解決を優先課題とし、欧米諸国との交渉を進めることで経済制裁の緩和を目指した。

2021年の大統領選挙で保守強硬派のエブラーヒーム・ライースィーが当選した。ライースィー政権は、欧米との対決姿勢を比較的強めつつ、中国やロシアとの関係拡大を進めた。国内では経済制裁やインフレ、高失業率に苦しんだ。2024年5月、ライースィーはヘリコプター墜落事故で死亡した。

その後の選挙で改革・穏健派寄りのマスウード・ペゼシュキアンが大統領に選出された。

2025年にはイスラエルとイランの間で大規模衝突が発生した。イスラエルはイラン国内の核施設や軍事施設を攻撃し、その後アメリカもイランの主要核施設への空爆に参加した。イラン側から見れば、これは自国の主権と安全保障への直接攻撃だった。 

2026年に入ると緊張はさらに高まり、2月28日にアメリカとイスラエルが共同でイラン国内への大規模攻撃を開始した。両国は核開発能力や弾道ミサイル能力の破壊を目的と説明したが、イラン側は体制転覆を狙った侵略行為だと非難した。その後、戦闘はペルシア湾やホルムズ海峡周辺にも拡大した。イランはホルムズ海峡を交渉材料として利用し、アメリカは海上封鎖や追加攻撃をちらつかせた。4月には停戦が成立したものの、核問題や制裁解除をめぐる対立は解決されず、緊張状態は継続した。 

おわりに

イランの歴史は、古代ペルシア帝国以来の国家伝統と、イスラム化以後の宗教的・文化的発展が重なり合う歴史であった。異民族の支配や列強の干渉を受けながらも独自の文化的連続性を維持し続けたことが特徴である。現代のイランを理解するためには、数千年に及ぶその歴史的背景を知ることが欠かせない。

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