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世界史|オマーン国

世界史

はじめに

オマーンはアラビア半島の南東部に位置する国ですが、その歴史は周辺のアラブ諸国とは少し異なります。

現在でも国民の多くがイバード派を信仰しており、これはイスラム世界でも珍しい特徴です。また、かつてはポルトガルをインド洋から追い払い、ザンジバルを首都とするほどの海洋国家として繁栄した時代もありました。

この記事では、古代から現代までのオマーンの歴史を時系列で整理しながら、イバード派国家の成立、海洋帝国への発展、そして現在まで続くブーサイード朝の歩みをわかりやすく解説します。

データ

首都マスカット
宗教イスラム教(イバード派)
公用語アラビア語

歴史

古代

紀元前6世紀頃にはアケメネス朝ペルシアの影響下に入った。その後、パルティアやササン朝もオマーン沿岸へ影響力を及ぼしたが、内陸部では部族社会が維持され、完全な直接支配には至らなかった。

630年代、イスラム教が広まった。638年頃、第2代正統カリフ・ウマルの時代に建設された軍営都市バスラ(現イラク)はササン朝への遠征基地であり、オマーン人もイスラーム共同体の一員として征服軍に参加し、そのままバスラに定住する者が増えた。オマーンのイバード派には、「知識はメディナで生まれ、バスラで育ち、オマーンへ飛んできた。」という有名な言葉が残されているほどである。

8世紀になると、過激派のハワーリジュ派から分かれ、神学者アブドゥッラー・イブン・イバードや、教えをまとめてジャービル・イブン・ザイドらが比較的穏健な思想を形成した。後者はオマーン系アズド族出身であり、後にイバード派法学の基礎を築いた。

当時のオマーンは、ウマイヤ朝の総督政治や税負担への不満が強くあった。イバード派は、支配者は血統ではなく能力で選ぶという政治思想も含んでおり、これは部族自治の伝統を持つオマーン人に非常によく合致した。また、イバード派は共同体がイマームを選ぶという制度を採用しており、部族会議や合議制、有力者による選挙を重視するオマーン人に親和的だった。

イバード派は現在までオマーンにおける多数派として存続している。

中世

750年にウマイヤ朝が滅びた。

その混乱の中、751年頃、オマーンにてイバード派イマーム国家が成立し、アッバース朝と対立した。この国家は、共同体がイマームを選出し、宗教指導者と政治指導者を同視するという制度を採用していた。

893年頃、アッバース朝の遠征によってイマーム国家は滅び、アッバース朝の総督により統治された。しかし、イバード派は内陸部に存在し続けた。

10世紀後半になるとアッバース朝の権威は低下した。その隙を突き、1024年頃にイバード派は再びイマームを選出し、ニズワを中心として内陸部に国家を復活させた。しかし、その後内部対立からイマームの影響力は低下していく。

1154年頃、地方豪族のナブハーニ家が権力を掌握し、ニズワを首都としてナバーニー朝が成立した。この王朝はイマーム国家ではなく、王は世襲とされ、イマームはあくまで象徴であった。

12世紀になると、ホルムズ海峡で勢力を拡大したホルムズ王国がオマーン沿岸へ進出し、沿岸部はホルムズ王国の影響下へ入った。

その後は沿岸部はホルムズ王国、内陸部はナバーニー朝、その一部地域にイバード派イマーム国家というように分裂する状態が続いた。

近世

1507年、ポルトガルが海上から侵攻し、マスカットやソハールなどホルムズ王国支配下の港を次々と占領した。ナブハーニ朝も内陸に勢力を残したものの衰退した。

17世紀初頭になると、各部族がポルトガルを追い出すため団結し、イバード派本来の共同体がイマームを選ぶ制度へ戻そうという動きが起こった。そして1624年、有力部族は選挙によりヤアーリバ家のナーシル・ビン・ムルシドをイマームに選出し、ヤアーリバ朝(首都ルスタク)が成立した。彼は部族全体の支持のもと、イマームとして認められ、その後ナブハーニ家を服属させた。

ナーシルの死後、スルターン・ビン・サイフが後継者となった。1650年にマスカットを奪還し、約150年続いたポルトガル支配を終わらせた。その後、ヤアーリバ朝はインド洋各地のポルトガル拠点への攻勢に転じることとなる。

さて、東アフリカのスワヒリ海岸は、中世以来インド洋交易の要衝であり、金・象牙・奴隷などが取引されていた。そして、季節風を利用すれば、オマーンと東アフリカの間を比較的容易に航海できた。

また、16世紀、ポルトガルは東アフリカ沿岸のモンバサ(現ケニア)、ザンジバル(現タンザニア)、キルワ(現タンザニア)などへ要塞を築き、関税を課していた。これに対し、イスラム教徒であるスワヒリ都市国家は自力で主権を回復できず、ヤアーリバ朝へ援助を求めた。

1650年代以降、ヤアーリバ朝はザンジバルやモンバサ、キルワを攻撃し、ポルトガル支配を終わらせた。東アフリカ沿岸に一連の港湾支配網を築いて、富を獲得した。

1740年代にヤアーリバ朝で内戦が起こりイランのアフシャール朝が介入したが、ブーサイード家のアフマド・ビン・サイードが活躍し影響力を強めた。1744年、アフマド・ビン・サイードが即位し、現在まで続くブーサイード朝(首都ルスタク)が成立した。ブーサイード朝はヤアーリバ朝の勢力範囲を継承した。

もっとも、ヤアーリバ朝は内陸部族への影響力が強くなかった。1780年代には首都を沿岸部のマスカットに移した。

1783年、アフマド・ビン・サイードが死去し、オマーンの王位継承争いに敗れたスルターン・ビン・アフマド王子はバルチスタンのカラート藩王国(ドゥッラーニ朝の支配下)に亡命した。その際、カラートの支配者からグワダル(現パキスタン)を与えられた。

1792年、スルターン・ビン・アフマドが内紛を制して政権を握った。彼は兄弟との対立を避けるため、自らはマスカットでスルタン(世俗的)として統治し、兄をルスタクのイマームとした。与えられていたグワダルはオマーンの海外領土(飛び地)となり、これは1958年まで続いた。

1798年、ナポレオンがエジプトへ侵攻すると、フランス軍がペルシア経由でインドへ向かうことを警戒した。

また、当時、内陸アラビアではワッハーブ王国が急速に勢力を拡大しており、1800年頃にはオマーン北西部へ侵攻した。ワッハーブ王国はペルシア湾沿岸を支配し始めており、オスマン帝国領のバスラ(現イラク)も狙っていた。イギリスはワッハーブ王国がインドへ向かうことも警戒した。

その結果、イギリスはオマーンへ接近し、友好通商条約が締結された。

また、オマーンは、バスラとマスカットを結ぶ航路が脅かされることもあり、オスマン帝国の要請を受けてバスラへ遠征を行った。しかし、1804年、スルターン・ビン・アフマドは遠征中に戦死した。

近代

1806年、サイード・ビン・スルターンが若くして即位した。

1818年、オスマン帝国とエジプト(ムハンマド・アリー朝)の遠征によりワッハーブ王国が崩壊した。これによりオマーン北西国境の圧力は大幅に軽減された。

サウード家の脅威が弱まると、サイード・ビン・スルターンは海外へ目を向け、モンバサ、キルワ、ペンバ島及びザンジバルを次々と支配下に置いた。その後、1832年には首都をザンジバルへ移し、さらに東アフリカ交易を重視した。その結果、支配領域は、北は現ソマリア北部から南は現在のモザンビーク北部まで広がった。

1856年、サイード・ビン・スルターンは死去し、50年の治世を終えた。その後、後継者争いが起こり、息子の一人であるマージドがアフリカ領を相続し、ザンジバル・スルターン国として象牙やクローブ、奴隷貿易による富を引き継ぎ、東アフリカ沿岸部一帯を支配した。一方で、スワイニー・ビン・サイードはアラビア半島側の領土を相続し、マスカット・オマーンとなったが、東アフリカという主要な財源と海軍の大部分を失ったため、国家の財政は急速に悪化した。

彼の死後の1856年、領土は息子たちによってマスカット・オマーンとザンジバルに分割され

1856年、サイード死後に英国の仲裁でマスカット・オマーンとザンジバル王国へ分裂した。

19世紀後半以降、外交・軍事ではイギリスの強い保護下に入った。一方、内陸ではイマーム勢力が独立性を維持し、沿岸スルタンとの対立が続いた。

現代

1947年、オマーンの飛び地グワダルについて、独立後のパキスタンはオマーンと領土返還を交渉した。その結果、1958年にパキスタンがオマーンからグワダルを購入することで合意し、パキスタンへ返還された。

1950年代、イマーム国家が支配する内陸で石油開発が進むと、マスカット・オマーンはイギリスの軍事支援を受けて内陸を征服した。その結果、1959年までにイマーム国家は滅んだ。

また、1962年以降、南部ドファール州で社会主義勢力が反乱を起こした。

1970年にカーブース・ビン・サイードがクーデタで父を退位させて即位し、近代化を進めた。国名もマスカット・オマーン国からオマーン国へ変更し、全国を一つの国家として統治することを示した。

1971年にアラブ首長国連邦が成立すると、周囲のラアス・アル=ハイマ首長国やフジャイラ首長国などがUAEを構成した。しかし、ムサンダムはオマーンに残り、現在のムサンダム特別行政区(飛び地)として残った。部族等の単位での帰属関係を重視し国境を定めたのである。

1976年、南部ドファール州の反乱を、イギリス・イラン・ヨルダンなどの支援を受けて鎮圧した。

1979年、隣国イランでイラン革命が起きても、オマーンは新政権との外交関係を維持した。その背景には、ホルムズ海峡の安全保障があった。

サウジアラビアとの国境は、長らくルブアルハリ砂漠にあり、明確ではなかった。1990年、正式な国境条約が締結され、現在の国境線が確定した。

イエメンとの国境は、長く曖昧だったが1992年に国境条約を締結し、国境を定めた。

アラブ首長国連邦との国境は、1999年の国境条約で大部分の国境を画定し、2002年に残りの部分も画定させた。

2020年、子のいなかったカーブース死去に伴い、従弟のハイサムが即位した。先代の路線を踏襲し、アメリカ、イラン、サウジアラビアらアラブ首長国連邦を初め周辺国すべてと外交関係を維持している。これは、2025年からのイラン危機においても変わりない。

現在もブーサイード朝が続いている。

おわりに

内陸では部族自治とイマーム制度が長く続く一方、沿岸部ではインド洋交易によって豊かな海洋国家へと発展し、一時は東アフリカまで支配を広げました。さらに近代以降はイギリスとの協力や近代化政策を進めながらも、周辺諸国とのバランス外交を維持し続けています。

現在も18世紀に成立したブーサイード朝が続いており、オマーンは中東でも独自の歴史と外交路線を持つ国家として知られています。こうした長い歴史を振り返ることで、現在のオマーンがなぜ「中東の調停役」と呼ばれるのか、その背景も見えてくるでしょう。

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