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世界史|イスラエル国

世界史

はじめに

イスラエルは世界でも特に歴史の長い地域の一つである。古代イスラエル王国の成立からユダヤ人の離散(ディアスポラ)、シオニズム運動、イスラエル建国、そして現在も続くイスラエル・パレスチナ問題まで、その歴史は宗教・民族・国際政治が複雑に絡み合ってきた。

現代の中東情勢を理解するためには、なぜユダヤ人が国家建設を目指したのか、なぜパレスチナ人との対立が続いているのか、そして周辺アラブ諸国や列強がどのように関わってきたのかを知る必要がある。

本記事では、古代イスラエル王国の成立から通史として整理し、イスラエルの歴史と中東問題の背景をわかりやすく解説する。

歴史

古代

紀元前11~10世紀頃、外敵への対抗のため、部族連合から古代イスラエル王国がうまれた。ダビデが勢力を拡大し、エルサレムを政治・宗教の中心地とした。さらにその子のソロモンの時代には、神殿建設や交易発展によって国家体制が強化され、この頃の記憶はユダヤ人の民族意識の基礎となった。

ソロモンの死後、王国は分裂した。北にはイスラエル王国(現在の死海の北西方面)、南にはユダ王国(同西方面)が成立した。北王国は人口や経済規模で優位だったが、紀元前722年に新アッシリア帝国によって滅ぼされた。住民の一部は各地へ移住させられ、「失われた十支族」の伝承もここから生まれた。

南のユダ王国はしばらく存続したが、紀元前586年に新バビロニア帝国がエルサレムを攻略し、神殿を破壊した。この出来事はバビロン捕囚として知られる。

紀元前539年にアケメネス朝が新バビロニア帝国を滅ぼすと、バビロン捕囚中だったユダヤ人の帰還が認められた。ユダヤ人はエルサレムへ戻り、第二神殿を再建したが、独立を回復したわけではなく、「ユダ州」としてペルシア帝国の地方行政区に組み込まれた。宗教面では比較的自治が認められ、ユダヤ教共同体の再建が進んだ。この時代は後のユダヤ社会の基盤形成に大きな役割を果たした。

紀元前2世紀頃、セレウコス朝の支配下に入った。支配層はギリシア文化(ヘレニズム)の普及を進め、都市整備や行政制度を導入したが、宗教・文化面でユダヤ人社会との対立が深まった。特にユダヤ教を制限する政策は反発を招き、紀元前167年頃に戦争が起こり、ユダヤ人勢力は自治を獲得した。紀元前140年にはハスモン朝を成立させて周辺地域へ勢力を拡大した。しかし内部対立が激化し、紀元前63年にポンペイウスがエルサレムへ介入したことで、ローマ共和国の影響下に入り、その後完全なローマ支配へ移行した。ローマは現地王を利用した間接支配を行った。

66年、ローマ支配に対する大規模反乱である第一次ユダヤ戦争が始まった。当初ユダヤ側は一部で勝利したが、ローマ軍は70年にエルサレムを攻略した。この際、ユダヤ教の中心だった第二神殿が破壊され、多数の住民が死亡・奴隷化された。

132年にも反乱が起こった。しかしローマはこれを徹底的に鎮圧し、多数のユダヤ人が殺害・追放された。反乱後、ローマは地域名を「ユダヤ」から「シリア・パレスティナ」に変更した。こうして多くのユダヤ人が地中海各地や西アジアへ移住し、数世紀にわたる大規模な離散(ディアスポラ)が進展していった。多くのユダヤ人は地中海沿岸、エジプト、シリア、イラクなどへ広がった。なお、一部のユダヤ人共同体はその後も現在のイスラエル地域に残り続けた。

ローマ帝国は反乱鎮圧後、エルサレムにおけるユダヤ人の居住や宗教活動を制限した。4世紀にキリスト教が公認となり、その後にローマ帝国がキリスト教化すると、この地域はキリスト教の聖地として重要性を増した。395年のローマ帝国分裂後は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下となった。ビザンツ時代にはギリシア語文化とキリスト教が強まり、住民の多くもキリスト教徒化した。

中世

7世紀前半にアラビア半島からイスラム勢力が急拡大し、636年にビザンツ帝国が敗北すると、地域はイスラム勢力に組み込まれた。当初は正統カリフ、続いてウマイヤ朝成立後の支配下となり、エルサレムには岩のドームなどが建設された。住民は数世紀かけてアラブ化・イスラム化した。その後も支配者は変化し、アッバース朝、ファーティマ朝、十字軍国家、アイユーブ朝、マムルーク朝へと支配が移った。

近世

16世紀にはオスマン帝国のマムルーク征服によってオスマン帝国領となり、第一次世界大戦まで約400年間支配された。

近代

19世紀末にシオニズム運動が登場する。シオニズム運動は、19世紀後半に始まったユダヤ人の民族運動であり、世界各地に離散していたユダヤ人が歴史的故地であるパレスチナに民族的拠点、後には国家を建設することを目指した運動である。名称の「シオニズム(Zionism)」は「シオン(Zion)」に由来する。シオンはもともとエルサレムの丘や城塞を指した言葉だったが、次第にエルサレム全体やイスラエルの地、さらにはユダヤ人の故郷を象徴する宗教的・民族的概念となった。

背景。19世紀のヨーロッパでは、民族主義の広がりとともに各民族が国家建設を目指すようになった一方、ユダヤ人は差別や反ユダヤ主義に直面した。特に東欧・ロシア帝国での迫害や、西欧でも起きた反ユダヤ事件は、「同化だけでは安全を得られない」という考えを強めた。運動の理論化に大きく貢献したのが、テオドール・ヘルツルであり、彼は1896年に著書 ユダヤ人国家 を発表し、翌年には第1回シオニスト会議を開いた。以後、当時アラブ系の多かったパレスチナへの移住や土地取得が進み、後のイスラエル建国の重要な基盤となった。

1914年に第一次世界大戦が勃発した。イギリスにとってパレスチナは、インドへの交通路であるスエズ運河周辺を守る戦略的重要地域だった。イギリスは戦争を有利に進めるため、異なる相手に複数の約束を行った。一方ではアラブ人に対してオスマン帝国への反乱支援を求め、将来の独立を示唆した。他方ではサイクス•ピコ協定によりフランスと秘密裏に中東分割案を協議し、さらにシオニストにも接近した。

イギリス政府がシオニズム支持へ傾いた理由は複数ある。ユダヤ人指導者の外交活動に加え、イギリス指導層の一部には宗教的・思想的共感が存在した。また、当時のロシアやアメリカのユダヤ人世論が戦争協力を後押しするのではないかという期待もあった。ただし「世界のユダヤ人が戦争を左右する」という認識は当時の政治家の一部に存在したものであり、現代では誇張や偏見を含んでいたと考えられている。

こうした事情の積み重ねの結果、1917年にバルフォア宣言が出された。ただし宣言は「ユダヤ国家」ではなく「ユダヤ人の民族的郷土」と表現し、同時に「既存の非ユダヤ人共同体の権利を害してはならない」とも記していた。この曖昧な文言は、後にユダヤ人側とアラブ人側の双方が異なる解釈を行う原因となり、後のイスラエル建国とパレスチナ問題の重要な出発点になった。

1917年末、イギリス軍はエルサレムを占領し、その後オスマン帝国は敗北した。戦後、国際社会では旧オスマン領の扱いが問題となった。1920年の国際会議では、パレスチナ地域をイギリスが管理する方針が固まり、1922年には当時の国際連盟が正式にイギリスへ委任統治権を与えた。名目上は住民が将来独立できるよう統治を支援する制度だったが、実際にはイギリスが強い行政権を握っていた。

イギリス統治開始時、ユダヤ人は少数だった。しかしシオニズム運動の進展によって、19世紀末から続くユダヤ人移住はさらに活発になった。特に東欧での反ユダヤ主義や政治的不安定化、さらに1930年代以降のヨーロッパでの迫害拡大により、多くのユダヤ人が移住した。ユダヤ人はアラブ人と多く衝突した。

パレスチナのアラブ人社会では、「将来、自分たちが土地や政治的主導権を失うのではないか」という不安が急速に高まった。

1936年、アラブ側はゼネラル・ストライキを開始し、税支払い拒否やイギリス製品の不買運動を行ったが、次第に武装闘争へ発展した。周辺のシリア、イラク、トランスヨルダンなどから義勇兵が流入し、アラブ民族主義の観点から支援が行われた。イギリスは大規模な軍事力を投入し、ユダヤ人側の治安組織の一部とも協力した。反乱指導者の逮捕、家屋破壊、武装組織の鎮圧が進められ、1939年までに反乱はほぼ鎮圧された。イギリスはユダヤ人移住と土地取得に制限を設け、将来的な独立国家構想を提示した。しかしユダヤ人側はこれを受け入れず、アラブ側も十分とは考えなかった。また、反乱の過程でアラブ側指導層や武装勢力が大きな打撃を受けたため、1940年代後半のイスラエル建国と戦争の時期には組織力が弱まっていた。

第二次世界大戦中、ホロコーストによって約600万人のユダヤ人が殺害された。この事件は国際社会に大きな衝撃を与え、ユダヤ人国家建設への支持を強める要因となった。

現代

戦後、ホロコーストの衝撃によって国際社会ではユダヤ人難民問題への関心が高まり、パレスチナへの移住要求が強まった。一方でイギリスはユダヤ人・アラブ人双方との対立を抱え、統治維持が困難になった。ユダヤ人武装組織はイギリス統治に対する攻撃も強めたため、最終的にイギリスは問題を国際連合へ委ねた。

国連の調査委員会は、共同国家案では対立解決が難しいと判断し、分割案を提案した。内容としては、パレスチナ地域を二つの国家へ分けるもので、ユダヤ人国家には地中海沿岸部、ガリラヤ地方、ネゲヴ砂漠の大部分などが与えられ、アラブ人国家にはガザ地区、西岸地域、ガリラヤの一部などが割り当てられた。領土は飛び地が多く、互いに入り組んだ形だった。またエルサレムとベツレヘムは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の重要聖地であるため、どちらの国家にも属さず国際管理地域とされる構想だった。この案では、人口構成が大きな問題となった。当時パレスチナ全体ではアラブ人が多数派だったが、ユダヤ人国家予定地域にも多数のアラブ人が居住していた。面積ではユダヤ人国家側に比較的大きな領域が割り当てられたため、アラブ側には不公平との認識が強かった。ただしユダヤ人国家予定地には人口が少ないネゲヴ砂漠も多く含まれていた。

1947年11月、国連総会で分割案は可決された。ユダヤ人指導部は完全な理想案ではないとしながらも、国家承認への第一歩として受け入れた。一方、パレスチナ・アラブ人指導者や周辺アラブ諸国は拒否した。彼らは「住民多数派であるアラブ人の意思を無視している」と主張した。決議直後からパレスチナ内部でユダヤ人勢力とアラブ人勢力の武力衝突が始まった。イギリスが撤退を進める中で内戦状態が拡大し、1948年5月にイスラエル(イスラエルは前13世紀末ごろのヘブライ人の部族連合の総称。)が独立を宣言すると、周辺アラブ諸国が介入して第一次中東戦争へ発展した。

主要アラブ国家の態度は一枚岩ではなかった。エジプトはアラブ世界での影響力拡大を意識し、南方から進軍した。トランスヨルダンは比較的訓練されたアラブ軍団を持ち、特にエルサレムやヨルダン川西岸地域への影響力確保を重視していた。シリアやイラク、レバノンも参戦したが、各国には独自の国益があり、統一戦略は十分ではなかった。パレスチナ国家建設よりも、自国の安全保障や地域的利益を優先する側面もあったため、軍事行動は必ずしも統一的ではなかった。

諸外国の態度も複雑だった。アメリカ合衆国は国連分割案を支持し、イスラエル独立宣言後まもなく国家承認を行った。ただし当初から全面的軍事支援をしていたわけではない。興味深いことに、ソビエト連邦も当初はイスラエル承認を行い、東欧経由の武器供給を間接的に支援した。ソ連は中東におけるイギリスの影響力を弱める可能性を期待していた。一方、イギリスは委任統治終了後に直接参戦しなかったが、トランスヨルダンとの関係を維持しており、複雑な立場を取った。

結果としてイスラエルは国連分割案で割り当てられていた地域以上の領土を獲得した。トランスヨルダンはヨルダン川西岸と東エルサレムを支配し、エジプトはガザ地区を管理した。一方で約70万人以上のパレスチナ人が避難・離散し、難民問題が発生した。

イスラエルは1948年に加盟を申請したが、戦争継続中で国境も未確定であり、特にパレスチナ難民問題が大きな論点となった。そのため当初は加盟に至らなかった。

1949年3月、国連安全保障理事会はイスラエルを加盟に適格と判断し、総会への勧告を可決した。安全保障理事会では9か国が賛成し、反対はエジプトのみ、イギリスは棄権した。 その後1949年5月、国連総会でイスラエルは正式加盟国となった。投票結果は賛成37、反対12、棄権9だった。  反対した国々の多くはアラブ・イスラム諸国だった。具体的にはエジプト、イラク、レバノン、サウジアラビア、シリア、イエメンが反対したほか、アフガニスタン、イラン、パキスタン、インドなども反対した。反対理由は、「パレスチナ分割が不当」「パレスチナ人の民族自決が十分に考慮されていない」「難民問題が未解決」というものだった。  一方で加盟賛成国は、「国家として実際に存在し機能している以上、国際秩序の中に組み込むべきだ」と考えた。

イスラエル国内では、初代首相ダヴィド・ベン=グリオンの下で国家建設が進められた。1952年、西ドイツとの間で賠償協定が締結され、ナチスによる迫害への補償金がイスラエル経済の立て直しに大きく寄与した。一方、アラブ諸国はイスラエル包囲を継続し、経済封鎖や国境地帯での小競り合いが続いた。とりわけガザ地区を支配していたエジプトはスエズ運河をイスラエル船舶に閉鎖し、紅海への出口であるティラン海峡も制限したため、イスラエルは安全保障上の脅威を強く感じていた。

1955年にエジプトの指導者ガマール・アブドゥル=ナーセルがチェコスロヴァキア経由でソ連圏から大規模兵器を導入すると、イスラエルは軍事的危機感を強めた。

フランスは当時、アルジェリア独立戦争でナーセル政権が反仏勢力を支援していることに反発しており、イスラエルと利害が一致した。そのため、イスラエルは秘密裏にフランスとの軍事協力を深めた。1956年、ナーセルがスエズ運河国有化を宣言した。イギリスも、ナーセルによるスエズ運河国有化に強く反発していた。

イギリス・フランス・イスラエルの三国は秘密協定を結び、エジプト攻撃を計画した。同年10月、イスラエル軍はシナイ半島へ侵攻し、これが第二次中東戦争(スエズ危機)の開始となった。イスラエル軍は短期間でシナイ半島やガザ地区を占領し、軍事的優位を示したが、アメリカとソ連は武力行使拡大に反対し、国際的圧力によって英仏イスラエルは撤退を余儀なくされた。ただしイスラエルは、ティラン海峡の通航権確保や国連緊急軍のシナイ駐留など、安全保障面で一定の成果を得た。

その後、周辺国に囲まれた安全保障不安から軍備増強が続いた。特にフランスとの協力関係が深まり、近代兵器や航空機の供給を受けた。また秘密裏に核開発も進められ、ネゲヴ砂漠のディモナ施設建設が始まった。国内では移民受け入れと経済成長が進み、国家基盤は建国直後より安定していった。

1960年代に入ると、パレスチナ人自身による武装闘争が本格化する。1965年からはヤーセル・アラファート率いるファタハがイスラエルへの越境攻撃を開始した。イスラエル軍はこれに対して報復作戦を行った。

1967年、ソ連が「イスラエル軍がシリア国境に集結している」とエジプトへ通告したことを契機に、ナーセルはシナイ半島へ大規模部隊を進駐させ、国連緊急軍の撤退を要求した。国連軍は撤収し、続いてエジプトはティラン海峡を封鎖した。これはイスラエルにとって紅海航路遮断を意味し、重大な安全保障上の脅威と受け止められた。さらにエジプトはヨルダンやシリアと軍事協定を結び、アラブ世界では対イスラエル開戦ムードが高まった。

イスラエル政府は包囲される危機感を強め、先制攻撃を決断する。そして1967年6月、イスラエル空軍はエジプト空軍基地を奇襲し、ここに第三次中東戦争が勃発した。その後、同様の攻撃はシリアやヨルダンの空軍にも加えられた。

シナイ半島ではイスラエル軍が数日でスエズ運河東岸へ到達した。エジプト軍は混乱の中で撤退した。一方、ヨルダン軍はエルサレムや西岸地区でイスラエル軍と交戦したが、イスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸を占領した。特に旧市街の占領は、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」をイスラエルが掌握したことを意味した。

北部戦線では、当初イスラエルはシリアとの全面戦闘を避けていたが、シリア軍による砲撃継続を受けて攻勢に転じた。イスラエル軍は険しい地形のゴラン高原へ侵攻し、激戦の末これを占領した。

戦争はわずか6日間で終結し、イスラエルは圧倒的勝利を収めた。領土は戦前の数倍に拡大し、シナイ半島・ガザ地区・ヨルダン川西岸・東エルサレム・ゴラン高原を支配下に置いた。この結果、イスラエルは軍事的優位を確立したが、同時に多数のパレスチナ人を占領統治する問題を抱えることになった。また、国際連合安全保障理事会が「占領地からのイスラエル軍撤退」と「すべての国家の安全な生存権承認」を柱とする和平原則を提示したが、問題は解決しなかった。

イスラエルとフランスの関係は悪化していた。

1960年代後半、フランス大統領シャルル・ド・ゴールはアラブ諸国との関係改善を重視し始め、1967年の第三次中東戦争後にはイスラエルへの武器禁輸を実施した。これによりイスラエルは新たな後ろ盾を必要とした。

1968年以降、エジプトはスエズ運河沿いでイスラエル軍への攻撃を強化したため、断続的戦争状態に入った。ソ連はエジプトへ大量の兵器や軍事顧問を送り、支援した。一方、アメリカは中東で対抗軸を求めて、イスラエルと接近した。こうして中東対立は冷戦構造と深く結びついていった。

1970年、ナーセルが死去すると、副大統領だったアンワル・アッ=サーダートが後継者となった。ソ連依存を調整しつつ軍備増強を継続し、同時に「限定戦争によって占領地問題を国際交渉へ持ち込む」方針を構想した。

サーダートはシリアのハーフィズ・アル=アサドと協力し、エジプト軍はシナイ半島、シリア軍はゴラン高原奪還を目指す共同作戦を準備した。1973年10月6日に奇襲攻撃を開始し、第四次中東戦争が勃発した。南部シナイ半島では、エジプト軍がスエズ運河を渡河し、イスラエル軍の防衛線を突破した。一方北部ゴラン高原では、シリア軍戦車部隊が大攻勢をかけ、イスラエルは防衛線維持に全力を注いだ。その後、北部戦線では、シリア軍を押し返し、逆にダマスカス方面へ進撃した。南部では、スエズ運河を逆渡河した。戦争中、アメリカ合衆国は大規模空輸作戦によってイスラエルを支えた。一方、ソ連はエジプトやシリアを支援した。核戦争への懸念も高まり、最終的に米ソは停戦へ動いた。

1973年10月、国際連合安全保障理事会決議に基づき停戦が成立した。軍事的にはイスラエルが最終的優位を保ったものの、この戦争は「勝利」と単純には受け止められなかった。奇襲を許した政府・軍指導部への批判は激しく、首相ゴルダ・メイアは1974年に辞任した。

外交面では、アメリカの仲介により、まずエジプト、続いてシリアと兵力引き離し協定を締結した。一方、アラブ産油国はイスラエル支援国への石油輸出制限を実施し、第一次石油危機が発生した。

1977年の総選挙で、建国以来初めて労働党が敗北し、右派政党リクードが勝利した。新首相となったメナヘム・ベギンは、強硬な安全保障政策とユダヤ人国家意識を掲げた。これは第四次中東戦争後の不安や、労働党エリート層への反発を背景としていた。

1977年、エジプト大統領アンワル・アッ=サーダートが突如エルサレムを訪問し、イスラエル議会で演説した。その後、アメリカ大統領ジミー・カーターの仲介の下、1978年にキャンプ・デービッド合意が成立し、翌1979年にはエジプト・イスラエル平和条約が締結された。イスラエルはシナイ半島返還(1982年に全面返還)に同意し、その代わりに建国以来最大の敵国だったエジプトから正式承認を得た。

1980年には「エルサレム基本法」を制定し、統一エルサレムをイスラエルの首都と宣言した。

1981年には、1967年にシリアから占領した ゴラン高原 にイスラエル法を適用し、事実上併合した。

また同年、アメリカ合衆国と戦略協力協定を締結し、軍事・経済援助が拡大した。冷戦下で、アメリカはイスラエルを中東における重要な同盟国とみなしていた。

さらに、同年、将来的な核開発を警戒して イラク のオシラク原子炉を空爆した。この先制攻撃は国際的には批判されたが、イスラエル国内では安全保障上必要との支持も強かった。

1982年には レバノン戦争 が勃発した。イスラエルは、レバノン南部を拠点に攻撃を続けていた パレスチナ解放機構(PLO)を排除するため、 レバノン へ侵攻し、首都ベイルート近郊まで進軍した。PLOはチュニジアへ移転した。

1987年には、占領地のパレスチナ人による大規模蜂起である 第一次インティファーダ が発生した。投石やストライキを中心とした民衆運動だったが、イスラエル軍との衝突は激化した。このとき、イスラム教スンニ派の「ムスリム同胞団」を母体とするイスラム主義組織ハマスが結成された。

1988年、 PLOの指導者アラファト は、国連決議を受け入れ、イスラエルの存在を事実上承認する方向へ転換し、PLOと対話する環境が徐々に整い始めた。

1990年には 湾岸戦争 が発生した。 イラクの サダム・フセイン はイスラエルにミサイル攻撃を行い、イスラエルを戦争に引き込もうとした。しかし、アラブ諸国を含む対イラク連合維持を重視した アメリカ合衆国 の要請により、イスラエルは報復攻撃を自制した。

1992年の総選挙では労働党が勝利し、 イツハク・ラビン が政権に復帰した。ラビンは安全保障重視の立場を維持しつつも、占領地問題を外交で解決すべきだと考えた。

1993年にノルウェーの仲介でオスロ合意 が成立する。パレスチナ自治区(ガザ地区とヨルダン川西岸地区)の一部における暫定的な自治を認め、将来の最終的地位交渉への枠組みを定めた。イスラエルがPLOをパレスチナ人民の正統な代表として公式に承認し、PLOはイスラエル国家の存在権を承認したが、難民問題、エルサレムの帰属、入植地及び国境など最重要問題は先送りされた。

1994年には、アラファトらPLO指導部が亡命先の チュニジア からガザへ帰還し、パレスチナ自治政府(ファタハが中心)が発足した。同年、イスラエルは ヨルダン とも平和条約を締結した。

しかし、イスラエル国内では入植地撤退に反対する右派勢力や宗教勢力が強く反発し、パレスチナ側でもハマス(イスラエルを国家として承認せず、オスロ合意にも反対)が武装闘争継続を主張した。

1995年には「オスロII合意」が締結され、自治区域が拡大した。具体的には、ヨルダン川西岸をA・B・Cの三地域に分割し、A地区はパレスチナ自治政府が行政・治安の両方を担当、B地区は行政をパレスチナ側、治安をイスラエル側が担当、C地区はイスラエルが全面管理する形となった。主要パレスチナ都市からのイスラエル軍段階撤退も定められ、パレスチナ側の自治範囲は大幅に拡大した。

また、同年、イスラエルのラビン首相がユダヤ人右派青年に暗殺された。後継のシモン・ペレスは和平継続を目指したが、1996年にハマス が自爆攻撃を繰り返したことで治安不安が高まり、強硬論が支持を集めた。

1996年の首相直接選挙では右派リクードの ベンヤミン・ネタニヤフ が勝利した。ネタニヤフはオスロ合意そのものを完全否定はしなかったが、「安全保障優先」を掲げ、パレスチナ自治拡大には慎重姿勢を取った。特に 東エルサレム 周辺でのユダヤ人入植地建設を推進したため、パレスチナ側との対立が再燃した。

1999年には労働党系の エフード・バラク が首相となり、和平交渉再活性化を目指した。バラクは南部 レバノン に駐留していたイスラエル軍撤退を計画し、さらにシリアやパレスチナ側との包括和平を模索した。しかし、交渉は難航した。

2000年、首相 エフード・バラク は、 アメリカ合衆国 の仲介で アラファト と キャンプ・デービッド会談 を行った。イスラエル側はヨルダン川西岸の大部分返還などを提案したが、 東エルサレム の帰属やパレスチナ難民帰還権で妥協できず、交渉は決裂した。同年、右派政治家 アリエル・シャロン の神殿の丘訪問を契機に、 第二次インティファーダ が勃発した。

2001年に首相となったシャロンは強硬姿勢を取り、2002年にはヨルダン川西岸 の主要都市へ再進駐し、 パレスチナ自治政府 の拠点も包囲した。またイスラエルは、自爆攻撃防止を理由に西岸分離壁の建設を開始した。一方でシャロンは、占領地維持コストや人口問題を考慮し、2005年に ガザ地区 から一方的撤退を実施した

2006年には、パレスチナ立法評議会選挙においてハマスが勝利した。選挙後にハマスとファタハの対立が武力衝突へ発展し、2007年にハマスがガザを実効支配するに至った。イスラエルはハマスをテロ組織と位置づけ、封鎖を強化した。

同年には、レバノン南部のシーア派武装組織 ヒズボラ がイスラエル兵を拉致したことで、 レバノン戦争 が発生した。イスラエル軍は大規模空爆と地上侵攻を行ったが、ヒズボラ壊滅には失敗した。

2009年には、右派政党リクードを率いるネタニヤフが再び首相に就任した。以後、彼は長期政権を築き、安全保障重視と経済成長を軸とした政策を展開した。ネタニヤフ政権は、イラン核開発をイスラエル最大の脅威と位置づけ、国際社会に対してイラン制裁強化を強く求めた。

2011年以降、中東ではアラブの春が広がった。エジプトでは長年イスラエルと平和条約を維持してきたムバラク政権が崩壊した。またシリアでは内戦が始まり、イランやヒズボラが軍事介入を強めたことで、イスラエル北部国境の緊張も増した。

2012年には、イスラエルはハマスの幹部を殺害し、ハマス側は応戦した。

2017年にアメリカにてトランプが大統領に就任すると、米イスラエル関係は急速に強化された。2017年末、アメリカはエルサレムをイスラエルの首都として正式承認し、翌2018年には在イスラエル米大使館をエルサレムへ移転した。しかし、エルサレムに対するイスラエルの主権は一般に承認されているわけではない。そのため、依然として多くの国はテルアビブを事実上の首都として対処している。

2020年、イスラエルは アブラハム合意を通じて、アラブ首長国連邦、バーレーン、後にはモロッコなどと国交正常化を実現した。背景には、湾岸諸国とイスラエルの双方がイランの地域拡大を共通脅威と認識していたことがある。

2021年には、反ネタニヤフ勢力が連立を組み、ナフタリ•ベネットが首相となった。この政権には右派、中央、左派、さらにアラブ系政党まで加わり、「ネタニヤフ退陣」が唯一の共通点とも言われた。しかし内部対立は激しく、長期安定政権にはならなかった。

2022年末、ネタニヤフは右派・宗教政党との連立によって政権に復帰した。

2023年10月、ハマスがガザ地区からイスラエル南部へ大規模奇襲攻撃を実施した。武装勢力は国境を突破し、多数の民間人を殺害・拉致した。この攻撃はイスラエル社会に極めて大きな衝撃を与えた。イスラエル政府は直ちに宣戦布告に近い対応を取り、ガザ地区への大規模空爆と地上侵攻を開始した。

2023年10月以降、レバノン南部を拠点とするヒズボラはイスラエル北部へ攻撃を継続していた。2024年9月にはイスラエル軍がヒズボラ指導部への大規模攻撃を実施し、組織の軍事能力に大きな打撃を与えた。 イスラエル軍は2024年10月1日に地上作戦を開始し、レバノン南部へ侵攻した。目的は、国境地帯のヒズボラ拠点や地下トンネル、ロケット発射施設を破壊し、イスラエル北部住民の帰還を可能にすることだと説明された。

おわりに

おわりに

イスラエルの歴史は、古代王国の成立と滅亡、ユダヤ人の離散、シオニズム運動、国家建設、そして周辺諸国との戦争や和平交渉の積み重ねによって形作られてきた。

一方で、イスラエルの歴史はユダヤ人だけの歴史ではない。同じ土地で暮らしてきたパレスチナ人の歴史とも深く結びついており、両者の主張や記憶が現在の対立の背景となっている。イスラエル建国はユダヤ人にとって悲願の実現であったが、多くのパレスチナ人にとっては故郷を失う経験でもあった。

21世紀に入っても、和平交渉の停滞、入植地問題、ガザ地区をめぐる対立、周辺武装勢力との衝突など、多くの課題は解決されていない。2023年以降のガザ戦争やレバノン情勢は、その複雑な歴史が現在も続いていることを示している。

イスラエルとパレスチナをめぐる問題を理解するためには、どちらか一方の立場だけではなく、長い歴史の中で形成されてきた双方の視点を知ることが重要である。本記事が、その歴史的背景を理解する一助となれば幸いである。

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