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世界史|イラク共和国

世界史

はじめに

イラクは、シュメール文明が誕生したメソポタミアを中心とする地域に成立した国家である。古代には人類最古級の文明が栄え、中世にはアッバース朝の首都バグダードがイスラム世界の中心として繁栄した。その後もオスマン帝国支配やイギリス委任統治を経て独立し、現代に至るまで中東情勢の重要な舞台となっている。

歴史

古代

チグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミアは文明のゆりかごと呼ばれ、人類史上最古級の都市文明が生まれた地域である。紀元前3500年頃、南メソポタミアでシュメール人がウル、ウルクなどの都市国家を建設し、灌漑農業や楔形文字を発明した。

紀元前24世紀頃に サルゴン が諸都市を統一して アッカド帝国 を建設した。帝国崩壊後はシュメール勢力が一時復興したが、やがてバビロニアが台頭した。紀元前18世紀には ハンムラビ がメソポタミアを統一し、法典の整備によって王権国家を発展させた。

その後、北部のアッシリアが強大化し、紀元前9~7世紀には 新アッシリア帝国 が西アジア全域を支配した。しかし紀元前612年に滅亡し、代わって 新バビロニア王国 が成立した。この王国は ネブカドネザル2世 の時代に繁栄したが、紀元前539年に アケメネス朝 に征服された。

アケメネス朝は広大な帝国を統治するため道路網や行政制度を整備し、メソポタミアはその中心地域の一つとなった。紀元前331年には アレクサンドロス3世 がアケメネス朝を滅ぼし、ギリシア文化をもたらした。彼の死後は セレウコス朝 が支配した。

紀元前2世紀頃からイラン系の パルティア がメソポタミアを獲得した。パルティアは東西交易の中継地として地域を発展させ、西方の ローマ帝国 と長期間争った。3世紀になるとパルティアはサザン朝に取って代わられた。サザン朝は首都クテシフォンを現在のバグダード近郊に置き、イラク地域を帝国の政治・経済の中心とした。

6世紀から7世紀初頭にかけて、サーサーン朝は東ローマ帝国との長年の戦争によって疲弊した。さらに重税や政治混乱が続き、帝国の統治力は弱まった。その頃、南方のアラビア半島では ムハンマド がイスラム教を創始していた。632年の彼の死後、アラブ軍は急速に勢力を拡大し、636年にサーサーン朝軍を破った。これにより、イラク地域はイスラム世界の一部へと組み込まれていくことになる。

中世

750年、預言者ムハンマドの叔父アル=アッバースの子孫を称する勢力が、ホラーサーン地方を拠点に反乱を起こし、ウマイヤ朝 を打倒して アッバース朝 を建国した。第2代のマンスール は762年、チグリス川沿いにバグダードを建設した。バグダードはメソポタミアの交通の要衝に位置し、ペルシア・シリア・アラビアを結ぶ地点であったため急速に発展した。8世紀後半から9世紀前半にかけて、特に ハールーン・アッラシード とその子 マアムーン の時代に最盛期を迎えた。しかし9世紀以降、広大な帝国を統治することが困難になり、地方で独立政権が相次いだ。カリフはトルコ系軍人に依存するようになり、実権を失っていった。

945年にはイラン系の ブワイフ朝 がバグダードを占領し、カリフは宗教的権威のみを持つ存在となった。さらに11世紀半ばにはスンナ派の セルジューク朝 が進出し、ブワイフ朝を追放したが、依然として政治の主導権はカリフの手には戻らなかった。

12世紀後半になるとアッバース朝はイラク周辺で一定の権威を回復したが、13世紀に入ると東方からモンゴル帝国が迫り、1258年にフレグ が率いるモンゴル軍がバグダードを包囲し、陥落した。最後のカリフは処刑され、アッバース朝は滅亡した。

14世紀に入るとイルハン朝は内紛や財政難に苦しむようになる。1335年に君主が後継者を残さず死去すると帝国は急速に分裂した。イラクではモンゴル系・テュルク系・ペルシア系の諸勢力が争い、統一権力は消滅した。その後はジャライル朝がイルハン朝の後継国家としてイラクを支配した。

14世紀末には中央アジアから ティムール が侵攻し、バグダードを占領した。しかしティムール帝国の衰退後は、テュルク系遊牧勢力である 黒羊朝 がイラクを支配し、15世紀後半にはこれを打倒した 白羊朝 が覇権を握った。

近世

白羊朝も内紛によって衰退し、1501年にイランで成立した サファヴィー朝 が勢力を拡大してイラクを支配下に置いた。一方、西方ではスンナ派の オスマン帝国 が急速に拡大しており、両国はイラクをめぐって対立した。1514年の チャルディラーンの戦い でオスマン帝国が勝利すると、メソポタミア北部への影響力を強めた。そして1534年、オスマン帝国の スレイマン1世 がバグダードを占領し、イラクの大部分はオスマン帝国の支配下に入った。しかしサファヴィー朝 もイラク、とりわけシーア派の聖地ナジャフやカルバラーを重視しており、1623年にはサファヴィー朝がバグダードを奪回したが、1638年にオスマン帝国のスルタン ムラト4世 が再征服した。そして1639年の ズハーブ条約 により現在のイラク・イラン国境の原型が定まった。

オスマン帝国はイラクを主にバグダード、バスラ、モスルの三州に分けて統治した。しかし中央政府の支配は必ずしも強固ではなく、17~18世紀には地方有力者や部族が大きな影響力を持った。

近代

19世紀に入ると、衰退する帝国を立て直そうとするオスマン政府は中央集権化政策を推進した。そして19世紀後半になると、イラクは列強の関心を集めるようになった。特に イギリス は、インドへの交通路確保やペルシア湾の支配を重視し、バスラ周辺への影響力を強めた。一方、ドイツ はバグダード鉄道計画を推進し、オスマン帝国内への進出を図った。このようにイラクは列強の競争の舞台となっていった。

1914年に 第一次世界大戦 が勃発すると、オスマン帝国はドイツ側として参戦した。これに対しイギリス軍はペルシア湾から侵攻し、まずバスラを占領した。その後一時は苦戦したものの、1917年にはバグダードを攻略し、さらに北上してモスル方面へ進出した。戦争末期にはオスマン軍の抵抗力は大きく低下し、1918年に ムドロス休戦協定 が結ばれ、オスマン軍の武装解除や連合国による戦略地点の占領権が認められた。当時、イギリス軍はすでにバスラとバグダードを占領しており、休戦協定締結後にはモスルも占領した。その結果、現在のイラクに相当する地域はすべてイギリスの支配下に入った。

少し時を戻すと、1916年のサイクス・ピコ協定では、イギリス と フランス が、敗戦後のオスマン帝国領アラブ地域をどう分割するかを秘密裏に取り決めていた。南部のバスラ周辺をイギリスの直接支配地域、モスルを含む北部をフランスの勢力圏に組み込み、その中間のバグダード周辺をイギリスの勢力圏とする案が示された。イギリスの最大の目的は、インドへの交通路とペルシア湾の安全確保であった。バスラはインド航路の防衛拠点として重要であり、また後に石油資源の価値も高まった。一方フランスは、伝統的に影響力を持っていたシリア・レバノン地域の確保を優先し、その延長としてモスル地方にも権益を求めた。

その後、連合国はオスマン帝国領アラブ地域の処分を協議し、1920年の サンレモ会議 でイラクをイギリスの委任統治領とすることを決定した。その背景には以下のような事情がある。先に述べたムドロス休戦協定 締結直後、イギリス軍はモスルを占領していた。一方のフランスも、戦後はシリアとレバノンの支配権確保を優先した。そこで1920年の サンレモ会議 において妥協が成立し、フランスはモスル領有を断念する代わりにシリア・レバノンの委任統治権を獲得した。

1920年には、シーア派宗教指導者、スンナ派の有力者、部族勢力などが共同して大規模な反英蜂起を起こした。結果的に鎮圧されたが、委任統治領の維持に莫大な費用がかかることになった。イギリスは方針を転換し、親英的なアラブ王国を樹立して間接統治することを目指した。その際に白羽の矢が立ったのが、ファイサル1世 (ハーシム家)である。ファイサルは第一次世界大戦中にで父 フサイン・イブン・アリー (のちにヒジャーズ王国の国王)とともにオスマン帝国に対して戦い、戦後には一時 シリア の王となった。しかし1920年、フランス軍によってシリア王国を追放されていた。イギリスは彼をイラク王に据えることで、アラブ民族主義者の支持を得ながら自国の影響力を維持しようと考えた。1921年、住民投票という形式を経てファイサルは国王に即位し、イラク王国 が成立した。ただし実際には外交・軍事・財政の重要部分はイギリスの管理下にあった。

1923年の ローザンヌ条約 によって、オスマン帝国の後継国家である トルコ はアラブ諸地域への領有権主張を正式に放棄した。これにより法的にもイラクはオスマン帝国(およびトルコ)から切り離された。

ファイサル1世はスンナ派でありながら、国内多数派であるシーア派や北部のクルド人を統合しなければならなかった。彼は中央集権的な国家建設を進め、官僚制度や軍隊を整備した。またイギリスとの関係を維持しながら独立拡大を目指した。その成果として1930年にイギリスは軍事基地の使用権などを保持する代わりにイラクの独立を認める方針を示した。そして1932年、イラクは正式に委任統治を終了し、国際連盟 に加盟した。

1933年にファイサル1世 が死去すると、若い ガージー1世 が即位したが、政治は不安定化し、軍部の発言力が強まった。1936年には軍事クーデターが発生するなど、政権交代が頻繁に起こった。ガージー1世は第二次世界大戦直前に死去し、幼少のファイサル2世が即位した。

1939年に第二次世界大戦が始まると、イラクは条約上イギリスと協力関係にあったが、反英感情は根強かった。1941年4月、民族主義的な政治家ラシード・アリーはクーデターを起こし、親英政権を排除した。新政権は形式的には枢軸国側に参戦しなかったものの、ドイツ や イタリア に接近し、イギリス軍の活動を制限しようとした。これを中東の戦略拠点喪失の危機とみたイギリスは直ちに軍事介入を決断した。1941年5月、イギリス軍はバスラから上陸し、ヨルダン方面からも進軍した。戦闘は約1か月で終結し、イラク軍は敗北した。ラシード・アリーは国外へ逃亡し、親英的な摂政 アブドゥル・イラーフ(ハーシム家)が復権した。こうしてイラクは再びイギリスの強い管理下に置かれた。1943年にはイラク政府も正式に枢軸国へ宣戦布告し、連合国側に加わった。

現代

1945年、イラクは 国際連合 の原加盟国となり、同時に アラブ連盟 の創設メンバーにも加わった。

1948年には、イギリスとの新たな同盟条約の締結が試みられた。しかし、この条約がイギリスの影響力を温存する内容であったため、首都バグダードを中心に大規模な反政府運動が発生し、政府は条約批准を断念した。

同年、第一次中東戦争が勃発すると、イラク軍はアラブ諸国の一員として参戦した。しかし、結果はアラブ側の敗北に終わった。

外交面では冷戦の影響が強まった。イラク政府はソ連の南下を警戒するイギリスやアメリカとの協力を重視し、1955年には バグダード条約機構 に加盟した。しかし、エジプトのナセル から西側への従属と批判され、イラク国内でも反発を招いた。

1958年2月、エジプトとシリアが統合して アラブ連合共和国 を樹立すると、ハーシム家の王政を維持するイラクとヨルダン(国王は従兄弟同士)は同月に アラブ連邦 を結成しイラクのファイサル2世を元首として、外交・防衛面での協力強化を目指した。しかし、この統合は十分な基盤を持っておらず、アラブ民族主義者から旧体制維持のための連合とみなされていた。

また、石油収入の増加にもかかわらず、利益の多くは地主や支配層に集中し、貧富の格差が拡大していた。

1958年7月、ヨルダン支援のため移動中だった部隊がバグダードへ進軍し、王宮を包囲した。主導したのは「自由将校団」と呼ばれる若手将校たちで、その中心人物が アブドゥル・カリーム・カーシム と アブドゥッサラーム・アーリフ であった。国王 ファイサル2世、摂政、首相ら王政の主要人物は殺害され、王国は滅亡した。新たにイラク共和国が成立し、カーシムが首相として実権を掌握した。

カーシム政権は直ちに親英路線を転換した。アラブ連邦から離脱し、イギリスとの特権的関係を縮小した。このとき、バアス党は、カージムの属する政党やイラク共産党との関係を解消した。また土地改革を実施して大地主の権力を弱め、労働者保護や社会政策を推進した。外交面では東西どちらにも完全には属さない中立路線を掲げ、ソ連との関係を強化した。

しかし革命勢力内部は一枚岩ではなかった。アーリフらは ナセル が推進する汎アラブ主義を支持し、イラクも アラブ連合共和国(エジプトおよびシリア)に加わるべきだと主張した。一方、カーシムはイラク独自の国家路線を重視し、即時統合に反対した。この対立によりアーリフは失脚し、革命勢力は分裂した。また、カーシムは国内で勢力を拡大していた イラク共産党 を一定程度利用したため、民族主義者や軍部保守派の反発を招いた。1959年には若きフセイン が参加したバアス党によるカーシム暗殺未遂事件も起こっている。

1961年にはイギリス保護下から独立したばかりの クウェート に対して領有権を主張したが、国際的反発を受けて実現しなかった。また同年にはクルド人指導者 ムスタファ・バルザニ との武力衝突も始まり、政権は不安定化した。

1963年、バアス党系将校と民族主義派軍人がクーデターを起こした。カーシムは抵抗したものの拘束され、短期間の裁判の後に処刑された。彼らはエジプトのナセルが唱える汎アラブ主義に共鳴し、イラクをアラブ統一運動の中心にしようとした。

しかし、新たに成立したバアス党政権は内部対立を抱えていた。バアス党員と軍人の間で権力闘争が続き、同年11月には大統領のアーリフが再びクーデターを起こしてバアス党を排除した。この結果、バアス党による最初の政権はわずか9か月で崩壊した。アーリフ政権はナセル主義に近い立場をとり、エジプトとの協力関係を強化した。一方で、カーシム時代から続く北部のクルド人問題は解決せず、クルド勢力との戦闘が継続した。

1966年、アーリフが事故で死亡すると、兄のアブドゥッラフマーン・アーリフが後継大統領となった。しかし弟ほどの政治的求心力を持たず、政権基盤は弱かった。

1967年の第三次中東戦争でアラブ諸国がイスラエルに大敗し、イラクによる実際の戦闘への関与は限定的だったが、敗戦の衝撃は大きく、既存政権への批判が高まった。

1968年7月、バアス党は軍と連携して無血クーデターを実行し、アーリフ政権を打倒した。新政権ではアフマド・ハサン・アル=バクルが大統領に就任し、副大統領には若きフセインが就いた。この第二次バアス党政権は軍・党・治安機関を統合して権力を集中させ、以後30年以上続くバアス党支配の基礎を築いた。

1970年代初頭の最大の国内課題はクルド問題だった。北部ではムスタファ・バルザーニ率いるクルド勢力が自治を要求していたため、1970年に政府は自治協定を締結した。しかし1974年には再び内戦が発生した。翌1975年にイラクがイランとの間で締結したアルジェ協定によってイランはクルド勢力への支援を打ち切った。

イラクはイスラエルとの対立やクルド反乱への対応のためには大規模な軍備増強が必要だった。そこで、条件の良い兵器供与や軍事顧問団を提供してくれるソ連との関係を強化し、1972年にはソビエト連邦との友好協力条約を締結し、軍事援助や経済援助を受けた。ただし、イラクは完全な衛星国になることを避け、独自のアラブ民族主義路線を維持した。

アラブ世界との関係では、イラクは一貫して反イスラエルの立場を取り、パレスチナ問題を重視した。エジプトのサダトがイスラエルとの和平路線へ転換すると、イラクはこれを強く批判した。

また、隣国イランとの関係は緊張していた。両国はシャット・アル=アラブ川の境界問題を抱え、さらにイラン国王モハンマド・レザー・パフラヴィーは親米路線をとっていた。1975年のアルジェ協定によって一時的な和解は成立したものの、根本的な対立関係にあった。

1979年、フセインは大統領へ就任した。その直後に党内粛清を実施して反対派を一掃し、強力な個人独裁体制を築き上げた。

1979年のイラン革命によって親米のパフラヴィー朝が倒れ、ルーホッラー・ホメイニー率いるイスラム共和国が成立すると、フセインは革命思想がイラク国内のシーア派へ波及することを警戒した。また、先述の領土問題もあった。フセインは革命直後の混乱に乗じて短期決戦を狙いイランへ侵攻したが、戦争は長期化した。この戦争においてイラクは、革命イランの拡大を恐れるサウジアラビアやクウェートから資金援助を行った。また、冷戦下でイランを警戒していたアメリカ合衆国も次第にイラク寄りとなった一方、従来から関係の深かったソビエト連邦も兵器供給を続けた。1988年、停戦が成立し、戦争前の国境線がほぼ維持された。しかし、軍事費によって対外債務が膨らみ、とくにサウジアラビアやクウェートへの借金が大きな負担となった。フセインは、イラン革命の拡大を防ぐための費用を負担すべきだと主張し、債務免除を求めた。しかし湾岸諸国はこれを拒否した。

さらにフセイン政権は、クウェートが石油を増産して国際価格を下落させ、イラク経済を圧迫していると非難した。また、イラクは歴史的にクウェートが本来イラク領であるとの主張も展開した。そして1990年8月、イラク軍はクウェートへ侵攻し、短期間で全土を占領し、イラクの1州に編入した。これに対し国際社会は強く反発し、国際連合は経済制裁を決議した。その後、アメリカ合衆国を中心とする多国籍軍が結成され、1991年1月に湾岸戦争が開始された。圧倒的な航空戦力と精密攻撃の前にイラク軍は敗北し、数週間でクウェートから撤退した。

敗戦直後には国内で大規模な反乱が発生した。南部ではシーア派住民が蜂起し、北部ではクルド人勢力が独立や自治を求めて立ち上がった。しかしフセイン政権は反乱を鎮圧した。ただし北部では欧米諸国が飛行禁止空域を設定したため、クルド人地域は事実上の自治状態となった。これは後のクルディスタン地域政府の基礎となる。

国連は大量破壊兵器の廃棄を要求し、査察が行われた。イラクは査察に協力する姿勢を見せる一方で、施設への立ち入り拒否や情報隠蔽を繰り返し、欧米諸国との対立が続いた。1998年には査察問題をめぐる対立が激化し、アメリカとイギリスが大規模な空爆作戦を実施した。これによりイラクと西側諸国の関係はさらに悪化した。

2001年の同時多発テロ事件後、ブッシュ政権はイラクの大量破壊兵器の保有疑惑やテロ組織との関係を問題視した。アメリカとイギリスは軍事行動を決断し、2003年3月にイラク戦争が開始され、4月には首都バグダードが陥落した。フセイン政権は崩壊し、同年末にフセイン本人も拘束された。その後、2006年に裁判を経て処刑され、1968年以来続いたバアス党支配は完全に終焉した。

2005年に新憲法が制定され、選挙による新体制が発足した。イラクは形式上、議会制民主主義国家となり、シーア派、スンニ派、クルド人が権力を分有する仕組みが整えられた。しかし人口多数派のシーア派が政治の主導権を握るようになり、長年政権中枢を占めていたスンニ派との対立が激化した。2006年にはシーア派の聖地であるアスカリー廟が爆破され、宗派間の報復攻撃が急増した。これによりイラクは事実上の内戦状態に陥り、シーア派民兵、スンニ派武装勢力、さらに国際テロ組織アルカーイダ系勢力が入り乱れて戦う状況となった。

2007年にはアメリカ軍の作戦が行われたほか、スンニ派部族がアルカーイダと対立して政府側に協力するようになったため、治安は徐々に改善した。2008年以降は内戦状態がやや沈静化し、国家機能の回復が進み始めた。

2011年末にはアメリカ合衆国軍の主力部隊がイラクから撤退した。これによりイラクは名目上完全な主権を回復した。一方、隣国シリアでは2011年から内戦が続いており、その混乱は国境を越えてイラクにも波及した。

2014年、シリアとイラクで勢力を拡大していたイスラム国が北部の主要都市モスルを占領し、広大な地域を支配下に置いた。この事態を受けてマーリキー首相は退陣し、ハイダル・アル=アバーディーが新首相に就任した。この事態に対し、アメリカを中心とする有志連合は空爆や軍事支援を実施し、イラク政府軍を支援した。一方でイランも軍事顧問やシーア派民兵組織への支援を通じて介入した。

2014年以降、政府軍、クルド人部隊、シーア派民兵組織などが協力してISと戦った。2017年にはモスル奪還に成功し、同年末に政府はISに対する勝利を宣言した。

2017年、北部のクルディスタン地域政府は独立の是非を問う住民投票を実施した。住民の大多数は独立支持だったが、イラク中央政府、イラン、トルコ、アメリカのいずれも独立に反対した。イラクは軍を派遣して係争地キルクークを奪還し、独立運動は後退した。

2018年にはアーディル・アブドゥルマフディーが首相となったが、失業、汚職、公共サービスの不足への不満は解消されなかった。2019年には大規模な反政府デモが発生し、若者を中心に政治改革や汚職撲滅を求める声が広がった。治安部隊による弾圧で多数の死傷者が出た結果、アブドゥルマフディーは辞任に追い込まれた。

2020年以降、イラクはアメリカとの安全保障協力を維持しつつ、隣国イランとの関係も重視している。また、サウジアラビアやトルコとの経済協力も拡大している。

おわりに

イラクは古代文明の発祥地でありながら、周辺大国や列強の争奪の舞台ともなってきた。王政、共和政、バアス党独裁、戦争と復興を経験し、現在も多くの課題を抱えている。しかしその歴史は、古代メソポタミアから現代中東を理解するうえで欠かせない重要な歩みといえる。

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