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世界史|アゼルバイジャン共和国

世界史

はじめに

コーカサス地方に位置するアゼルバイジャン共和国は、東西文明が交差する地として長い歴史を歩んできた国である。古代から交易路の要衝として栄え、イスラム世界、ペルシア文化圏、ロシア帝国、そしてソヴィエト連邦という複数の勢力の影響を受けながら独自の国家形成を進めてきた。

特に同国の歴史は、宗教的変化と大国間の対立によって大きく動かされてきた点に特徴がある。7世紀のイスラム化、16世紀のシーア派の定着、19世紀のロシア帝国による支配、そして20世紀の独立運動とソ連体制――これらの出来事は、現在のアゼルバイジャン社会を理解する上で欠かせない要素となっている。

また、近年においてもナゴルノ=カラバフ問題をめぐり国際的な注目を集めており、同国の歴史的背景を知ることは現代の国際情勢を読み解く上でも重要である。本記事では、アゼルバイジャン共和国の歩みを時代ごとに整理し、その歴史的特徴と国家形成の過程をわかりやすく解説していく。

データ

首都バクー
宗教イスラム教
言語アゼルバイジャン語

経緯

古代

先史時代には、アゼルバイジャン地域には農耕・牧畜文化が発達し、青銅器時代にはコーカサス地域の文化圏の一部として発展した。紀元前1千年紀になると、この地域にはマンナイ人(マンナ王国)が居住した。マンナ王国は現在のイラン北西部を中心に成立し、北方の遊牧民や周辺の大国の間で勢力を保とうとした。しかし当時の西アジアでは強大な国家が台頭しており、特に南西の新アッシリア帝国や北西ののウラルトゥ王国の圧力を受けることになった。


紀元前7世紀末頃、アッシリア帝国が衰退すると、イラン系遊牧民であるメディア人が勢力を拡大した。アゼルバイジャン地域はやがてメディア王国に組み込まれ、その後紀元前6世紀半ばには、メディアを倒したペルシア系のアケメネス朝の支配下に入った。アケメネス朝は広大な帝国を行政区画(サトラップ)で統治し、アゼルバイジャン地域もその一部となった。帝国の東西交通路上に位置したことから、商業や軍事上の重要性が高まった。

紀元前4世紀、アレクサンドロス3世の東方遠征によってアケメネス朝が滅亡すると、この地域ではアトロパテスという総督が支配権を維持した。彼が建てた王国は「アトロパテネ(Atropatene)」と呼ばれ、その名称は後に変化して「アーザルバーイジャーン(アゼルバイジャン)」の語源になったと考えられている。アトロパテネ王国はギリシア文化の影響を受けながらも、イラン的伝統を維持した半独立国家として存続した。

その後、この地域はパルティア帝国の勢力圏に入り、さらに3世紀にはサーサーン朝の支配下に入った。サーサーン朝はアゼルバイジャンを北方防衛の重要地域と位置付け、コーカサス方面から侵入する遊牧民に対する防衛線を整備した。また、この地域は宗教的にも重要視された。サーサーン朝の国教であったゾロアスター教の聖火神殿が数多く建てられ、特にアゼルバイジャンは宗教的中心地の一つだったとされる。

一方で、北部のコーカサス地域では多様な民族集団が存在し、アルバニア人(現在のバルカン半島のアルバニア人とは別民族)によるカフカス・アルバニア王国が成立した。この国家はローマ帝国やパルティア、サーサーン朝などの間で勢力均衡を図った。後にキリスト教を受容し、独自の文字や文化も発達させた。

中世

7世紀、現在の アゼルバイジャン の地域は、ウマイヤ朝の領土であった。

8〜9世紀ごろ、アッバース朝は地方総督を通じて統治を行った。

889年。アッバース朝の地方総督から独立的な政権へと発展してサッジャード朝(889–929年)が成立した。スンナ派イスラム教の王朝であった。アゼルバイジャン地方を中心に支配したが、内紛と外敵の圧迫により衰退し929年に滅亡した。 

941年頃、サラール朝が興った。アゼルバイジャンやアルメニアの一部にまで影響力を及ぼした。アッバース朝カリフに名目上の忠誠を誓いながら独自の行政を行った。内部抗争と外部勢力の圧迫(ブワイフ朝等)により、10世紀末には勢力が衰退。979年頃には終焉を迎えた。

11世紀半ばになると中央アジアから進出した セルジューク朝 がアゼルバイジャンを支配下に組み込んだ。

1136年ごろ、イルデニズ朝 は、衰退期の セルジューク朝 の地方政権として成立した。創始者はもともとセルジューク朝君主に仕えるアタベク(後見人)であったが、セルジューク朝の弱体化に伴い実権を掌握した。アゼルバイジャン地域を中心に勢力を拡大し、現在のイラン北西部や南コーカサスまで支配した。イルデニズ朝は北西のジョージア王国と勢力範囲をめぐり争った。

1220年代、中央アジアから西進した モンゴル帝国の軍勢がコーカサスへ到達し、1220~1223年頃にアゼルバイジャンへ侵入した。イルデニズ朝はすでに衰退していたため有効な抵抗ができず、1225年に滅亡した。

その後アゼルバイジャンは一時的に ホラズム・シャー朝の支配下に入った。しかし支配は安定せず、各地で反乱や周辺勢力との戦いが続いた。1231年頃にはモンゴル勢力が再侵入し、ホラズム・シャー朝の支配は短期間で終わった。

1250年代にフレグが西アジアへ大遠征を行い、征服地の統治機構が整備され、1260年頃までに イルハン朝が成立してアゼルバイジャンも中核地域となった。タブリーズは政治・交易の拠点として発展した。初期には征服の混乱もあったが、統治制度の整備や東西交易の活性化により繁栄した。特にガザン・ハンの改革で安定が進んだが、14世紀には王位継承争いが激化し、1335年に王朝は崩壊し、アゼルバイジャンは諸勢力の争奪地となった。

黒羊朝は14世紀後半、イルハン朝崩壊後の混乱の中でアゼルバイジャンへ勢力を広げ、タブリーズを中心に地域支配を進めた。しかし西アジアへ遠征したティムールがアゼルバイジャンへ侵入し、タブリーズもたびたび占領され、地域は大きな被害を受けた。ティムール死後に支配が弱まると黒羊朝が再興したが、15世紀後半には白羊朝が黒羊朝を破って支配権を握った。アゼルバイジャンは引き続き政治・交易上の重要地域となったが、内部対立から次第に衰退した。

近世

白羊朝は15世紀後半に最盛期を迎えたが、内紛や地方勢力の自立によって弱体化した。その中でアゼルバイジャンを拠点に勢力を拡大したサファヴィー教団が軍事集団化し、イスマーイール1世が1501年にタブリーズを占領して白羊朝を打倒した。これによりアゼルバイジャンは新たな国家形成の中心となり、シーア派(十二イマーム派)国家であるサファヴィー朝が成立した。現在のアゼルバイジャン国民の多くがシーア派に属している背景には、この時代の宗教政策が深く関係している。

サファヴィー朝は1501年、アゼルバイジャン地域を基盤とする勢力を率いた イスマーイール1世 が、タブリーズ を占領して成立した。当時のタブリーズは現在のイラン領であるが、歴史的にはアゼルバイジャン地域の中心都市であり、王朝成立の中心地でもあった。初期のサファヴィー朝はトルコ系軍事集団クズルバシュの力を背景に勢力を拡大し、アゼルバイジャンは政治・軍事の中核地域となった。

しかし1514年の チャルディラーンの戦い でオスマン帝国に敗れると、国境に近いタブリーズは安全性に問題を抱えるようになった。その後、アッバース1世 は首都をイスファハーンへ移し、国家の重心はイラン中央部へ移動した。アゼルバイジャンは依然重要だったが、建国期ほどの中心性は薄れていった。

17世紀末以降、王朝は宮廷内の対立や軍事力低下で衰退し、1722年にはアフガン勢力の侵入によって崩壊した。その後の アフシャール朝 や ザンド朝 の時代には、アゼルバイジャンでも各勢力が争った。最終的に1796年、トルコ系カージャール族の アーガー・モハンマド・ハーン が カージャール朝 を建てて再統一した。こうしてアゼルバイジャンは再び重要地域となった。

近代

19世紀初頭には、南下政策を進めるロシア帝国とイランのカージャール朝との対立が激化した。1826年には第二次ロシア・イラン戦争が勃発し、コーカサス地域をめぐる争いが本格化する。そして1828年、両国の間で締結されたトルコマンチャーイ条約によって、アラス川(現在のアゼルバイジャンとイランの国境)以北のアゼルバイジャン地域はロシア帝国へ編入された。これにより、アゼルバイジャン人居住区域は南北に分断された。

特に19世紀後半から20世紀初頭にかけて、バクー周辺では石油産業が急速に発展した。豊富な石油資源はロシア帝国に莫大な利益をもたらし、欧州各国の資本も流入したことで、バクーは世界有数の産油都市として知られるようになった。一方で、急激な工業化は民族意識や社会運動の高まりも引き起こした。

1917年にロシア革命が発生すると、帝政ロシアの支配体制は崩壊し、コーカサス地域も混乱に包まれた。アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージアの三地域は共同でザカフカース連邦共和国を樹立したものの、民族的・政治的対立や、 オスマン帝国 との関係をめぐる意見の相違が深まり、連邦は短期間で崩壊した。

1918年、アゼルバイジャンでは独立国家であるアゼルバイジャン民主共和国が成立した。首都は当初ギャンジャに置かれ、その後バクーへ移された。この国家はイスラーム圏初の議会制共和国として知られ、議会政治や女性参政権の導入など、当時としては先進的な制度を採用した点でも注目されている。

1920年、南コーカサス支配の確立と、バクー油田の獲得という戦略的目的のもと、レーニン率いるボリシェヴィキ政権下の赤軍がアゼルバイジャンへ侵攻し、首都バクーにソヴィエト政権が樹立された。これにより国家はソヴィエト化され、独立は失われる。

1922年、ソビエト政権は南コーカサス統治を効率化するためアゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国を成立させ、アゼルバイジャンはアルメニア、ジョージアとともにザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国を構成した。この連邦はソヴィエト連邦結成にも参加している。

1936年、 スターリン の下で実施された 1936年ソビエト憲法 により、中央集権的な国家体制の再編が進められた。その結果、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国は解体され、アゼルバイジャンは単独の構成共和国としてソヴィエト連邦に編入された。

第二次世界大戦期のアゼルバイジャンは、戦場そのものというより、ソ連の戦争遂行を支える石油供給拠点として極めて重要な役割を担った。

現代

1980年代までソ連では、民族問題は中央政府の強い統制によって表面化しにくかった。アゼルバイジャン領内の ナゴルノ=カラバフ では住民の多数がアルメニア人であり、以前からアルメニアへの編入要求や民族的不満が存在していたが、ソ連体制下では公然と主張することは難しかった。

1985年以降、 ゴルバチョフ が進めた改革政策であるペレストロイカ(経済再建)とグラスノスチ(情報公開)によって、政治的統制や言論規制が緩和された。その結果、それまで抑制されていた民族意識や地域的要求が各地で表面化した。

1988年にはアゼルバイジャン西部のナゴルノ=カラバフ自治州議会がアルメニアへの編入を要求し、アゼルバイジャン側はこれに強く反発した。

やがて武力衝突へ発展し、ナゴルノ=カラバフのアルメニア人勢力は「アルツァフ共和国」の樹立を宣言した。この問題は現在に至るまで両国関係を不安定化させる最大の要因となっている。

ソ連末期の1989年9月、共和国主権宣言を採択し、ソ連法に対する自国法の優位を主張して、連邦からの自立姿勢を鮮明にした。

1990年にはソ連軍がバクーへ進駐し多数の犠牲者を出す「黒い一月」が発生し、反ソ感情が急速に拡大した。

そして1991年、ソヴィエト連邦の崩壊に伴い、アゼルバイジャン共和国として正式に独立国家となった。翌1992年には国際連合へ加盟し、1993年には独立国家共同体(CIS)にも参加している。

1993年には ヘイダル・アリエフ が政権を掌握し、中央集権的な統治を強化して国内安定を進めた。

2020年の 第二次ナゴルノ=カラバフ戦争 では軍事的優位を確立して多くの地域を回復し、さらに2023年にはナゴルノ=カラバフ地域の実効支配を確立した。

おわりに

アゼルバイジャン共和国の歴史は、周辺大国の支配と民族的独立運動の繰り返しによって築かれてきた。イスラム化による宗教的基盤の形成、サファヴィー朝によるシーア派の定着、ロシア帝国やソヴィエト連邦による統治など、多様な時代背景が現在の国家像に大きな影響を与えている。

特に20世紀以降は、独立国家としての歩みと民族問題が密接に結びつき、ナゴルノ=カラバフをめぐる対立は現在も続いている。一方で、豊富な石油・天然ガス資源を背景に、アゼルバイジャンはコーカサス地域の重要国として存在感を高めている。

同国の歴史を振り返ると、単なる地域史にとどまらず、宗教、民族、帝国、エネルギー資源といった世界史的テーマが複雑に絡み合っていることがわかる。アゼルバイジャンを知ることは、コーカサス地域全体の理解、さらには現代ユーラシア情勢を考える上でも大きな意味を持っているのである。

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