はじめに
インドネシアは約17,000もの島々から成る世界最大の島嶼国家です。しかし、その歴史は現在の国家の枠組みだけでは語れません。かつてはスマトラ島、ジャワ島、カリマンタン島、スラウェシ島などで、それぞれ異なる王国や民族、宗教が発展し、ときには交易を通じて結び付き、ときには争いを繰り返してきました。
本記事では、インドネシアの歴史を「島ごと」という視点から整理し、各地域の王国や植民地化の過程を紹介します。その後、オランダ領東インド時代、日本占領期、独立戦争、そして現代までを時系列でまとめました。
「なぜ現在のインドネシアが誕生したのか」「なぜバリ島だけヒンドゥー文化が残ったのか」「なぜニューギニア西部や東ティモールで問題が起きたのか」といった疑問も、歴史の流れの中で理解できるよう構成しています。インドネシア史を体系的に学びたい方は、ぜひ最後までご覧ください。
データ
| 首都 | ジャカルタ→ヌサンタラ? |
| 宗教 | イスラム教が多数 |
| 言語 | インドネシア語 |
主な島
重要となる地域をおおよそ西から順に分類しました。
- スマトラ島
- ジャワ島
- カリマンタン島
- バリ島
- スラウェシ島
- ティモール島
- モルッカ諸島
- ニューギニア島
スマトラ島
7世紀頃、スマトラ島南東部ムシ川流域のパレンバン周辺では、マレー系が港市国家を形成していた。
7世紀後半までには、シュリーヴィジャヤ王国(大乗仏教・インドから伝来)となった。国家としては王を頂点とする君主制であったが、広大な領域を直接統治するのではなく、各地の港市国家を従属させる海洋国家の性格が強かった。
1025年、南インドの チョーラ朝 が大規模な海上遠征を行い、シュリーヴィジャヤの主要港を攻撃した。シュリーヴィジャヤの国力は低下し、従属地域の離反が進んだ。
13世紀末までに シュリーヴィジャヤ王国 が衰退・消滅すると、スマトラ島は統一国家を失い、多数の港市国家や地方王国が並立する時代に入った。
13世紀末頃、スマトラ島北端に パサイ王国 (イスラム教)が成立した。これ以降、イスラム教はスマトラ島各地へ広がり、従来の仏教・ヒンドゥー教勢力に代わった。
パサイの西隣にはペルラク王国があったが、13世紀後半には衰退し、最終的にパサイ王国へ吸収された。
スマトラ東海岸にはジャンビ王国も存在し、15~16世紀頃からイスラム化が進んだ。
さらに南方にはパレンバン王国があったが、15世紀以降にイスラム化が進行した。
スマトラ西海岸ではインドラプラ王国があったが、イスラム商人を受け入れながら徐々にイスラム化していった。
16世紀からヨーロッパが進出した。1511年、ポルトガルはマラッカを占領し拠点とした。
ポルトガル のマラッカ占領により、多くのムスリム商人がスマトラ島北部のアチェ王国へ移住した。
1520年代半ばまでにアチェ王国はパサイ王国を併合するなど17世紀初頭までにスマトラ東西海岸やマレー半島の一部を服属させ、1613年にはジョホール王国(現マレーシアのジョホール州)を攻撃し、1619年にはパハン(現マレーシアのパハン州)を征服するなど勢力を拡大した。しかしポルトガルからのマラッカ奪還は実現できなかった。
17世紀半ばになると、今度は オランダ東インド会社 がマラッカ海峡へ進出し、1641年にはジョホール王国と協力してポルトガルからマラッカを奪取した。オランダは香辛料・胡椒貿易を独占しようとし、アチェ王国の経済的地位は徐々に低下した。
その後18世紀から19世紀にかけてアチェ王国は内部対立や地方勢力の自立によって弱体化した。
パレンバン王国は17世紀中頃にイスラム化し、1823年にオランダによって保護国化され、その後併合された。
1873年、オランダ がスマトラ全域の支配を目指してアチェ王国へ侵攻し、アチェ戦争 が始まった。最終的に20世紀初頭までにオランダが軍事的優位を確立し、アチェ王国は事実上滅亡した。
ジャワ島
約50万年前の原人化石として知られる ジャワ原人 が発見されている。
4世紀ころ、ジャワ島西部には タルマヌガラ王国 (ヒンドゥー教)が成立した。7世紀頃に衰退した。その後、スンダ王国 (ヒンドゥー教)が成立した。主な民族はスンダ人であった。1357年にはスンダ王女とマジャパヒト王の婚姻交渉が破綻して両国が戦闘となった。15世紀、北岸部ではイスラム商人の活動が活発化し、バンテン王国などが成立した。
ジャワ島中部には小規模な首長国や農業共同体が存在していた。8世紀頃になると稲作の発展と人口増加を背景にサンジャヤ王家が勢力を拡大し、ジャワ島中部の平原地帯を統合してマタラム王国(ヒンドゥー教)となった。マタラム王国時代には現在も残るプランバナン寺院群 が建設された。
また、同時期にはシャイレンドラ朝 (大乗仏教)が台頭した。シャイレンドラ朝時代には現在も残る ボロブドゥール寺院 が建てられた。
この信仰する宗教が異なる王朝が併存したことで、これ以後ジャワ島では仏教とヒンドゥー教の双方が栄えることとなる。
9世紀中頃、マタラム王国がシャイレンドラ朝を打倒してジャワ島中部の主導権を奪った。
10世紀初頭、マタラム王国はジャワ島東部へ遷都した(以後クディリ王国になる)。
1222年、地方勢力の台頭によって王権が弱体化していたクディリ王国は内乱に伴いシンガサリ王国 (ヒンドゥー教)に滅ぼされた。
同時期、中国では元が勢力を拡大していた。シンガサリ王国は元からの服属要求を拒否し、使者を侮辱して送り返したため、元はジャワ遠征を決定した。
ところが元軍が到着する直前の1292年、クディリ王家の末裔が反乱を起こし、シンガサリ王国は滅亡した。その際、シンガサリ王族の一人であった ラデン・ウィジャヤ は生き延び、元軍を利用して反乱勢力を倒した後、元軍を追放して1293年にマジャパヒト王国(ヒンドゥー教)を建国した。
14世紀前半、マジャパヒト王国は積極的な遠征を行い、ジャワ島をほぼ完全に支配し(西部のスンダ王国は滅亡していない)、さらにバリ島、マドゥラ島、スマトラ島の一部、ボルネオ沿岸部、スラウェシ島の港市国家、マレー半島南部などに影響力を及ぼした。
しかし14世紀末に王位継承問題が発生し、15世紀初頭に王族同士の内戦が発生すると、中央政府の統制力が低下した。それに伴い、スンダ王国は西部の支配を再確立するなど、マジャパヒト王国の勢力はジャワ島東部に縮小した。
16世紀初頭になるとイスラム商人の活動拡大の影響もあり、ジャワ島北岸のデマク王国(イスラム教)が勢力を拡大し、1520年代頃までにマジャパヒト王国は事実上滅亡した。王族や貴族の一部はバリ島へ移住し、ヒンドゥー文化を伝えたため現在でもバリ島がヒンドゥー文化の中心地となっている。
1513年、デマク王国はイスラーム商人の利益を守るため、ポルトガル支配下のマラッカへ遠征を行ったが失敗した。
1522年、スンダ王国はイスラーム勢力に対抗するため、ポルトガルと同盟を結び、港湾都市スンダ・クラパへの要塞建設を認めた。
1527年、デマク王国がスンダ・クラパを攻略し、都市名をジャヤカルタ(勝利の意)と改めた。これによりスンダ王国は主要な国際港を失い、内陸部に移った。
1546年以降は王位継承争いからデマク王国は急速に弱体化し、内陸部のパジャン勢力が主導権を握り、1550年代にはデマク王国は事実上消滅し、ジャワ島中部に後継勢力としてパジャン王国(イスラム教)が成立した。
また、ジャワ島西部では、デマク王国の地方政権を務めていた勢力が、現インドネシアのバンテン州あたりでバンテン王国(イスラム教)として独立した。その領土、スマトラ島東部(現ランプン州)に及んだ。
1579年、西部ではバンテン王国はスンダ王国を滅ぼした。
1584年、中・東部ではパジャン王国が家臣により倒され、マタラム王国(イスラム教)が成立した。
1619年、オランダ東インド会社はバンテン王国支配下のジャカルタに商館を建ててバタヴィア(ゲルマン系バターヴィー族に由来)と改称した。
1628年と1629年には、マタラム王国は陸からバタヴィアを包囲したが失敗に終わった。
17世紀後半、マタラム王国で内乱が起こり、首都を占領した。マタラム皇子は王位奪還のためオランダ東インド会社へ援軍を要請し、この見返りとして広範な利権を与えた結果、マタラム王国は事実上オランダ東インド会社に依存することとなった。
18世紀中頃にはオランダ東インド会社は王位継承を管理し、対立する王族を調停する立場となった
1755年、マタラム王国は、ジョグジャカルタ王国(現在のジョグジャカルタ特別州に繋がる)とスラカルタ王国に分かれた。
カリマンタン島
現在、3つの国家が存在する、大きさが世界第3位の島。
カリマンタン島北部にはインド文化の影響を受けたマレー系諸勢力が分立しており、ヒンドゥー教や仏教の影響を受けていた。
シュリーヴィジャヤ王国が衰退した11世紀以降、自立的な発展を遂げた港市ブルネイが成長し、1363年または1368年にムハンマド・シャーによりブルネイ王国(イスラム教)が建国された。
カリマンタン島東部においても、インドからヒンドゥー文化が伝来し、4世紀頃、クタイ王国 (ヒンドゥー教)が成立した。
5〜6世紀にはクタイ王国が衰退し、その後は沿岸の港市国家や部族社会が並立した。
13世紀頃、現在のインドネシア北カリマンタン州あたりに、クタイ・カルタヌガラ王国が成立した。マジャパヒト王国の朝貢国であり、16世紀後半頃にはイスラム化した。
クタイ・カルタヌガラ王国の北(現在のインドネシア東カリマンタン州あたり)にベラウ王国(ヒンドゥー教)が成立しており、後にイスラム化した。
クタイ・カルタヌガラ王国の南(現在のインドネシア南カリマンタン州あたり)には ナガラ・ダハ王国(ヒンドゥー教)が成立していたが、16世紀前半に、王位継承争いから、ジャワ島のデマク王国の支援を受けてバンジャル王国が成立し、イスラームを受容した。
現在のインドネシア西カリマンタン州あたりには、サンバス王国(ヒンドゥー教)が成立しており、17世紀頃にイスラム化した。
1777年、ボルネオ島西部の現ポンティアナクに移住した広東省出身の客家華人による共和政権である蘭芳公司成立。アジア初の共和国と言われる。
バリ島
バリ島にはオーストロネシア系住民が住んでいた。紀元前後からインドとの海上交易が活発になると、ヒンドゥー教や仏教が伝わった。
9世紀になると、ワルマデワ朝が成立し、ヒンドゥー教と仏教をともに保護した。その後王位継承争い等により徐々に弱体化した。
1343年、ジャワ島のマジャパヒト王国に征服された。
1520年代にマジャパヒト王国は滅亡したが、多くの貴族や僧侶が流入し、バリでは依然としてヒンドゥー・仏教文化が維持された。また、バリ島の住民にはマジャパヒト王国をルーツとしている人が多いようである。
その後はゲルゲル王国や分裂の時代に入った。
スラウェシ島
スラウェシ島にはオーストロネシア系住民が住んでいた。
紀元前後から中国・インドとの間接的な交易が始まったが、ジャワ島やスマトラ島のようなインド化国家は成立せず、各地の首長が地域社会を統治する状況が続いた。
7~13世紀頃になると、シュリーヴィジャヤ王国 の交易圏に組み込まれた。
13世紀以降、王国が分立する。
スラウェシ島南東部(現在のインドネシア南スラウェシ州ボネ県あたり)では、ブギス人によりボネ王国が成立した。オランダ東インド会社と同盟してゴワ王国を打倒し、18世紀以降南スラウェシの最大勢力となった。
スラウェシ島南西部(現在の南スラウェシ州ゴワ県あたり)ではマカッサル人によりゴワ王国が成立した。しかし、ボネ王国に敗れて弱体化し、1905年にオランダに併合された。
ボネ王国の北(現在の南スラウェシ州ワジョ県あたり)では、ブギス人によりワジョ王国が成立した。
ワジョ王国の西(現在の南スラウェシ州ソッペン県あたり)では、ブギス人によりソッペン王国が成立した。
スラウェシ島北・中・東部では比較的小規模な首長国や王国が分立していた。
ティモール島
16世紀初頭、ポルトガルはティモール島へ進出した。一方、17世紀にはオランダが進出し、ポルトガル勢力を圧迫した。内陸には多くの在来王国が存続していた。
1824年の英蘭条約で両国の勢力圏が整理された後も、ティモール島の境界は未確定であった。
1859年の条約以後、おおよその勢力範囲が決定され、西ティモールはオランダ領東インド、東ティモールはポルトガル領ティモールと分割された。
モルッカ諸島
モルッカ諸島にはオーストロネシア系住民が住んでいた。諸島は多数の小島から構成されており、統一国家は成立せず、島ごとに首長が支配した。
13世紀以降、北西部のテルテナ島ではテルテナ王国が成立した。
また、北東部のティドレ島ではティドレ王国が成立した。
そのほか、ハルマヘラ島やセラム島、アンボン島、バンダ諸島、カイ・ケチル島、タニンバル諸島などでも小規模な王国が分立した。
1511年にポルトガルはマラッカ王国を征服し、翌1512年にモルッカ諸島へ到達した。モルッカ諸島ではテルナテ王国(15世紀頃イスラム化)とティドレ王国(同前)が争っており、ポルトガルはテルナテ王国についた。
一方、1521年、マゼランを派遣したスペインもモルッカ諸島に到達し、スペインはティドレ王国と結んだ。
1529年のサラゴサ条約でスペインはモルッカの権利をポルトガルへ譲渡した。
1602年に設立されたオランダ東インド会社は、1605年にポルトガル最大の拠点だったアンボン島を占領した。
1623年、モルッカ諸島のアンボン島(オランダ語でアンボイナ)で、オランダがイギリス商館を襲い、インドネシアでの覇権を握った(アンボイナ事件)。
その後、17世紀中頃に、ポルトガルはモルッカ諸島からほぼ撤退した。
ニューギニア島
オーストラリアの北に位置する世界第2の大きさの島。しかし、大規模国家形成には至らなかった。その理由の一つは地理的条件にある。ニューギニア島中央部には標高4000メートル級の山脈が連なり、地域ごとの交流が困難だった。その結果、数百に及ぶ民族集団と言語が形成され、それぞれが独自の社会を維持した。現代でもニューギニアは世界で最も言語多様性の高い地域の一つである。
ジャワやスマトラのような統一国家は存在せず、高地農耕社会、沿岸漁労社会、島嶼交易社会が並存していた。外部世界との接触は主に西部沿岸に限られ、多くの地域は独自の文化を維持していた。
オランダは、モルッカ諸島のティドレ王国がニューギニア西部に対して宗主権を持つと主張していた。
ティドレ王国がオランダ東インド会社の保護下に入ると、その宗主権を継承したオランダは、その領有権を主張して実効支配を進めた。
オランダ領東インド時代
1799年、財政難などの影響により、オランダ東インド会社が解散した。この時点で、スマトラ島では北部のアチェ王国のみが独立、ジャワ島ではほぼ全て支配下、カリマンタン島ではほぼ全て独立、バリ島も同様、スラウェシ島では南部のみが支配下、ニューギニア島は支配なしといった状態であった。
オランダ東インド会社の領土はオランダ本国政府へ移管された。これによりオランダ領東インドが成立する。
スマトラ島について。ナポレオン戦争後の1820年代にオランダはパレンバン王国を滅ぼし、直接統治を開始した。1824年の英蘭条約では、イギリスはスマトラ島における権益をオランダへ譲渡し、一方でオランダはマレー半島やシンガポールに対する権利主張を放棄した。さらに1830年代にはスマトラ島東部も植民地へ編入した。1870年代から始まったアチェ王国への侵攻は、激しい抵抗にあったものの、1904年頃に支配下に置くこととなった。
ジャワ島について。ナポレオン戦争の過程で1811年には一時的にイギリスが占領したが、ウィーン体制となりオランダへ返還された。1825年には、大規模な反乱(ジャワ戦争)が起きるも、オランダが勝利し、中部ジャワの両王国は完全に保護国化された。これ以降、ジャワ島は植民地経営の中心となり、1830年に強制栽培制度が導入された。
カリマンタン島について。1859年、南部のバンジャル王国の王位継承問題をきっかけにバンジャル戦争がおこり、1860年に王国は廃止された。東部ではクタイ王国やベラウ王国も保護国化された。1884年、オランダの攻撃を受け蘭芳公司が滅亡し、オランダ領東インドに編入された。
一方、カリマンタン島北部は、シンガポール・香港を結ぶ海上交通路の確保を重視したイギリスの影響を受けた。1841年、イギリスは、反乱鎮圧を助けた見返りとしてブルネイ王からサラワク(現マレーシアのサラワク州)の統治権を与えられる。さらに1881年にはイギリス北ボルネオ会社がサバ(現マレーシアのサバ州)の経営権を獲得した。ボルネオ島北部はマレー半島やシンガポールとの結び付きが強かったため、オランダは外交上も深く介入しなかった。
バリ島について。複数のヒンドゥー王国が並立していたが、1840年代に遠征を行い、北バリを支配した。1900年代には他の王国も征服された。
スラウェシ島について。17世紀に敗北したゴワ王国やボネ王国は存続していたが、1905からの軍事遠征により両王国は降伏し、南スラウェシ全域が植民地へ編入された。
モルッカ諸島について。テルナテ王国やティドレ王国は名目的には存続していたが自治権がさらに縮小され、植民地行政へ組み込まれた。
ニューギニア島について。1871年にドイツ帝国が成立すると、植民地獲得競争に参入し、1884年11月に北東部をドイツ保護領と宣言した。ドイツの進出を警戒したイギリス(オーストラリア植民地政府やクイーンズランド植民地をもつ)は、イギリスは南東部を保護領と宣言した。これにより、オランダ、ドイツおよびイギリスの境界線がおおむね確定した。
20世紀に入ると、オランダは「倫理政策」により教育を拡充した。これにより現地知識人が育成され、民族意識が高まった。
1927年、スカルノがインドネシア国民党を結成した。インドネシア民族の独立と統一を目指し、民族主義を中心に据えながらも、イスラム勢力や社会主義・共産主義勢力を排除せず、すべてを独立運動に取り込もうとした。
1930年代に弾圧され、スカルノは流刑となった。
インドネシアの由来について。この名称を初めて提唱したのは、19世紀中頃のイギリス人学者であり、東南アジア島嶼部を表す名称として提案された。名前の由来はIndos(インド)とnesos(ギリシャ語で「島」)。ヨーロッパ人が古くから東南アジア一帯を「東インド」と呼んでいたことに由来する。そして、この名称が採用された最大の理由は、多民族国家をまとめる中立的な呼称だったからである。
1942年、第二次世界大戦の過程で日本軍がオランダ領東インドを占領し、日本が軍政を敷いた。
1945年8月、日本が降伏すると権力の空白が生じた。
独立から現在まで
1945年8月17日、スカルノやモハマッド・ハッタがジャカルタで独立を宣言し、翌18日、スカルノを初代大統領、ハッタを副大統領としてインドネシア共和国政府が発足した。
しかしオランダは植民地回復を目指して再上陸し、約4年間の独立戦争が始まる。
1946年、オランダの脅威が強まり、安全な内陸部のジョグジャカルタに政府を移転。スルタンの協力により臨時首都となった。この功績を評価され、現在もジョグジャカルタに特別な自治的地位が認められており、州知事が選挙で選ばれるのではなく、ジョグジャカルタ王国の現スルタンが自動的に州知事を兼ねる。
1949年のハーグ円卓会議で、オランダは主権移譲に同意し、1949年12月27日にインドネシア連邦共和国(首都ジャカルタ)として正式に独立し、オランダから主権を委譲されて成立した東インドネシア国ほか15国から構成された。一方で、ニューギニア島西部のみはオランダ領に残された。連邦制はオランダが共和国を弱体化させるために設計した面が強く、多くの住民は単一国家を望んだため、各構成国は次々と共和国へ合流し、1950年8月17日、単一国家のインドネシア共和国(〜現行)が成立した。
当初は議会制民主主義が採用されたが、独立戦争中に設立された議会は選挙によるものではなかった。1955年に総選挙(国会議員選挙及び憲法制定議会議員選挙)が行われ、四大政党がほぼ拮抗したほか20以上の政党が議席を獲得した。総選挙後、憲法制定議会では新憲法の制定が進められたが、いずれの勢力も必要な多数を確保できず、審議は行き詰まった。そうした中、スカルノは議会制民主主義はインドネシアの実情に合わないとして、指導される民主主義を提唱し、1959年には大統領令によって憲法制定議会を解散し、独立直後の1945年憲法を復活させた。そして、大統領権限を強化し、スカルノ中心の体制へ移行していった。同時に、軍・インドネシア共産党・民族主義勢力を均衡させるナサコム(NASAKOM:民族主義・宗教・共産主義の頭文字から命名)体制を構築した。当時のインドネシア共産党は党員約300万人を誇るなど巨大政党であり、スカルノもこれを無視することはできなかった。外交では非同盟路線を掲げ、西側・東側のいずれにも属さない姿勢を示した。1955年にはバンドン会議を開催し、アジア・アフリカ諸国の連帯を主導した。
オランダはニューギニア島西部にてパプア人の国家建設を目指したが、スカルノ政権は返還を要求した。1962年のニューヨーク協定で、 ①オランダはニューギニア島西部を放棄、②一時的に国際連合の暫定統治機関が統治、③1963年にインドネシアへ行政権を移管、④
将来、住民の意思を確認する投票を実施する、定められた。1963年までに③は履行された。
1963年、マレーシアが成立すると、スカルノはイギリスの新植民地主義国家だと非難した。
同年以降、カリマンタン島国境で武力衝突が発生したが、領土変更はなかった。
1965年、マレーシアが国際連合安全保障理事会非常任理事国になると、スカルノは抗議して国連脱退を宣言した。また、中国やソ連との関係を強め、西側諸国との関係は悪化した。
国内では、インドネシア共産党が土地改革や軍縮、武装した人民軍などを要求し、軍との対立が激化した。そして、1965年9月30日、軍幹部6名が殺害される事件が発生し、軍のスハルトはインドネシア共産党を首謀者と断定して弾圧し、これを事実上壊滅させた。1966年3月11日、軍に包囲された状況の中で、スカルノはスハルトに治安回復のための権限を与える旨の署名を行い、スハルトは大統領ではないまま国家運営の実権を握った。その後スハルトは、インドネシア共産党を正式に禁止し、スカルノ派閣僚を解任後に軍を中心とした政権への再編を進めた。
1967年3月、人民協議会はスカルノを大統領職から解任し、スハルトを大統領代行に任命した。1968年3月、スハルトは正式に第2代大統領へ就任した。
1969年の住民投票によりニューギニア島西部はインドネシアへ帰属することになった。一般住民による直接投票ではなく、約千人の代表者が選ばれ、その全員がインドネシアへの残留に賛成する形式であった。
1974年、ポルトガルで革命が起こり、植民地放棄政策が始まった。東ティモールでは独立派と親インドネシア派が対立し、1975年11月に独立派勢力が独立を宣言した。これに対し、インドネシアは共産主義勢力の拡大を警戒し、1975年12月に軍事侵攻を開始した。1976年、インドネシア政府は東ティモールを第27州として併合した。しかし、国際連合や多くの西側諸国はこの併合を承認せず、ポルトガルも引き続き宗主国としての立場を主張した。その後も独立派ゲリラとの武力衝突が20年以上続いた。
1970年代、アチェ沖で天然ガスなど大規模資源が発見された。しかし利益は地元住民には十分還元されなかった。1976年、自由アチェ運動が結成され、アチェ共和国として独立を一方的に宣言した。
スハルトは、政治の安定と経済成長を実現した一方、野党や言論の自由を厳しく制限し、一族や側近への利益誘導(縁故主義・汚職)、東ティモールやアチェなどでの人権侵害が問題視されるようになった。1997年、タイで始まったアジア通貨危機がインドネシアにも波及し、国際通貨基金から支援を受けて金融改革や独占企業の解体など厳しい条件が課されるも、一族の利権企業を十分整理せず、市場や国際社会の信頼を失った。また学生運動も多発した。その後支持基盤を失ったスハルトは、1998年5月に大統領辞任を表明した。後任には副大統領のハビビが就任した。
ハビビは政権は民主化を進め、報道・言論の自由を回復し、政党設立を自由化するなどした。1999年には約40年ぶりとなる自由な総選挙が実施され、多数の政党が参加した。また、国際的な圧力を受け、1999年に東ティモールの住民投票を実施し、多数がインドネシアからの独立を支持した。1999年10月、総選挙後に開かれた国民協議会(大統領の選出機関)で政権運営について責任演説を行うも、東ティモール独立や汚職問題への不満、スハルト政権との近さなどを理由に、責任演説は否決された。ハビビは大統領選への立候補を断念し、そのまま退任した。
1999年6月の総選挙では、インドネシア闘争民主党が第一党となり、党首のスカルノプトリ(スカルノの長女)が首相と目されていたが、イスラム系政党が結集し、穏健派のワヒドを支持した。その結果、ワヒドが大統領、メガワティが副大統領に選出された。民主化と人権尊重、多文化共生を積極的に推進し、中国系住民への差別撤廃や軍の政治的影響力縮小などで重要な成果を残した一方、議会との調整能力や政権運営には課題があり、支持基盤が弱かったことに加え、汚職疑惑を契機として政治的孤立を深め、弾劾されるに至った。
副大統領のスカルノプトリが大統領に昇格した。経済回復や政治の安定化を進めた一方で、改革の速度は遅く、汚職対策や行政改革への期待に十分応えられなかったことから支持を失い、2004年の直接選挙でユドヨノに敗れ退陣した。
ヨドユノ政権はインドネシアで初めて大統領直接選挙で誕生し、10年間にわたり政権を担い、民主主義の定着、経済成長、アチェ和平の実現など大きな成果を挙げた。その一方で、第2期には経済成長の鈍化や汚職問題への批判も高まり、憲法上の任期満了により退任した。
次に成立したジョコ・ウィドド政権は、インフラ整備、経済発展、首都移転計画を柱とした。一方で、第2期には民主主義の後退や縁故政治への批判も強まり、2024年に任期満了で退任した。
2024年、プラボウォが大統領に就任し、今に至る。
おわりに
インドネシアの歴史は、一つの王国が発展して現在の国家になった歴史ではありません。海上交易によって栄えた港市国家、ヒンドゥー教・仏教・イスラム教の伝播、ヨーロッパ列強による植民地支配、そして独立運動という複数の歴史が積み重なって現在のインドネシア共和国が形成されました。
また、島ごとに異なる歴史を歩んできたことは、現在でも民族・宗教・文化の多様性として受け継がれています。ジャワ島が政治・経済の中心となる一方、バリ島ではヒンドゥー文化が息づき、アチェでは独自のイスラム文化が色濃く残るなど、それぞれの地域には固有の歴史があります。
本記事が、インドネシアという国を「一つの国家」ではなく、「多様な島々の歴史が集まって成立した国家」として理解する手助けになれば幸いです。
