はじめに
カザフスタンは中央アジア最大の国土を持ち、古くからユーラシア草原を代表する地域として発展してきました。東西を結ぶ交通の要衝であったことから、多くの遊牧民族や国家が興亡を繰り返し、その歴史はユーラシア世界全体の動きとも深く結び付いています。
サカ人や匈奴、突厥、西遼、モンゴル帝国、カザフ・ハン国、ロシア帝国、ソ連と、支配勢力は時代ごとに大きく変化しました。その一方で、遊牧文化やテュルク系民族としての伝統は現在まで受け継がれています。
本記事では、古代から現代までのカザフスタンの歴史を時代ごとに整理し、それぞれの出来事がどのようにつながって現在のカザフスタン共和国へと至ったのかを、できるだけわかりやすく解説します。
歴史
古代
現在のカザフスタンは、ユーラシア大陸の中央に広がる巨大な草原地帯である。西はカスピ海、東はアルタイ山脈、南は中央アジアのオアシス地帯、北はロシアの森林・草原地帯へつながっている。この地理的条件から、古代以来、騎馬遊牧民が活動した。
紀元前1千年紀には、イラン系のサカ人(遊牧民の諸集団)が活動した。
紀元前後になると、東方から匈奴が台頭し、現在のカザフスタン地域は、サカ人や匈奴系、烏孫など東西の遊牧民が移動する巨大な回廊となった。
552年、突厥可汗国が成立した。モンゴル高原を支配していた柔然に臣属していた突厥の指導者が柔然を破り、アルタイ山脈周辺で独立した。突厥は、英語で Turkic Khaganate と呼ばれるように、「Türk」を自称した最初期の大規模なテュルク系国家であり、後世のテュルク系諸民族・諸国家の形成における重要な政治的・文化的基盤となった。可汗国という名称は、突厥の最高君主が可汗(khagan)という遊牧帝国の最高君主を意味する称号を使用したことに由来する。
6世紀後半には西方へ勢力を拡大し、現在のカザフスタンのかなりの部分が突厥の勢力圏に入った。
583年、東西の政治的対立が深まり、東突厥と西突厥に分裂した。カザフスタン地域は西突厥可汗国の領域となった。
657年、西突厥可汗国は、内部抗争や唐の介入などにより滅亡した。これより、現在のカザフスタン地域は複数の遊牧民の諸集団に分裂する。
現在のカザフスタン地域南東部(現カザフスタンのアルマトイ州、ジェティス州あたり)は突騎施(遊牧民の諸集団)が支配した。
744年、再興された突厥がウイグルにより滅ぼされ、カルルク(遊牧民の諸集団)は西へ移動し始めた。
751年、タラス河畔(カザフスタンとキルギスの国境あたり、現カザフスタンのジャンブール州の州都タラズあたり)で、唐とアッバース朝が交戦した。カルルクは唐の傭兵として参戦したものの、戦いの最中に離反した。敗北した唐は中央アジアへの影響力を失った。
8世紀末には、カルルクが内部対立等により弱体化した突騎施を支配下に組み入れ、カザフスタン南東部を支配した。
840年、東方のウイグル可汗国が滅亡すると、カルルクの指導者は可汗を称するようになり、事実上カラハン朝が成立した。
カザフスタン北方はキマク(遊牧民の諸集団)が支配した。
カザフスタン西部はオグズ(遊牧民の諸集団)が支配した。
カザフスタン南部(現カザフスタンのトルキスタン州やクズルオルダ州あたり)は、タラス河畔の戦いの影響もあり、アッバース朝の支配下にあった。9世紀後半になると、アッバース朝の地方政権だったサーマーン朝(イラン系)がその地で事実上独立した。
中世
10世紀中頃、カラハン朝はイスラームに改宗した。
999年、カラハン朝が南下し、サーマーン朝を滅ぼした。
11世紀初頭、内部対立等により、現カザフスタン西部にいたオグズの一部が南下し、イスラームに改宗した。
1040年代、カラハン朝は内部対立により東西に分裂した。
1089年、セルジューク朝が東方に遠征し、西カラハン朝を服属させた。
1134年頃、耶律大石率いる西遼が西進し、東カラハン朝(現キルギス北部あたり)を制圧したのち、1137年に西カラハン朝に侵攻した。1141年、西カラハン朝の要請を受けて救援に来たセルジューク朝も敗れ、西カラハン朝は西遼の属国となった。
12世紀末、ホラズム・シャー朝(1077年にウズベキスタン南部のホラズム州あたりで成立)が西遼を圧迫した。
1210年頃、西遼下の西カラハン朝はホラズム・シャー朝により滅ぼされた。
1219年、その前年に西遼を滅ぼしたモンゴル帝国がホラズム・シャー朝へ侵攻した。その後、さらに西進し、現在のカザフスタン地域の全域をその支配下に組み込んだ。
その後1220年頃、チンギス・ハンの長男ジョチが部隊を与えられてイルティシュ川あたり(現カザフスタン北部)でウルス(国家や部族の集まりの意)を形成した。
1227年にチンギス・ハンが死去すると帝国は分割された。ジョチは父より先に死去していたため、ジョチの子たる長男オルダや次男バトゥがその領土を承継した。
1230年代から1240年代にかけて、バトゥは西進し、ヴォルガ川(現ロシア)下流にサライ(現ロシアのアストラハン州あたり)を建設した。その功績もあり家長となったバトゥはジョチ・ウルスを成立させ、その西半分(ヴォルガ川あたり)をバトゥ・ウルスとして統治した。一方でオルダはバトゥの支配下で東半分(イルティシュ川あたり)をオルダ・ウルスとして統治した。ジョチ・ウルスは、キプチャク・ハン国やGolden Hordeとも呼称される。
ジョチ・ウルスの支配層はモンゴル人だが、人口の大部分はテュルク系遊牧民であった。
1257年にジョチ・ウルス(バトゥ・ウルス)の5代目として即位したベルケはその後イスラム教へ改宗した。現在のカザフスタン地域において、イスラム化が進んだ。
1313年にウズベクがジョチ・ウルス(バトゥ・ウルス)の10代目として即位し、最盛期を実現した。
1342年にジャニベクがジョチ・ウルスの12代目として即位した。この頃、ペストが大流行した。
1357年、ジャニベクが死去し、その後継も1359年に死去したことで、ジョチ・ウルス(バトゥ・ウルス)においてバトゥの直系男子が途絶えたため、継承争いが起きてハンが乱立した。
1361年、東側のオルダ・ウルスのハンとなったウルス・ハンは、混乱中のバトゥ・ウルスの王位を狙い、1370年頃にジョチ・ウルスを再統一した。
一方、ウルス・ハンとの権力争いに敗れた王族トクタミシュはティムールのもとへ亡命した。
1377年、ウルス・ハンが死亡した。ティムールの援助を受けたトクタミシュは、ウルス・ハンの後継者を破り、1380年頃にジョチ・ウルスを再統一した。
しかし、1391年および1395年にティムールの遠征を受け、ジョチ・ウルスは国内の統制力を失った。
15世紀前半になると、各地の王族が独立していく。
近世
現カザフスタン東部ではオルダ・ウルスの支配力が弱まっていた。1428年、ジョチの五男シバンの系譜であるアブル=ハイルがカザフスタン中部および北部を中心にウズベク・ハン国を建国した。しかし、有力部族を完全には統制できず、ジョチの長男オルダの系譜であるケレイとジャニベクが南部へ移動した。これに従った遊牧民は、カザフ(Qazaq:自由な遊牧民・放浪者の意)と呼ばれ、政治的に独立していった。
1465年頃、ケレイとジャニベクによりカザフ・ハン国が成立した。首都はテュルキスタン(現テュルキスタン州)。
1468年、ウズベク・ハン国のアブル=ハイルが死去すると、ウズベク・ハン国は混乱し、多くの遊牧部族がカザフ・ハン国へ合流し、カザフ・ハン国は現在のカザフスタン中部も支配下に置いた。
1440年代にはカザフスタン西部からカスピ海北岸やウラル川流域にかけて、ジョチ・ウルスの有力なマンギト部族(ジョチの系譜ではない)を基盤としてノガイ・オルダが成立していた。ノガイ・オルダとカザフ・ハン国は共通する部族が多いこともあり、同盟や通婚、争いを繰り返した。ノガイ・オルダは部族間抗争や外圧により弱体化し、次第にカザフ・ハン国に統合されていった。
16世紀から17世紀にかけて、カザフ・ハン国は内部で大ジュズ(南東部)、中ジュズ(北東部)、小ジュズ(西部)に分かれた。ジュズはカザフ・ハン国内部に形成された地域的・政治的な部族連合であり、それぞれのハンがかなりの自立性を持っていた。その背景には、広大なカザフ草原で遊牧生活を営む中、地域ごとの牧草地・移動経路・周辺勢力との関係の違いから、部族が自然に連合したことにある。
17世紀後半になると、東方でジュンガル・ハン国が勢力を拡大した。1723年には大規模侵攻が起こり、住民が西方へ避難した。この過程で民族アイデンティティは確立されていった。
1731年、ジュンガルの脅威に対抗するため、小ジュズのアブル=ハイル・ハンはロシア帝国へ臣従を誓い、見返りとして軍事支援を得た。その後、中ジュズおよび大ジュズも段階的にロシア帝国の保護下へ入った。
アブライ・ハン(建国者の1人ジャニベクの子孫)を中心にジュンガルと戦った。
1750年、ジュンガルは清に滅ぼされた。
その後、アブライ・ハンを中心に、清とロシア帝国の二方面で外交関係を保ちながら、草原で最後の遊牧民の政権を維持した。
近代
1820年代からロシア帝国はカザフ社会を帝国に組み込む政策を開始した。1822年には中ジュズで、1824年には小ジュズでハン制が廃止された。
最後まで独立を維持しようとしたケネサル・ハンはロシア帝国への抵抗を続けたが、1847年に戦死し、現在のカザフスタン地域はロシア帝国へ組み込まれた。
1867~68年の行政改革により、カザフ草原はロシア帝国の総督府・州に再編され、カザフ人の伝統的政治制度は解体された。ロシア人・ウクライナ人農民の移住も進められ、土地利用をめぐる緊張が高まった。
1905年、ロシア革命によって政治活動の余地が生まれた。1917年のロシア革命後、アラシュ自治政府(アラシュ:カザフ人の始祖とされる)が樹立された。しかし、ロシア内戦でボリシェヴィキが勝利すると、1920年に解体された。
1920年、キルギス自治社会主義ソビエト共和国が設置された。首都はオレンブルク(現ロシアのオレンブルク州)。この名称は、ロシアがカザフ人をキルギスと呼んでいたことに由来する。
1925年、共和国名はカザフ自治社会主義ソビエト共和国へ変更され、同時にオレンブルク州はロシア共和国へ移管された。それに伴い、首都はまずクズルオルダ(現カザフスタンのクズルオルダ州)、1929年からアルマ・アタ(1992年に現在のアルマトイへ改称)へ移った。
1936年、カザフ自治共和国はカザフ・ソビエト社会主義共和国(カザフSSR)へ昇格し、ソ連を構成する共和国の一つとなった。この時点で現在のカザフスタンにほぼ近い国境が確定した。
1930年代には、スターリンのもとで定住化の強制が行われ大飢饉が発生し、国外へ向かう者も増えた。また、他の地域からの強制移住が進められ、カザフスタンは多民族共和国となった。
現代
1954年からはフルシチョフにより北カザフスタンで大規模農地開発が進み、多数のロシア系住民が移住した。
また、バイコヌール宇宙基地(現クズルオルダ州)やセミパラチンスク核実験場(現アバイ州、セミパラチンスクは後にセメイに改称)など、重要施設が置かれた。
1986年、カザフSSRのカザフ人指導者クナーエフが解任し、新たにロシア人を任命した。これに対し、首都アルマ・アタで抗議運動が発生するなど、民族意識は高まりを見せた。
1989年、ヌルスルタン・ナザルバエフがカザフSSRの指導者となった。
1990年10月には国家主権宣言を採択し、共和国の権限拡大を宣言した。
1991年8月のソ連8月クーデター失敗後、ソ連の解体が加速した。
1991年12月16日、ソ連崩壊前にカザフスタン共和国は独立を宣言した。初代大統領はヌルスルタン・ナザルバエフ。
同年12月21日、アルマ・アタで旧ソ連11か国が集まり、独立国家共同体(CIS)の創設を決定した。カザフスタンは、ソ連を構成していた共和国の中で最後に独立を宣言した共和国となった。
石油、天然ガス、ウラン、鉱物資源に恵まれていたこともあり、ナザルバエフの指導のもと、発展した。また、市場経済化を進め、外国投資を積極的に受け入れた。
1997年、首都をアルマトイからアクモラへ移転した。その後、アクモラはアスタナと改称され、カザフスタンの新しい政治的中心となった。
また、ロシアとの関係を維持しつつ、中国・中央アジア・欧米とも関係を構築する多方位外交を展開した。
カザフスタンは、核兵器を放棄したことでも国際的に注目された。ソ連崩壊時、国内には大量の核兵器が残されていましたが、カザフスタンはそれを放棄し、非核国家となった。
2019年、ナザルバエフは大統領を辞任し、カシムジョマルト・トカエフが大統領となった。
2022年1月には燃料価格の引き上げをきっかけに全国的な抗議運動が発生しました。抗議は急速に拡大し、多数の死者を出す深刻な混乱となった。
トカエフはナザルバエフ時代の政治構造を再編し、権力集中の是正や政治改革を進めた。同年、憲法改正が行われ、初代大統領の特別な地位や大統領の親族による政治的影響力を制限する方向が打ち出された。
おわりに
カザフスタンの歴史は、広大な草原を舞台に遊牧国家が興亡を繰り返した歴史であると同時に、東西文明を結ぶユーラシア世界の歴史でもあります。サカ人や突厥、モンゴル帝国、カザフ・ハン国、ロシア帝国、ソ連という多様な支配を経て、1991年に独立国家として新たな歩みを始めました。
独立後は豊富な資源を背景に経済発展を遂げる一方、ロシア、中国、西側諸国との均衡を重視する多方位外交を展開し、中央アジアの重要国として存在感を高めています。また、核兵器を放棄した非核国家として国際社会で独自の役割も果たしています。
カザフスタンの歴史を知ることは、遊牧民の歴史だけでなく、モンゴル帝国やロシア帝国、ソ連、そして現代の中央アジア情勢を理解することにもつながります。本記事が、カザフスタンという国への理解を深める一助となれば幸いです。
