はじめに
東南アジアのインドシナ半島に位置するラオス人民民主共和国は、メコン川流域を中心に独自の歴史を形成してきた内陸国である。
その歴史は、古代からメコン川流域へ進出したタイ系諸集団によるムアン社会、14世紀に成立したランサーン王国、そして18世紀に成立したルアンパバーン、ヴィエンチャン、チャンパーサックの三王国へと続いている。これらの王国は、周辺のクメール、ビルマ、タイ、ベトナムなどの勢力と関係を持ちながら、メコン川流域を中心に政治的・文化的な発展を遂げた。
19世紀になると、ラオス地域はシャムの影響下に置かれた後、フランスの進出によってフランス領インドシナの一部となった。第二次世界大戦後には独立をめぐる政治的対立が激化し、ラオス王国とパテート・ラーオの対立は、冷戦とベトナム戦争の影響を受けながら内戦へと発展した。
1975年には王制が廃止され、ラオス人民民主共和国が成立した。その後はラオス人民革命党による一党支配の社会主義体制が続く一方、1986年には経済開放政策が導入され、周辺諸国との関係も変化していった。
現在のラオスを理解するためには、ランサーン王国の成立と分裂、タイやベトナムとの関係、フランスによる植民地支配、独立後の内戦、そして1975年以降の社会主義体制という一連の流れを把握することが重要である。
本記事では、古代のムアン社会からランサーン王国、三王国時代、フランス保護国時代、ラオス王国、ベトナム戦争とラオス内戦を経て、1975年のラオス人民民主共和国成立とその後の現代まで、ラオスの歴史を時代ごとに整理して解説する。
歴史
古代
中国方面から南下してきたタイ系諸集団がメコン川流域に進出した。
彼らは、ムアン(muang)という地域共同体の仕組みのもと生活していた。
中世
11世紀以降、クメール王国(クメール人)が南方から勢力を拡大させ、現ラオスも間接的な支配を受けた。
1220年頃、クメール王国のジャヤヴァルマン7世が死去し、クメール王国が衰退し始めた。その後各地の勢力が自立し始めた。
1238年、西方でタイ族のスコータイ王国が成立した。13世紀後半になるとスコータイ王国は勢力を拡大し、現ラオス地域に影響を及ぼしたが、その後各地で離反が起こった。
1353年、ラオ族のファー・グムがメコン川流域のムアンを統合し、ランサーン王国が成立した。ランサーンは百万頭の象を意味する。首都はルアンパバーン(現ラオスのルアンパバーン県)。宗教面では、上座部仏教が信仰された。
ファー・グムは征服活動を通じて領域を拡大させた。北では現在のラオス北部から中国雲南方面に接する地域、東ではベトナムとの国境地帯、南では現在のラオス南部にまで勢力を伸ばし、西側ではメコン川を越えて現タイ領にも影響力を持った。現タイ東北部のいわゆるイーサーン地方にも影響力を持った。
近世
1479年、東方から大越が侵攻し、首都ルアンパバーンも攻撃を受けた。
16世紀初頭、ランサーン王国の王は西方のラーンナー王国の娘と婚姻した。生まれた長男はセーターティラート。
1540年代、ラーンナー王国が乱れると、ランサーン王国が介入し、セーターティラートがラーンナー王に即位した。その後、ランサーン王国の王位争いで勝利したセーターティラートはランサーン王国とラーンナー王国の王を兼ねた。しかし、都をランサーン王国側のルアンパバーンに置いたため、ラーンナー王国で独立勢力が勃興した。
1558年、ラーンナー王国領に、さらに西方からタウングー朝(ビルマ人)が侵攻し、ラーンナー王国はその属国となった。
1560年、ランサーン王国は都をヴィエンチャンへ移した。ヴィエンチャンはメコン川中流域に位置し、タウングー朝から一定の距離を取ることが可能であった。
同年、南西のアユタヤ王国と同盟を締結し婚姻関係を結んだ。しかし、その後西方よりタウングー朝の侵攻を受けた。アユタヤ王国も同時期に侵攻を受けた。
1574年、タウングー朝の支配下に置かれた。この影響もあり、ラオ人の居住地域は南方に広がった(現ラオス南部チャンパーサック県など)。
1598年、ランサーン王国はタウングー朝から独立した。
1638年、スリニャ・ウォンサーが王位につき、王権が安定した。
1694年、スリニャ・ウォンサー王が死去した。王位継承争いが始まり、王族や地方勢力の対立が激化した。
1707年、王国北部にて、ルアンパバーンを都として王族が独立を宣言してルアンパバーン王国が成立した。ヴィエンチャンに都を置く王朝はヴィエンチャン王国となり、ランサーン王国は2つに分裂した。
1713年、ヴィエンチャン王国の南部にて、チャンパーサック王国が分離独立した。
1765年、北西に位置するビルマ人のコンバウン朝によりルアンパバーンが占領され、ルアンパバーン王国はその影響下に入った。
その後、コンバウン朝とタイ人のトンブリー朝の抗争が激化した。
1767年、コンバウン朝がアユタヤ王国を滅ぼした。現タイ地域ではトンブリー朝が成立した。
1778年、トンブリー朝がヴィエンチャン、チャンパーサック、ルアンパバーンへ軍を進め、ラオ人の三王国はタイの宗主権下へ組み込まれた。
1782年、トンブリー朝が滅び、チャクリー朝(現在のタイ王国)が成立した。
近代
1828年、王の反乱は失敗に終わり、ヴィエンチャン王国はチャクリー朝に併合された。北方のルアンパバーン王国もこの影響を受けて領土と自治権を徐々に制限されていったが、王国そのものは存続した。
1893年、チャクリー朝とフランスの戦争の結果、メコン川東岸地域はフランスへ譲渡された。ルアンパバーン王国は形式的には王国のまま、フランスの保護国となった。また、チャンパーサック王国の一部もフランスの影響下に入った。これによりラオス保護国が成立した。
1899年、ラオス保護国はフランス領インドシナに包含された。
1904年、チャンパーサック王国全域がフランスに譲渡された。その後、フランスにより、チャンパーサック王国は解体された。
第二次世界大戦の過程で日本がフランス領インドシナを掌握した。1945年、日本はラオスの独立を認め、ルアンパバーン王国のシーサワーンウォン王が日本の圧力下でラオス王国の独立を宣言した。
現代
日本の敗戦は、ラオスがフランスの植民地支配へ戻ることを意味した。1945年8月、日本が降伏すると、ラオスの民族主義者らによるラオ・イサラが臨時政府を樹立した。
1946年、フランスがヴィエンチャンを占領し、ラオ・イサラ政府はタイへ逃れた。そして、シーサワーンウォン王は王位に戻ることとなった。また、フランスにより、ルアンパバーン、ヴィエンチャン、チャンパーサックといった旧王国の地域をラオス王国として統合する方向が決定された。
1947年、憲法が制定され立憲君主制となった。
1949年7月19日、協定によりフランスはラオスの限定的な独立を承認した。ただし、ラオスはフランス連合に加盟する必要があった。これに対し、王族出身のスパーヌウォンを中心としたラオ・イサラの一部は不十分な独立であるとして反発した。1950年、彼らはベトナム民主共和国等と協力してラオスの共産主義革命勢力(パテート•ラーオ)を組織し、現ラオスの北部や東部で活動した。
1954年、第一次インドシナ戦争が終結した。ジュネーヴ会議においてラオスについても扱われ、ラオスの独立が確認された一方、パテート・ラーオは北部(現ラオスのフアパン県あたり)に集結することを認められた。これにより、ラオス王国とパテート・ラーオは、ラオスの代表の座をめぐり、対立し続けた。
パテート・ラーオは北ベトナムから支援を受け、ラオス王国はアメリカやタイから支援を受けた。
1955年、カイソーン・ポムウィハーンらによりラオス人民党が結成された。
1955年以降のベトナム戦争においては、北ベトナムが南ベトナムの共産勢力へ物資や兵員を送るために、ラオス東部の山岳地帯を通る補給路を整備し(ホーチミン•ルート)、ラオスはベトナム戦争の戦場の一部となった。
1972年、ラオス人民党さラオス人民革命党に改称した。
1975年、南ベトナムが崩壊すると、ラオス王国を支えていたアメリカの影響力も低下し、
1975年末、ラオス王国は崩壊し国王は退位した。王制は廃止され、ラオス人民民主共和国が成立した。ラオス人民革命党を中心とする社会主義国家が建設され、国家主席はスパーヌウォン、首相はカイソーン・ポムウィハーンが務めた。政党はラオス人民革命党のみが認められている。外交面ではベトナムとの関係を強めた。
1977年、条約によりベトナムとの国境を画定させた。
1979年、中国とベトナムの間で戦争が起こった。ラオスはベトナムと良好な関係を築いていたこともあり、ラオスと中国の関係は悪化した。
1986年、社会主義の範囲内において経済の開放化を認める経済政策を採用した。
1987年、タイとの間で、現ラオスのサイニャブリー県あたりをめぐって国境戦争が起きた。1988年に入り停戦が成立した。その後、タイとの間で国境を画定する作業を進めた。
1989年、ベトナムと中国の関係改善に伴いラオスと中国の関係も改善され、関係が正常化した。
1991年、スパーヌウォンは引退し、カイソーン・ポムウィハーンが第2代の国家主席となった。
1992年、発効した条約により、ラオスと中国の国境線が画定された。
1992年、カイソーン・ポムウィハーンの死去に伴い、ヌーハック・プームサワンが第3代の国家主席となった。
1997年、ASEANへ加盟した。
1998年、第2代首相であったカムタイ・シーパンドーンが第4代の国家主席となった。
2006年、チュンマリー・サイニャーソンが第5代の国家主席となった。
2016年、ブンニャン・ウォーラチットが第6代の国家主席となった。
2017年、カンボジアのフン・セン政権は、ラオスが国境付近の係争地域に進出しているとして撤退を要求し、軍を派遣した。ラオスも部隊を配置し、軍事的な緊張が高まった。
2021年、トーンルン・シースリットが第7代の国家主席となった。
おわりに
ラオスの歴史は、メコン川流域に形成されたムアン社会を基盤として、ランサーン王国が成立し、その後の分裂と周辺諸国との関係を経て、近代の国家形成へとつながっていった。
ランサーン王国の時代には、現在のラオスだけでなく、現在のタイ東北部や周辺地域にもラオ系住民の活動が広がっていた。しかし18世紀には王国がルアンパバーン、ヴィエンチャン、チャンパーサックの三王国に分裂し、それぞれがビルマやシャムなど周辺勢力との関係を深めることになった。
19世紀にはシャムの影響力が強まり、さらにフランスの進出によってラオス地域はフランス領インドシナに組み込まれた。第二次世界大戦後には独立をめぐる対立が生じ、ラオス王国とパテート・ラーオの対立は、北ベトナム、アメリカ、タイなど周辺国の介入によって冷戦下の国際対立とも結び付いた。
1975年にラオス王国が崩壊し、ラオス人民民主共和国が成立すると、ラオスはラオス人民革命党を中心とする社会主義国家となった。その後、1986年の経済開放政策、1997年のASEAN加盟、中国やベトナム、タイなどとの関係強化を経て、現在のラオスへと至っている。
このように、ラオスの歴史は、単独の国家が一貫して発展してきた歴史ではなく、メコン川流域のムアン社会、複数のラオ系王国、シャムやフランスによる支配、そして冷戦下の国際対立というさまざまな政治勢力の関係の中で形作られてきた歴史である。現在のラオスを理解する上でも、こうした周辺諸国との関係と長い国家形成の過程を合わせて見ることが重要である。
