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世界史|タイ王国

世界史
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はじめに

東南アジアのインドシナ半島中央部に位置するタイ王国は、古代から周辺のクメール人、モン人、ビルマ人、ラオ人などさまざまな民族・勢力と関係を持ちながら歴史を形成してきた国である。

その歴史は、古代の扶南やドヴァーラヴァティーなどの勢力、クメール王国の影響を経て、13世紀のスコータイ王国、14世紀のアユタヤ王国へと続いている。アユタヤ王国は長期間にわたって東南アジアの主要な交易国家として発展したが、18世紀にはビルマ人のコンバウン朝によって滅ぼされた。

その後、タークシンによるトンブリー朝を経て、1782年にはチャクリー朝が成立し、現在のタイ王国につながる政治体制が形成された。19世紀になると、東方からフランス、西方からイギリスが進出する中で、シャムは周辺地域の領土を割譲しながら独立を維持し、東南アジアで数少ない植民地化されなかった国となった。

20世紀には、1932年の立憲革命によって絶対王政から立憲君主制へ移行した。その後、軍部によるクーデターと民政復帰が繰り返され、第二次世界大戦、冷戦、ベトナム戦争、民主化運動などを経て、タイの政治体制は大きく変化していった。

21世紀に入ると、タクシン・チナワット政権をめぐる対立を背景として、軍部と政党、都市部と地方などの政治的対立が深まり、2006年と2014年には軍事クーデターが発生した。その後も憲法改正や政権交代が続き、現在のタイ政治にも軍部、王室、政党など複数の勢力が影響を及ぼしている。

本記事では、古代の扶南・ドヴァーラヴァティーからクメール王国、スコータイ王国、ラーンナー王国、アユタヤ王国、トンブリー朝、チャクリー朝を経て、イギリス・フランスとの関係、立憲革命、第二次世界大戦、冷戦、民主化運動、そして21世紀の政治的対立に至るまで、タイの歴史を時代ごとに整理して解説する。

歴史

古代

タイ人は、もともと中国南西部あたりで活動していたが、その後南下したとされる。

1世紀までに現タイ地域の一部は系統不明の扶南の勢力圏に入っていた。

7世紀頃、扶南が衰退すると、現タイとミャンマーにまたがる地域において、モン人がドヴァーラヴァティー王国を建てた。9世紀頃には衰退した。

中世

802年頃、現カンボジア地域において、クメール人のクメール王国が成立した。現タイの東北部や東部はその影響下に入った。

1002年に即位したスールヤヴァルマン1世の時代には積極的に西方へ進出し、現在のタイ中部や南部もクメール王国の勢力圏に入った。

1210年代末頃、ジャヤヴァルマン7世が死去し、クメール王国は徐々に弱体化した。

1238年頃、スコータイ(現タイのスコータイ県あたり)のタイ人首長がクメール人から自立しスコータイ王国が成立した。

1279年、第3代ラームカムヘーン王が即位すると、チャオプラヤー川上流域から北部・西部に勢力を伸ばし、周辺のタイ系諸勢力を服属させるなど最盛期を迎えた。また、クメール文字を基礎にしてタイ文字を整備した。しかし、王の死後スコータイ王国は弱体化した。

1290年代、スコータイ王国の北方でタイ人諸都市が統合されラーンナー王国が成立した。ラーンナーは百万の田を意味し、チェンマイを中心として現タイ北部、現ラオス北部や現ミャンマー東部の一部に影響力を持った。 

1351年、スコータイ王国の南方のチャオプラヤー川下流にアユタヤ王国が成立した。首都はアユタヤ(インドの叙事詩ラーマーヤナに登場するアヨーディヤーに由来)。宗教は上座部仏教が公式とされた。

アユタヤは次第に北進してスコータイ王国を吸収し、北方のラーンナー王国と対立した。また、東方ではクメール王国の衰退に乗じて東方へ進出した。また、西方ではビルマ人の諸王国、南方ではイスラム化したマレー半島の諸港市と対立した。

1431年、アユタヤ王国は東進し、クメール王国の首都アンコールを占領した。

1438年、スコータイ王国はアユタヤ王国に吸収された。スコータイ王族自体は存続した。

近世

1511年、ポルトガルが南方のマラッカを征服した。その後、アユタヤ王国にポルトガル使節が到来し、アユタヤ王国とポルトガルは交易協定を結んだ。

1530年代、ビルマ人のタウングー朝が西方より進出した。

1558年、北方のラーンナー王国がタウングー朝の支配下に入った。

1569年、タウングー朝がアユタヤ王国を攻略し、アユタヤ王国は属国となった。タウングー朝により、スコータイ王族とされるマハータンマラーチャーティラートが王として置かれた。

1581年、ビルマ王が死去し、タウングー朝は急速に衰退した。

1584年、王の子ナレースワンの功もあり、アユタヤ王国は臣従を破棄して独立を宣言した。

1590年、王の死によりナレースワンが王となった。その後もタウングー朝の侵攻を撃退し、独立を決定的なものとした。

17世紀初頭、オランダ、イギリス、スペイン、フランスなどもアユタヤ王国に進出した。

1629年、王位の簒奪があり、プラーサートトーン王が即位した。

1630年代には、日本の勢力拡大への警戒感からアユタヤの日本人町が焼かれた。1635年には朱印船貿易が廃止された。

1665年、ナーラーイ王が即位した。この時代、オランダを牽制し、北方のタウングー朝を牽制するため、フランスとの関係を強化した。

1688年、ナーラーイ王が死去すると、フランスへの警戒感からクーデタが起こり、王の子は殺され、ナーラーイ王の側近であったペートラーチャーが即位した。その後、アユタヤ王国は外国勢力への警戒を強めながら、交易で発展した。

1752年、北方でビルマ人のコンバウン朝が成立した。

1767年、コンバウン朝の攻撃により首都アユタヤが陥落し、アユタヤ王国は滅亡した。その後、現タイ地域は各地の勢力に分裂した。

1767年末、ターク(現タイのターク県あたり)出身のタークシンが台頭し、コンバウン朝を撃退して、トンブリー(現タイのバンコクあたり)を都としてトンブリー朝を建てた。その後、分裂したタイ地域を再統一した。

1782年、将軍のチャクリーがクーデタによってタークシンを退位させてラーマ1世として即位し、チャクリー朝を建てた。都をチャオプラヤー川東岸のバンコクへ移した。

バンコクを中心とする中核地域の周囲には、多数の政治単位(ムアン)が存在し、それぞれの王・領主が自治権を持つという支配体制であった。

近代

1820年代、北東方面でランサーン王国から分裂したラオ人のヴィエンチャン王国の王が反乱を起こした。これを鎮圧し、ヴィエンチャン王国を事実上消滅させた。

西方ではイギリスがインドからビルマへ進出した。1826年および1852年の戦争を経て、イギリスは現ミャンマー南部を支配下に置いた。また、イギリスはマレー半島にも進出した。

一方、東方ではフランスがベトナムへ進出した。

1851年、ラーマ4世が即位した。西欧に習い、近代化が進められた。

1855年、イギリスとの条約により、イギリスに治外法権が与えられ、貿易が大幅に自由化した。また、この時期、国号が正式にシャムされた。

1863年、東方のカンボジアがフランスの保護国となり、フランスはメコン川流域へ進出した。

1868年、ラーマ5世が即位した。中央政府が全国を直接統治する中央集権国家を目指した改革が進められ、地方行政が再編された。

1893年、フランスはメコン川東岸のラオス地域の領有権を主張した。これにより、軍事衝突が起き、メコン川東岸の全領土とメコン川中の島に対する権利を放棄した。

1896年、西方および南方から進出していたイギリスは警戒感を強め、イギリスとフランスの間でタイ地域の勢力範囲について合意した。イギリス領とフランス領の間にシャムを緩衝地帯とすることで、両国の勢力圏が整理された。その後は、周辺地域の支配権を失うことによって、自国そのものの植民地化を避けた。

1907年、条約に基づき現カンボジア北西部にあたる地域をフランス領インドシナへ割譲した。現タイとカンボジアの国境はこの時期の領土の変遷に由来する。

1909年、条約に基づき現マレーシア北部にあたる地域をイギリスに割譲した。現タイとマレーシアの国境はこの時期の領土の変遷に由来する。

1910年、ラーマ6世が即位した。

第一次世界大戦に連合国側として参加し、戦勝国側となった。

1913年、国民が名字を持つ制度が整備された。

1920年代、欧米諸国との間で条約改正が進み、治外法権の撤廃も進展した。

1925年、ラーマ7世が即位した。

1927年、欧州へ留学した者らを中心として人民党が結成された。中心人物にはプレーク・ピブーンソンクラーム、プリーディー・パノムヨンらがいた。

1932年、人民党がクーデターを起こし、絶対王政から立憲君主制へ移行した。

ラーマ7世は新しい憲法を受け入れ、王の座を維持した。初代首相には、人民党の構成員ではないマノーパコーン・ニティターダーが選ばれ、人民党と王族の利害を調整した。

1933年、人民党内部の対立により、パホン・ポンパユハセーナーがクーデタを起こして第2代首相となった。

1935年、ラーマ8世が即位した。

1938年、プレーク・ピブーンソンクラームが第3代首相となった。民族主義政策が進められ、1939年には国名をシャムからタイに変更した。

1939年、第二次世界大戦が始まった。フランスがドイツに敗北すると、フランス領インドシナはドイツと協力するヴィシー政権の統治下に置かれた。タイはフランスと不可侵条約を締結していたが、タイは好機と見て旧シャム領を取り戻すためにカンボジア方面へ侵攻した。翌年には講和条約が締結され、タイは、旧領を一部回復した。

1942年、日本と協定を結んで日本軍の通過を認め、イギリスおよびアメリカに宣戦布告した。一方、駐米大使セーニー・プラーモートは宣戦布告の通達を拒否し、アメリカと協力して抗日運動である自由タイ運動を組織した。アメリカは、タイ政府による宣戦布告を正式なものとして扱わず、自由タイ運動と協力関係を構築した。これにより、タイは戦後、敗戦国と同じ扱いを受けることを避ける上で有利な立場となった。

1944年、日本の敗色が濃厚となり、国民の批判を受けて、ピブーンソンクラームは首相を辞任した。1932年のクーデタに参加していた、非軍人のクアン・アパイウォンが第4代首相となった。

1945年、第二次世界大戦が終結した。

現代

1945年9月、セーニー・プラーモートが第6代首相となり、国号はシャムに戻った。

1946年、タイとイギリスは講和条約を結び、タイが日本との協力によって獲得したイギリス領を放棄した。さらに、1941年のフランスとタイ間の戦争でタイが日本の仲介により獲得したラオス・カンボジア方面の領土をフランスへ返還した。一方で、アメリカの外交的支援もあり、タイそのものを分割する処分は行われなかった。そして、タイは国際連合に加盟した。

1946年、プリーディー・パノムヨンが第8代首相となった。新憲法が制定され、上下両院制が採用された。また、ピブーンソンクラーム政権の民族主義から距離を置く意図もあり、国名が一時的にシャムに戻った。しかし、ラーマ8世が王宮で銃撃を受けて死亡する事件が起こった。プリーディーの政治的立場は悪化し首相を辞任した。ラーマ8世の弟がラーマ9世として即位した。

1947年末に軍部がクーデターを起こし、民主体制は崩壊した。1948年にピブーンソンクラームが戻り、第11代首相となった。周辺国では共産主義勢力が拡大したが、ピブーンソンクラームは反共産主義を掲げた。政権内ではサリット・タナラットが台頭した。また国号がタイに戻された。

1957年、選挙にて不正疑惑が発生し、ピブーンソンクラームへの批判が拡大。サリット・タナラットがクーデターを起こし、ピブーンソンクラームは失脚した。その後、短期政権を経て1958年にサリットは再びクーデタを起こした。その後、1959年に第14代首相に就任した。

1963年、サリットが死去した。タノーム・キッティカチョーンが第15代首相となり、体制を引き継いだ。

ベトナム戦争が激化すると、タイはアメリカの後方基地となった。

1973年、タノーム政権に対し学生・市民が大規模な抗議運動を起こし、タノームは国外へ退去した。国王によりサンヤー・タンマサックが第16代首相に任命され、議会政治が再開した。

1975年以降、ベトナムでは南ベトナムが崩壊し、ラオスではパテート・ラーオが政権を掌握し、カンボジアではクメール・ルージュが台頭するなど、共産主義勢力が台頭した。

1976年、タノーム元首相の帰国を契機として政治的緊張が高まり、学生・市民に対する大規模な弾圧事件が発生した。その直後、軍部がクーデターを起こした。背景には、周辺国での共産主義勢力の拡大があった。その後、タイでは軍政と民政が交互に現れる政治構造が定着した。憲法が制定されてもクーデターによって停止され、新しい憲法が作られるという循環が繰り返された。

1980年、プレーム・ティンスーラーノンが第22代首相となる。軍部の影響力を残しながらも、政党や王室を組み合わせた比較的安定した政治体制を形成し1988年まで政権を維持した。この頃、急速な経済成長を遂げ、工業化と都市化が進んだ。

1987年から1988年にかけて、ラオスとの間で領土をめぐり戦闘があった。

1991年、軍部がクーデターを起こした。しかし、その後民主化を求める運動が発生・拡大し、民政への移行が進んだ。その結果、1992年に議会政治が復活した。

1997年、タイバーツの急落を契機としてアジア通貨危機が発生した。

2001年、タイ愛国党が総選挙で勝利し、タクシン・チナワットが第31代首相となった。地方の農民や低所得層を重視した政策を行ったが、都市中間層や軍部の反発がもあり、2006、国外滞在中のタクシンに対して軍部のクーデタが発生し、政権は崩壊した。その後、タクシン派(赤シャツ)と反タクシン派(黄シャツ)が対立し、政治は分断された。

2008年、プレア・ヴィヒア寺院を巡り、カンボジアとの国境問題から、武力衝突が発生した。

2011年、インラック・シナワットが第36代首相に就任した。

2014年、プラユット・チャンオチャ率いる軍部がクーデタを起こし、プラユットは第37代首相となった。

2016年、ラーマ9世が死去し、ラーマ10世が即位した。

2017年、新憲法が制定され、軍部の政治的影響力を残す制度が構築された。

2023年、プラユット政権が退陣し、総選挙で改革派の前進党が最多議席を獲得した。しかし、前進党の党首は首相選出に必要な支持を得られなかった。その後、タイ貢献党が前進党を除外して保守派や軍系勢力で連立を組んだことで、セター・タウィーシンが第38代首相となった。

2024年、セターは憲法裁判所により失職し、タクシンの娘たるペートンタン・チナワットが第39代首相となった。

2025年7月、タイとカンボジアの国境問題に起因して、5日間にわたる戦闘に発展した。1904、1907年の国境画定に由来する複数の未確定地域が背景にある。マレーシア・アメリカ・中国などの仲介により停戦が成立した。

2025年、ペートンタン政権が崩壊した。その後、アヌティン・チャーンウィーラクーンが第40代首相となった。

2025年末、再びカンボジアと戦闘が起こり、その後停戦したが、国境問題は完全には解決していない。

おわりに

タイの歴史は、周辺の大国や王国との関係を変化させながら、自らの政治的な独立を維持してきた歴史である。

古代から中世にかけては、扶南やドヴァーラヴァティー、クメール王国などの勢力が現在のタイ地域に影響を及ぼした。その後、タイ系諸勢力が台頭し、スコータイ王国やラーンナー王国が成立した。14世紀に成立したアユタヤ王国は、周辺地域へ勢力を拡大するとともに、インド洋や東南アジアの交易に参加することで発展した。

しかし、18世紀にはビルマ人のコンバウン朝によってアユタヤが滅ぼされ、タイ地域はいったん分裂した。その後、タークシンによる再統一とトンブリー朝を経て、1782年にはチャクリー朝が成立した。バンコクを都としたチャクリー朝は、現在のタイ王国につながる国家の基盤を形成していった。

19世紀になると、イギリスとフランスが東南アジアへ進出し、シャムは両国の間に位置する国家となった。シャムはラオス、カンボジア、マレー半島など周辺地域の領土を相次いで失ったものの、外交と近代化を進めることで国家そのものの植民地化を回避した。この過程で形成された国境は、現在のタイと周辺諸国との国境問題にもつながっている。

20世紀には、1932年の立憲革命によって絶対王政から立憲君主制へ移行した。第二次世界大戦では日本と協力する一方、自由タイ運動が連合国側と協力するなど、複雑な外交を展開した。戦後は反共産主義を掲げてアメリカとの関係を強め、ベトナム戦争ではアメリカ軍の重要な後方拠点となった。

一方、国内では軍部によるクーデターと民政復帰が繰り返された。1973年の民主化運動、1976年の弾圧とクーデター、1991年のクーデターと1992年の民主化などを経て、タイでは軍部、王室、政党、都市部の市民、地方の住民など、さまざまな勢力が政治に関わる構造が形成された。

21世紀に入ると、タクシン・チナワットを支持する勢力と反対する勢力の対立が激化し、2006年と2014年には軍事クーデターが発生した。2023年の総選挙では改革派勢力が大きく躍進したものの、政権形成をめぐって複雑な政治交渉が行われ、その後も政権交代が続いている。

このように、タイの歴史は、単純に王朝が交代してきた歴史ではない。クメール、ビルマ、ラオス、フランス、イギリスなど周辺勢力との関係、交易を通じた国際交流、植民地化を避けるための外交、そして軍部・王室・政党・市民の間の政治的関係が重なり合うことで、現在のタイ国家が形成されてきた。

現在のタイを理解するためには、スコータイ王国やアユタヤ王国といった歴代王朝だけを見るのではなく、19世紀の近代化と外交、1932年の立憲革命、冷戦期の軍事政権、そして21世紀の政治的分断までを一つの歴史的な流れとして捉えることが重要である。

他の国については、こちらをご覧ください。

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