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世界史|マレーシア

世界史
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はじめに

マレーシアは、東南アジアに位置し、マレー半島とボルネオ島北部から構成される国である。その歴史は、インド洋と南シナ海を結ぶ海上交易の発展、マラッカ王国の繁栄、ポルトガルやオランダ、イギリスによる植民地支配、そして独立と国家形成という多様な過程を経て築かれてきた。

古代から中世にかけて、マレー半島ではインドや中国との交易を通じてヒンドゥー教や仏教などの文化が伝わり、各地に港市国家や地域的な王国が成立した。15世紀にはマラッカ王国が国際交易の重要拠点として発展し、イスラム教の普及とともに、マレー世界の政治・文化の中心地の一つとなった。

16世紀以降、ヨーロッパ列強が東南アジアへ進出すると、マラッカをはじめとする交易拠点は争奪の対象となった。19世紀にはイギリスがマレー半島の各地で影響力を強め、ボルネオ島北部でも植民地支配の体制が形成された。第二次世界大戦中には日本軍による占領を経験したが、戦後は独立に向けた動きが進み、1957年にマラヤ連邦が独立した。さらに1963年にはシンガポール、サバ、サラワクを加えてマレーシアが成立した。

独立後のマレーシアは、民族間の関係や経済格差、工業化、政党間の対立など、さまざまな課題に向き合いながら発展してきた。政権交代や汚職問題、周辺国との関係も、現代のマレーシアを理解するうえで重要な要素となっている。

本記事では、マレーシアの歴史を「古代」「中世」「近世」「近代」「現代」に分け、マラッカ王国の興亡からイギリスによる植民地支配、独立、マレーシア成立後の政治・経済の変化までを時系列で整理する。現在のマレーシアがどのように形成され、多民族・多宗教社会として発展してきたのか、その歴史的背景をたどっていく。

古代

紀元前後、マレー半島はインド洋と南シナ海を結ぶ海上交通路の一部となった。インド、東南アジア各地、中国などとの交易が行われ、沿岸部には港湾集落や小規模な政治勢力が形成された。インドからはヒンドゥー教や仏教、サンスクリット語などの文化的影響がもたらされた。

中世

7世紀以降、スマトラ島を拠点とするシュリーヴィジャヤ王国がマラッカ海峡周辺の海上交易を掌握し、マレー半島の沿岸地域にも影響力を及ぼした。

8~13世紀にかけて、マレー半島各地にはクランタン、トレンガヌ、パハン、ケダなどの地域的な政治勢力が存在した。

13世紀以降、シュリーヴィジャヤ王国は衰退し、マレー半島周辺では新たな政治勢力が台頭した。北方(タイ方面)ではスコータイ王国が成立し、その後アユタヤ王国が成立した。南方のジャワ島ではマジャパヒト王国が成立し、マレー半島周辺の政治勢力にも影響力を及ぼした。明への朝貢や使節の派遣は、港湾国家が交易上の利益を確保し、政治的地位を高めるための手段の一つとなった。

14世紀末、マラッカ王国が成立した。建国者パラメスワラはシュリーヴィジャヤ王国の系譜とされる。

15世紀初頭、明の鄭和が率いる艦隊がマラッカに来航した。マラッカ王国は国際貿易の重要拠点として発展し、インド洋交易に従事するイスラム商人の往来も活発になった。

15世紀前半、マラッカ王国の王統はイスラム化し、スルタン制を確立したとされる。マレー語が使用され、アラビア文字をもとにしたジャウィ文字が普及した。

近世

16世紀初頭、ポルトガルはインド洋航路を利用して東南アジアへ進出した。

1511年、ポルトガルがマラッカ王国を攻撃し、マラッカを占領した。スルタンのマムフード・シャーは退去し、マラッカ王国は滅亡した。ポルトガルはマラッカに要塞ア・ファモーサを建設した。

1528年、マムフード・シャーの息子アラウッディン・リアヤット・シャーは、マラッカ王国と血縁関係にあったパハン王国(現マレーシアのパハン州あたり)の助力を得てジョホール王国を建国した。また、西方ではマムフード・シャーの別の子がペラ王国(現マレーシアのペラ州あたり)を建国した。

16世紀後半以降、ジョホール王国は、ポルトガルやアチェ王国(スマトラ島北部)と対立し、地域覇権を巡って争った。

17世紀初頭、オランダが東南アジアに参入した。ジョホール王国は、マラッカからポルトガルを排除するため、オランダと協力した。

1620年代、ジョホール王国のスルタンがパハン王国の統治権も掌握するようになった。

1641年、ジョホール王国はオランダと協力してマラッカを攻略し、ポルトガルを駆逐した。マラッカはオランダの支配下に入った。

17世紀後半、ジョホール王国はジャンビ王国(スマトラ島南部)と対立した。こうした戦争や王位継承をめぐる争いを通じて、東方出身のブギス人の軍事的・政治的影響力が強まった。

1699年、スルタンのマフムード・シャー2世が暗殺され、ジョホール王家が断絶した。宰相を世襲していたアブドゥル・ジャリルがスルタンとして即位した。

18世紀初頭、マフムード・シャー2世の後継者を称するラジャ・クチルがジョホール王国の支配権を主張し、王位継承をめぐる争いが発生した。アブドゥル・ジャリルは死去したが、その子ラージャ・スライマーンはブギス人の支援を得てラジャ・クチルに対抗し、最終的にラジャ・クチルはジョホールから退いた(ラジャ・クチルはスマトラ島にシアク王国を建てた)。

1786年、ケダ王国(現マレーシアのケダ州あたり)はイギリスに対し、北方のシャム王国への警戒から、軍事支援と引換えにペナン島を割譲した。イギリスはプリンス・オブ・ウェールズ島と名付け、交易拠点として整備した。

近代

1812年、ジョホール王が死去した後、王位継承をめぐってフサイン(兄)とラーマン(弟)の間で対立が生じた。オランダは弟を支持し、弟が王位についた。

1819年、イギリス東インド会社のラッフルズは海上交通の要衝としてシンガポールに着目した。ラッフルズは、王位継承争いに介入し、兄フサインを支持する代わりに、シンガポールにイギリスの交易拠点を設けることについて合意した。

1824年、イギリスとオランダはロンドンにてジョホール王の関与なく英蘭条約を締結し、東南アジアにおける勢力圏の分割を進めた。これにより、マレー半島(シンガポールを含む)は主としてイギリスの勢力圏に、その東部のリアウ諸島やリンガ諸島などはオランダの勢力圏に組み込まれた。ジョホール王国はイギリスの影響下で存続した。また、イギリスは、スマトラ島のベンクル(現インドネシアのベンクル州)をオランダに譲り、引き換えにオランダからマラッカを得た。

1826年、イギリスはペナン、マラッカ、シンガポールのマレー半島西部諸都市を海峡植民地として統合し、イギリス領インドの管轄下に置かれた。一方、内陸のマレー諸州には各王国が存続していた。

1862年、アブ・バカルはジョホール王国の実権を握り(後スルタンとなった)、行政制度や経済の近代化を進めた。

1867年、海峡植民地はイギリス領インドの管轄から離れ、イギリス本国の直轄植民地となった。

1874年、イギリスはペラ王国(ペナンとマラッカの間に位置する)の内紛に介入し、条約によりペラ王国は宗教や文化の事項を除いてイギリス人理事官の助言を受け入れることになった。その後、イギリスはペナンとマラッカの間に位置するスランゴル王国、ヌグリ・スンビラン王国、これらの東方に位置するパハン王国へ介入し、各地のスルタンの統治権を形式上維持しながら、行政や財政への影響力を強めた。その背景には、マレー半島内陸部の錫鉱業の発展や、19世紀後半以降のや天然ゴム需要の拡大があった。鉱山や農園で働く労働者が中国やインドから多数移住し、マレー半島の民族構成は大きく変化した。

1884年、経済の拠点として、シンガポールの対岸にジョホールバルが開港した。

1895年、ジョホール王国で憲法が制定され、行政制度や統治機構の近代化が進められた。

同年、イギリスは、ペラ、スランゴル、ヌグリ・スンビラン及びパハンを統合する協定を成立させ、その後マレー連合州が発足した。クアラルンプールが中心となり、各州にスルタンが存続したものの、行政はイギリス人を中心とする統治機構の影響下に置かれた。一方、マレー半島北部のケダ、プルリス、クランタン及びトレンガヌの各王国は、当時シャム王国の影響下にあった。また、ジョホール王国も参加せず、独自の統治体制を維持した。

1909年、イギリスはシャム王国と条約を締結し、ケダ、プルリス、クランタン及びトレンガヌに対するシャム王国の権利・影響力はイギリスに移った。

1914年、ジョホール王国はイギリスの保護下に入った。これにより、マレー半島の主要なマレー諸州は、統治制度の違いを残りながらも、イギリスの支配体系に組み込まれた。

以上により、マレー半島のイギリス支配下の地域は、①直轄植民地としての海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)、②スルタンは存続するものの行政がイギリスの統制を強く受けるマレー連合州(ペラ、スランゴル、ヌグリ・スンビラン、パハン)、③スルタンは存続するものの間接統治となったマレー非連合州(ケダ、プルリス、クランタン、トレンガヌ、ジョホール)の3つに分かれた。

ボルネオ島の現マレーシア2州(サバ州、サラワク州)について

15~16世紀、現サバ州は、ブルネイ王国やスールー王国が沿岸部を中心に影響力を及ぼしていた。
19世紀後半、イギリス人実業家がブルネイ王やスールー王から統治権をめぐる権利を取得した。
1881年、イギリスの特許を受けた北ボルネオ会社が設立され、本格的な統治が開始した。

15~16世紀、現サラワク州はブルネイ王国の影響下にあった。
1830年代末から40年代初頭にかけて、サラワクで反乱が発生した。イギリス人冒険家のジェームズ・ブルックは反乱鎮圧に協力し、その後ブルネイのスルタンの承認を得てサラワクの統治者となった。以後、ブルック家がサラワクを統治した。

1941年12月、日本がマレー半島へ侵攻し、コタバル(現マレーシアのクランタン州北部)に上陸した。

1942年2月、日本が南下してマレー半島の大部分とシンガポールを占領した。ボルネオ島のサラワクやサバも占領を受けた。

1945年、日本の敗戦により、イギリスが統治を再開した。

現代

1946年4月1日、イギリスはマラヤ連合(国王はイギリス王ジョージ6世)を成立させた。マラヤ連合では、各州のスルタンの政治的権限が縮小され、比較的広範な市民権の付与が計画された。これに対してマレー人社会では、王権やマレー人の政治的地位が損なわれるとの反発が強まり、統一マレー国民組織(UMNO)が結成された。

1946年7月、サラワクの3代目ブルックは、サラワクをイギリスに割譲し、サラワクはイギリスの直轄植民地となった。

1948年2月1日、マラヤ連合に代わってマラヤ連邦(国王は引き続きイギリス王)が成立した。各州のスルタンの地位と権限が再び認められ、マレー人の政治的地位も制度上強化された。一方、イギリスの影響下で連邦政府が設けられ、立法機関として連邦立法評議会が置かれた。

1948年6月、マラヤ共産党(MCP)による武装闘争が激化したことに伴い、イギリスは全土に非常事態を宣言した。以後、政府と共産主義勢力の間で長期にわたる武力衝突が続いた。

1951年、トゥンク・アブドゥル・ラーマンがUMNOの党首に就任した。彼はケダ州の王族の出身で、法律を学んだ政治家であり、マラヤの独立運動を主導する中心人物となった。

1955年、連邦立法評議会の総選挙が行われ、UMNO、華人協会(MCA)、インド人会議(MIC)からなる政治連合が、議席の大半を獲得した。トゥンク・アブドゥル・ラーマンは主席大臣に就任し、自治拡大と独立に向けた交渉を進めた。

1956年、トゥンク・アブドゥル・ラーマン率いる代表団はロンドンで独立交渉を行い、独立が合意された。

1957年8月15日、独立に向けて憲法が制定され、立憲君主制と議会制民主主義を採用することが定められた。立憲君主制とは、9州の世襲統治者から国王を選出する独自の制度である。国王の任期は5年で、初代国王にはヌグリ・スンビラン州の統治者トゥアンク・アブドゥル・ラーマンが選出された。一方、旧海峡植民地のペナンとマラッカには世襲のスルタンが存在しないため、州の元首には別の制度が採用された。なお、憲法上連邦の宗教はイスラム教と定められているが、他宗教の信仰と実践も保障している。

1957年8月31日、マラヤ連邦はイギリスから独立した(イギリス連邦にはとどまった)。首都はクアラルンプールで、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが初代首相となった。シンガポールは、人口構成(中国系が人口の約3/4を占めた)等の問題や共産主義勢力への対応から、マラヤ連邦に参加せずイギリスの自治植民地にとどまった。

1959年、マラヤ連邦で独立後初の総選挙が行われ、UMNO、MCA、MICからなる政治連合が勝利した。

1961年、首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンは、マラヤ連邦とシンガポール、サバ、サラワク、ブルネイを統合して新国家マレーシアを成立させる構想を発表した。統合に向けて、ボルネオ島の住民の意向を調査するなど検討が進められた。

1963年、マラヤ、イギリス、シンガポール、イギリス領北ボルネオ(サバに改称)、サラワクの代表はマレーシア協定に署名した。ブルネイは政治的な対立等から最終的に参加しなかった。1963年9月16日、マラヤ連邦、シンガポール、サバ、サラワクからなるマレーシアが成立した。マレーシアの成立に対し、インドネシアのスカルノ政権は反発し、対立が発生した。特にボルネオ島の両国国境付近で武力対立が起きた。

1964年、マレーシア成立後初の総選挙が行われ、UMNO、MCA、MCIからなる政治連合が勝利した。一方、シンガポールのリー・クアンユーが率いる人民行動党(PAP)も参加し、華人の権利拡大を掲げてマレーシア全体における民族間の平等を訴えた。マレーシア成立後も、連邦政府とシンガポール州政府の間では、民族政策、経済政策などをめぐる対立が続いた。

1965年、マレーシア側からの分離決定により、8月7日に両者は分離協定に署名し、8月9日にシンガポールはマレーシアから分離して独立した。

1967年、インドネシア、タイ、フィリピン、シンガポールとともにASEANを結成した。

1969年、総選挙で野党が躍進した。選挙後、政治的緊張によりマレー人と華人の暴動(5・13暴動)が発生した。議会は一時停止され、トゥンク・アブドゥル・ラーマンは支持を失った。

1970年、アブドゥル・ラザクが第2代の首相となり、社会的安定と民族間の経済格差の是正を重要課題として掲げた。

1971年、政府は新経済政策(NEP)を導入した。貧困削減と、民族と経済活動との結びつきの是正を主な目標とし、ブミプトラ(マレー人及び先住民)の経済的地位の向上を図った。政府は支援を進め、農業・鉱業中心の経済から製造業を中心とする工業化への転換を促した。

1973年、与党勢力は、全マレーシア・イスラム党(PAS)や地方政党などを加え、国民戦線(BN:Barisan Nasional)を結成した。その背景には、民族間の協力と政治的安定を確保し、幅広い支持基盤を形成する狙いがあった。

1974年、クアラルンプールはスランゴール州から分離され連邦直轄領となり、首都機能が強化された。

1976年、アブドゥル・ラザクの死去を受け、フセイン・オンが第3代の首相となった。

1981年、フセイン・オンが退任(健康上の理由)し、マハティール・モハマドが第4代の首相となった。日本や韓国の工業化を参考に、製造業の振興、都市開発、インフラ整備を進めた。

1984年、ラブアン島はサバ州から分離され、連邦直轄領となった。金融・商業の拠点として整備し、ボルネオ島周辺における行政・経済上の役割を強化した。

1997年、アジア通貨危機が発生し、深刻な経済的影響を受けた。

1998年、ペトロナス・ツインタワーが完成した。

2001年、プトラジャヤをスランゴール州から分離し、連邦直轄領とした。行政機能を集約する計画都市として整備され、政府機関の移転が進められた。

2002年、国際司法裁判所は、マレーシアとインドネシアが領有権を主張していたリギタン島とシパダン島(いずれもサバ州東部)について、主権がマレーシアに属すると判決した。

2003年、マハティール・モハマドが首相を退任し(自発的)、アブドゥラ・アフマド・バダウィが第5代の首相となった。

2008年、総選挙が行われ、BIが政権を維持したものの、野党が議席を伸ばした。アブドゥラ・アフマド・バダウィの指導力は弱まり、翌年に首相を辞任した。

2009年、ナジブ・ラザクが第6代の首相となった。彼は第2代首相アブドゥル・ラザクの長男である。

同年、マレーシア政府は経済開発を目的とする政府系投資会社「1MDB」を設立した。その後、1MDBをめぐって総額45億米ドルもの資金流用やマネーロンダリングなどの不正が発覚し、国際的な汚職事件へと発展した。ナジブ・ラザクは事件に関連して刑事責任を問われ、本人は不正行為への関与を否定した。捜査や裁判をめぐっては、政府機関の独立性や政治権力による介入も大きな問題となった。

2013年、スールー王国を自称する武装勢力が、サバ州ラハダトゥ周辺に上陸した。マレーシア政府は軍事作戦を実施しこれを制圧した。この事件は、サバ州の領有権や、19世紀の契約に基づくとされるスールー側への支払いをめぐる問題を再燃させた。

2016年、マハティール・モハマドはナジブ政権を批判し、UMNOを離党した。同年、マレー人を中心とするマレーシア統一プリブミ党(PPBM)の結成に関与した。

2018年、総選挙が行われ、マハティール・モハマド率いる野党連合・希望連盟(PH)が勝利した。マレーシア成立後初の政権交代が実現し、マハティール(当時92歳)が第7代の首相となった。

2020年、PH内部の対立から、マハティール・モハマドは首相を辞任した。

同年3月、PPBMのムヒディン・ヤシンが第8代の首相となりコロナ対策や経済対策に取り組んだ。

同年5月、アンワル・イブラヒムは、PHを率いる中心人物として野党勢力の再編と政権奪還を目指した。

2021年、議会運営をめぐる対立や与党内の支持基盤の弱体化が進み、ムヒディン・ヤシンは辞任した。BNの中心政党であるUMNOに所属するイスマイル・サブリ・ヤアコブが第9代の首相となった。

2022年、総選挙が行われたが、いずれの政党連合も単独で過半数の議席を獲得できなかった。最多議席を獲得したPHを率いるアンワル・イブラヒムは、他の政党との連立交渉を経て、第10代首相となった。

2026年現在、アンワル・イブラヒムがマレーシアの首相を務めている。

おわりに

マレーシアの歴史は、海上交易による繁栄、地域王国の興亡、ヨーロッパ列強による植民地支配、そして独立と国家形成という大きな変化の連続であった。

マラッカ王国の発展は、マレー半島がインド洋と南シナ海を結ぶ交易の要衝であったことを示している。その後、ポルトガル、オランダ、イギリスが相次いで進出し、各地の王国は対立や協力を繰り返しながら、その政治的・経済的な影響を受けた。19世紀以降のイギリス支配は、行政制度や経済構造だけでなく、中国やインドからの移住を通じて、現在につながる多民族社会の形成にも大きな影響を与えた。

第二次世界大戦後、独立運動が進展し、1957年にマラヤ連邦が独立した。1963年にはサバとサラワクなどを加えてマレーシアが成立したが、その後もシンガポールの分離独立、民族間の経済格差、経済危機、政治腐敗、政権交代など、さまざまな課題に直面してきた。

現代のマレーシアは、マレー系を中心としながら、中国系、インド系、ボルネオ島の先住民など、多様な人々が暮らす国家である。こうした社会の特徴や政治制度、経済発展の背景には、交易や宗教の伝播、植民地支配、独立後の国家政策といった歴史的な経緯が深く関係している。

マレーシアの歩みを振り返ることは、現在の国家の成り立ちを理解するだけでなく、東南アジアにおける民族・宗教・文化の多様性や、植民地支配が現代社会に残した影響を考える手がかりにもなる。本記事が、マレーシアの歴史を古代から現代まで体系的に理解する一助となれば幸いである。

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