はじめに
東南アジアの島嶼部に位置するフィリピン共和国は、ルソン島、ビサヤ諸島、ミンダナオ島など7,000以上の島々から構成される国家である。古代から中世にかけては、各地の港市や島々を拠点とする小規模な政治共同体や海洋王国が栄え、南部ではイスラム教が広がるなど、地域ごとに異なる政治的・宗教的伝統が形成された。
16世紀になると、スペインが進出し、1565年にセブ島、1571年にマニラを拠点として植民地支配を確立した。スペイン統治下ではキリスト教の布教が進み、マニラはアジアとメキシコを結ぶガレオン貿易の拠点として発展した。一方、南部のミンダナオ島やスールー諸島ではイスラム教徒の王国が存続し、スペインによる支配に抵抗した。
19世紀後半になると、ホセ・リサールらによる民族主義運動が活発化し、1896年にはカティプナンを中心とするフィリピン革命が始まった。1898年にはアギナルドが独立を宣言したものの、米西戦争の結果、スペインからアメリカへ統治権が移り、フィリピンは新たな植民地支配を受けることとなった。その後、米比戦争や自治制度の整備を経て、1935年にはフィリピン・コモンウェルスが成立した。
第二次世界大戦では日本軍による占領を経験したが、1946年にアメリカから独立を達成した。独立後は、フクバラハップによる反政府運動や共産主義勢力との対立、マルコス政権による戒厳令と独裁体制、1986年のエドゥサ革命による民主化など、政治的な変動が続いた。また、南部ではイスラム教徒による自治・独立運動が長く続き、政府との和平交渉を通じて自治制度の整備が進められてきた。
21世紀に入ると、ミンダナオの和平問題に加え、中国との南シナ海をめぐる領有権問題や、国内の政治勢力間の対立が重要な課題となっている。本記事では、古代の港市や海洋王国からマギンダナオ王国、スペイン・アメリカによる植民地支配、独立革命、第二次世界大戦、独立後の政治変動、マルコス政権と民主化、そしてバンサモロ自治政府の成立に至るまで、フィリピンの歴史を時代ごとに整理して解説する。
古代・中世
中央集権的な単一国家ではなく、各地の港や島々を拠点とした小規模な自治共同体や海洋王国が栄えた。
近世
16世紀初頭、南部のミンダナオ島では、ジョホール(現マレーシア)出身者がマギンダナオ族と婚姻を結んでマギンダナオ王国の王となった。これに伴い、イスラム教の布教が進んだ。マギンダナオ王国はミンダナオ川流域を基盤として勢力を拡大した。
1521年、マゼランがスペイン隊を率いて太平洋を経由してフィリピンに到達した。セブ島周辺で現地の支配者と接触し、一部の支配者や住民がキリスト教に改宗した。
1565年、レガスピ率いるスペイン隊がセブ島に拠点を築いた。スペインは北部のルソン島や中部のビサヤ諸島に支配領域を広げた。
1571年、スペインはマニラを占領し、植民地統治の中心とした。スペインはマニラを通じてアジア産品をメキシコへ運び、メキシコから銀などをアジアへ流通させた。城塞都市マニラには、内側にスペイン人が、外側に中華系や先住民が暮らしていた。
1619年、マギンダナオ王国のスルタンとなったクダラットはマギンダナオ王国の勢力を拡大し、ミンダナオ島南西部を中心にスペインに対抗した。オランダとも協力関係を結び、スペインの進出に抵抗した。
近代
1872年、カビテ(マニラ近郊)で軍人や労働者らによる反乱が起き、スペインは反乱を鎮圧した。この事件は民族主義運動に影響を与えた。
1876年、スペインはスールー王国の首都ホロを占領した。その後、スールー王国はスペイン領フィリピンに包摂された。なお、スールー王国のスルタンは存続した。
1880年代以降、ホセ・リサールらは、新聞や著作を通じて植民地支配の問題を批判した。
1892年、ホセ・リサールはラ・リガ・フィリピナを結成した。平和的な組織として結成されたが、スペイン当局はすぐさまホセ・リサールを逮捕した。その後、残ったラ・リガ・フィリピンのメンバーであったボニファシオを中心としてカティナプン(KKK)を結成し、急進的な独立運動を進めた。
1895年、ルソン島南部の町長を務めていたアギナルドは、KKKに参加した。
1896年、カティプナンは武装蜂起を行い、フィリピン革命が始まった。ホセ・リサールは革命への関与を否定していたが、12月に処刑された。 その後も、KKKにとって厳しい戦況が続いた。
1897年5月、KKKの内紛においてアギナルドが勝利し、敗北したボニファシオは処刑された。
同年12月、アギナルドはスペインと和平協定を締結し、取り決めに従い、アギナルドらKKK幹部は補償金を受け取って香港へ亡命した。その代わり、スペインは植民地の改革を約束した。
1898年4月、スペイン領キューバをめぐり米西戦争が勃発すると、戦線はアジアに広がった。アメリカはマニラ湾で海戦にてスペインを破った。
同年5月、アギナルドはアメリカ側と通じ、香港からフィリピンに戻り、フィリピン独立革命を再開した。
同年6月12日、アギナルド率いる革命政府は独立を宣言した。
同年8月、アメリカはスペインからマニラを奪い、これを占領した。アメリカは、革命政府をマニラに入れなかった。
同年12月、パリ条約にて、スペインはアメリカに対し、フィリピンを割譲した。アメリカは、フィリピンの独立を認めず、植民地とした。アギナルドはすでに独立を宣言しており、アメリカによる統治を受け入れなかった。そのため、米比戦争へと発展したが、フィリピン共和国は劣勢だった。
1900年、アメリカによりフィリピン委員会が設置され、行政・司法・教育などの制度が再編された。
1901年3月、アギナルドはアメリカに捕らえられ、米比戦争はアメリカの勝利に終わった。
1902年7月、アメリカ議会はフィリピン自治法を制定した。フィリピン委員会が上院としての役割を担い、選挙で選ばれるフィリピン議会が下院として新たに設置された。
1903年、アメリカは南部のイスラム地域を統治下に置くため、特別行政区としてフィリピン南部にモロ州を設置した。1903年から1913年にかけて、モロ族の抵抗運動が起きたが、最終的にアメリカにより軍事的に制圧された。
1907年、初めての選挙が行われた。第1党は早期独立を目指す国民党となった。セルヒオ・オスメニャやマヌエル・ケソンが要職についた。 もっとも、フィリピン委員会はアメリカ側が主導しており、植民地統治の根幹に関わる事項はアメリカが決定していた。
1915年、スールー王国のスルタンは宗教的権限を除いた権限をアメリカに譲り、スールー王国は事実上滅亡した。
1916年、アメリカ議会におけるフィリピン自治法において、フィリピンの将来的な独立が明示された。また、フィリピン委員会を廃止し、選挙で構成される上院と下院からなる二院制の議会を設置した。
1930年、ソ連を参考に、フィリピン共産党(PKP)が設立された。
1933年、アメリカ議会の法において、一定期間の移行を経てフィリピンを独立させる構想が示された。しかし、フィリピン議会は、条件に難色を示し、法案を受容しなかった。
1934年、アメリカ議会において、再度法が成立し、独立までの移行期間を10年と定めた。また、フィリピンが独自の憲法を制定し、自治政府を組織することが認められた。
1935年、フィリピン憲法が制定され、自治政府としてのフィリピン・コモンウェルスが成立した。大統領にはマヌエル・ケソン、副大統領にはセルヒオ・オスメニャが就任した。憲法は共和制と規定し、一院制の国民議会が開設され、大統領と副大統領が置かれた。
1940年、憲法改正により、議会は二院制となった。
1941年12月、日本はフィリピンへの攻撃を開始した。その後、マニラは占領され、傀儡政権が樹立された。日本に対し、抗日ゲリラ組織のフクバラハップはPKPの指導のもとルソン島の農民を中心とする武装闘争を行った。
1944年、大統領のマヌエル・ケソンは病気により死去した。セルヒオ・オスメニャが大統領となった。
1945年、連合軍が主要地域を奪回し、フィリピン・コモンウェルスは統治を再開した。
現代
1946年1月、国民党内でのセルヒオ・オスメニャと上院議員マヌエル・ロハスの争いから、マヌエル・ロハスは離党して自由党を結成した。
同年4月、大統領選挙が行われ、マヌエル・ロハスがセルヒオ・オスメニャを破って大統領に就いた。
同年7月4日、アメリカはフィリピンの独立を正式に承認し、主権を移譲した。これにより、フィリピン共和国が成立した。首都はマニラ。ただし、南部のイスラム教地域では、独自の政治的伝統や土地制度をめぐる問題が残った。
1948年、マヌエル・ロハスが死去した。そのため、副大統領のエルピディオ・キリノ(自由党)が大統領となった。1949年、キリノは大統領選挙に勝利した。
1940年代後半から1950年代にかけて、ルソン島を中心にフクバラハップを中心とする反政府武装運動が続いており、政府は鎮圧を進めた。
1953年、大統領選挙が行われ、国民党から出馬したラモン・マグサイサイが、自由党のキリノを破った。マグサイサイは、反共姿勢に基づき、国防大臣としてフクバラハップを壊滅させ、またPKPを弱体化させた。
1957年、マグサイサイは飛行機事故により死去した。副大統領のカルロス・ガルシアが大統領となり、同年の大統領選挙で当選した。
1961年、大統領選挙において自由党のディオスダト・マカパガルがカルロス・ガルシアを破り当選した。
1965年、大統領選挙に際し、ディオスダト・マカパガルが自由党の大統領候補となった。これに対し、自由党の有力議員フェルディナンド・マルコスは約束違反であるとして国民党に入り、その大統領候補となった。その後、大統領選挙でマルコスはマカパガルを破り、大統領となった。
1969年、マルコスは大統領選挙において再選を果たした。
1960年代、フィリピンは都市化や経済成長が進む一方、土地所有の偏りや農村部の貧困が政治問題となった。
土地所有の偏りについて。政府は北中部のルソン島やビサヤ諸島から南部のミンダナオ島への移住を推進した。その結果、土地や政治的代表をめぐる対立が激化した。先住のイスラム教徒の自治要求が強まり、1972年にモロ民族解放戦線(MNLF)が結成された。
農村部の貧困について。1968年、中ソ対立を背景として、ソ連寄りのPKPから、中国寄りのフィリピン共産党(CPP)が分離し、農村部を拠点に活動を積極化した。親米・反共産主義を掲げるマルコス政権は、CPPを弾圧した。1972年、マルコスは、共産主義勢力や南部武装勢力への対応を理由として、全土に戒厳令を布告して憲法機能を停止した。これにより、マルコスは憲法上の任期期間の制限から解放された。また、戒厳令に伴い、自由党のベニグノ・アキノを含む反政府の人物を逮捕した。
1973年、新憲法により議院内閣制的な制度が導入され、一院制の国民議会が設置された。しかし、マルコスはなお大統領として従来の権限を保持し、独裁体制を敷いた。
1976年、リビア(カダフィ政権)などの仲介によりトリポリ協定が締結され、マルコス政権とMNLFは休戦し、南部のイスラム教徒には一定の自治が認められた。しかし、協定に反発するMNLFの強硬派は、モロ・イスラム解放戦線(MILF)として分離した。
1978年、マルコスは国民党を基礎にして新社会運動党(KBL)を結成し、自身の支持者を取り込んで独裁体制を強化した。
同年、戒厳令のもとで初となる選挙を行い、KBLが圧勝した。
1980年、マルコス政権は自由党の指導者となっていたベニグノ・アキノは病気の手術のためアメリカに渡航した。
1983年、帰国したベニグノ・アキノはマニラ国際空港で暗殺された。この事件を契機として反政府運動が全土へ拡大した。
1986年2月初頭、大統領選挙の結果、野党連合の統一国民民主組織に属する、コラソン・アキノ(亡ベニグノ・アキノの配偶者)が勝利したが、不正にマルコスの勝利とされた。これに反発した、軍の一部(フィデル・ラモス他)や多数の市民が革命を起こし、コラソン・アキノは大統領に就任することを宣言した。同月末、マルコスはハワイへ亡命した。
1987年、新憲法が制定され、議会制民主主義、基本的人権、地方自治などの制度が再整備された。大統領の任期は6年とされ、再選は禁止された。首相は廃止された。二大政党制への反省から、複数政党の存在を容認・推奨する方針が示された。
1989年、マルコスはハワイにて死去した。
1989年、法律に基づき、イスラム教徒ミンダナオ自治地域(ARMM)が設置された。イスラム教徒が多い地域に一定の行政権限を認めるものだった。
1991年、マルコス一家のフィリピン帰国が許可された。
1992年、コラソン・アキノは任期満了を迎え、フィデル・ラモスを次期大統領に指名した。ラモスは所属政党の公認を得られず、キリスト教系の新党ラカスを結党して大統領選挙に勝利した。
1996年、トリポリ和平協定(1976年)の完全実施に向け、政府とMNLFの間で最終和平合意が結ばれた。これによりMNLFの武装闘争は縮小し、自治制度の拡充が進められた。ただし、MNLFとは異なる立場を取るMILFとの和平交渉は継続した。
1998年、元俳優のジョセフ・エストラダが大統領となった。
2000年、政府はMILFに対して大規模な軍事作戦を実施した。
2001年、ジョセフ・エストラダは腐敗を受けて弾劾訴追を受けたその後、エストラダは大統領を退任した。
2001年、ラカスに所属するグロリア・マカパガル・アロヨ副大統領が大統領となった。彼女の父は、1965年に大統領となったディオスダト・マカパガル。
2003年、政府とMILFの間で停戦が合意された。アロヨ政権が和平交渉を進めたことによる成果であった。
2004年、アロヨは正式に大統領選挙に当選を果たした。
2008年、政府とMILFはイスラム教徒の自治権を拡大することに合意した。しかし、最終的に白紙撤回となり、ミンダナオ島等で大規模な武力衝突が起きた。
2010年、自由党から出たベニグノ・アキノ3世が大統領選挙に勝利した。彼はベニグノ・アキノと元大統領コラソン・アキノを父母にもつ。
2012年、政府とMILFは枠組み合意に達し、その後包括和平合意に署名した。これに基づき、アキノ政権下において、従来のARMMより大きな権限を持つイスラム教徒の自治政府(バンサモロ)の設置が進められた。しかし、死傷事件が起き、アキノ大統領の在任中の実現は見送られた。
2016年6月、フィリピン民主党・国民の力から出たロドリゴ・ドゥテルテが大統領選挙に勝利した。彼は、ミンダナオ島のダバオ市長を務めて治安を回復させた経験を持っており、ミンダナオ島出身で初の大統領となった。バンサモロ基本法の可決を公約に掲げたほか、麻薬の厳しい取り締まりを進めた(取締り手法により、国際刑事裁判所の捜査対象となった)。
なお、副大統領選挙には、マルコスの子フェルディナンド・マルコス・ジュニア(ボンボン・マルコス)が出馬していたが、敗北している。
2016年7月、フィリピンの提訴により、仲裁裁判所は、中国が主張する「九段線」に国際法上の根拠はないとしてスカボロー礁などの権利主張を退けた。しかし、ドゥテルテ大統領は米国と距離をとる外交を進め、先の仲裁判断を棚上げにして中国に接近した。
2018年、バンサモロ基本法が成立した。
2019年、バンサモロ・ムスリム・ミンダナオ自治地域(BARMM)が発足した。住民投票を経て、その対象地域が定められた。構成する州は、マギンダナオ島の南ラナオ州およびマギンダナオ州、バシラン島を中心としたバシラン州、スールー島を中心としたスールー州、タウイタウイ島を中心としたタウイタウイ州の5州。なお、スールー州は住民投票にて不参加票が参加票を上回っていたが、最終的にBARMMに組み込まれた。
2022年5月、ボンボン・マルコスが大統領選挙に勝利した。副大統領選にはロドリゴ・ドゥテルテの娘サラ・ドゥテルテが勝利した。両者は協力関係にあったが、後に関係が破綻した。
ボンボン・マルコスは南シナ海における中国の威圧的行動を国際社会に訴えかけ、中国との関係は冷え込んだ。
2022年9月、BARMMの構成州たるマギンダナオ州での住民投票の結果、マギンダナオ州は北マギンダナオ州と南マギンダナオ州に分離した。
2024年、スールー州をBARMMに組み込んだ2019年の手続きは憲法違反であると最高裁判所が判断し、スールー州はBARMMから離脱してサンボアンガ半島地方に組み込まれた。
2026年現在、ボンボン・マルコスが大統領である。副大統領のサラ・ドゥテルテは、2028年の次期大統領選挙への立候補を表明している。
おわりに
フィリピンの歴史は、島々に分かれた多様な政治共同体が、外国勢力との交流や植民地支配、独立運動を経て、現在の国家へと形成されてきた歴史である。
古代から中世にかけては、各地の港市や海洋王国が交易を通じて発展し、地域ごとに異なる政治的・宗教的伝統が形成された。南部ではイスラム教が広がり、マギンダナオ王国やスールー王国などのイスラム王国が成立した。一方、16世紀にはスペインが進出し、マニラを中心として植民地支配を確立した。キリスト教の普及やガレオン貿易を通じて、フィリピンはスペイン帝国のアジアにおける重要な拠点となった。
19世紀後半には、リサールらによる民族主義運動が高まり、1896年にはカティプナンを中心とするフィリピン革命が始まった。1898年にはアギナルドが独立を宣言したものの、米西戦争の結果、スペインからアメリカへ統治権が移り、米比戦争が発生した。その後、アメリカ統治下で自治制度が整備され、第二次世界大戦中の日本軍による占領を経て、1946年にフィリピン共和国として独立を達成した。
独立後は、フクバラハップなどの反政府武装運動や共産主義勢力との対立が続いた。1965年に大統領となったマルコスは、1972年に戒厳令を布告し、権力を集中させて長期政権を築いた。しかし、1983年のベニグノ・アキノ暗殺を契機に反政府運動が拡大し、1986年のエドゥサ革命によってマルコス政権は崩壊した。その後、新憲法の制定を通じて民主主義体制の再建が進められた。
一方、南部のミンダナオ島やスールー諸島では、スペイン統治時代から続くイスラム教徒の政治的・社会的な独自性を背景として、中央政府との対立が続いた。MNLFやMILFによる武装闘争を経て、自治制度の整備と和平交渉が進められ、2019年にはバンサモロ・ムスリム・ミンダナオ自治地域(BARMM)が発足した。これは、フィリピン国家の統合と南部イスラム教徒の自治を両立させるための重要な取り組みである。
21世紀のフィリピンでは、民主主義体制のもとで政権交代が続く一方、政治的な対立、貧困や地域格差、南部の和平問題などが残されている。また、南シナ海では中国との対立が続き、アメリカとの安全保障関係も外交上の重要な課題となっている。
このように、フィリピンの歴史は、スペインとアメリカによる植民地支配からの独立だけでなく、島々に根付いた多様な政治的・宗教的伝統と、中央政府による国家統合との関係をめぐる歴史でもある。現在のフィリピンを理解するためには、植民地支配と独立運動だけでなく、マルコス政権下の独裁と民主化、そしてミンダナオの自治・和平問題までを一つの歴史的な流れとして捉えることが重要である。
他の国については、こちらをご覧ください。

