はじめに
ベトナムは、中国による約1000年に及ぶ支配、独立王朝の成立と南進、フランス植民地支配、そしてベトナム戦争を経て、現在のベトナム社会主義共和国へと至った国です。その歴史は、外部勢力との戦いや支配を受けながらも独立を維持・回復し続けた歩みであると同時に、中国・インド・西洋など多様な文化を取り入れて独自の国家を形成してきた過程でもあります。
本記事では、古代から現代までのベトナム史を時代ごとに整理し、それぞれの王朝の興亡や領土の拡大、植民地支配、独立運動、社会主義国家の成立、そしてドイモイ改革以後の発展までを、できるだけ流れがわかるように解説します。
データ
| 首都 | ハノイ |
| 宗教 | 仏教 |
| 公用語 | ベトナム語 |
歴史
古代
前3世紀中頃、蜀王が王朝を建て、甌雒(おうらく)を成立させた。首都は現在のハノイ市近郊である。
前3世紀末、秦の将軍趙佗が中国南部と北ベトナムを合わせて南越国を建国した。
前2世紀末、漢の武帝が南越を滅ぼした。ここから約1000年、前漢、後漢、呉、晋、南朝、隋、唐といった中国王朝の支配を受けた。この時代に漢字や儒教、仏教、科挙制度、官僚制度などが導入された。
一方、中部では192年頃、区連(チャム人とされる)が漢(日南郡)の支配に対して反乱を起こし、独立政権を築いたとされる。チャンパ王国の初代王とされる。
チャンパ王国は統一された国民国家というよりは、複数の地域政治体のネットワークであった。そのため、王朝が交代してもチャンパ王国としては長く存続した。
4世紀から13世紀にかけてインド文化を受容し、ミーソン(現在のダナン市のミーソン遺跡)はチャム諸部族を統合した王の宗教・政治的中心となった。宗教としては、特にヒンドゥー教のシヴァ神信仰が広まった。
中世
唐が滅亡した907年、中国は五代十国時代に入った。ベトナム北部は、唐の安南都護府として支配されていたが、唐の崩壊後は現地の有力豪族(キン人)が実権を握っていた。
938年、中国南部の南漢が、旧唐領の安南を再び支配下に置こうと侵攻した。現地豪族の呉権は、白藤江(現ベトナムのハイフォン市付近)で南漢を撃退し、939年に呉朝を樹立し王となった。しかし、944年に呉権が死去し、後継者争いが起こった。965年頃、中央政府が崩壊した。
968年、丁部領(キン人)が全国を統一し、首都を防御に優れたホアルー(現ニンビン省の省都)に置き、自ら皇帝を名乗り、国号を大瞿越とした。中央集権化を進め、統一国家の枠組みを確立した。
979年、丁部領と皇太子が暗殺され、後継者として6歳の子が即位するが、実権は将軍の黎桓が握った。この状況に乗じて、宋はベトナムへの軍事介入を計画した。
980年、宋の侵攻に備えるため、黎桓が皇帝に即位し、前黎朝が成立した。981年、黎桓は宋の侵攻を撃退し、国家体制をさらに整備した。982年、黎桓は宋との戦争の際にチャンパがベトナムに協力しなかったこと等を理由として南のチャンパ王国へ遠征を行い、これに勝利したが、領土の割譲はなかった。1005年に黎桓が死去すると皇位争いが起きた、王朝は弱体化した。内戦に勝利した皇帝も1009年に死去した。
このとき、幼い後継者しか残されておらず、宮廷の官僚や宗教関係者(仏教)は、近衛軍を率いる李公蘊を新たな皇帝に推戴し、李朝が成立した。李朝は1010年、都を昇龍(タンロン:現ハノイ)に移した。仏教を保護したほか、中央官僚制、地方行政制度、軍隊、税制及び法制度等を整え、中央集権を強化して地方豪族の独立性を抑制した。
1044年には、李朝が南のチャンパ王国へ遠征した。
次代の1054年には国号が大瞿越から大越に変更された。
1069年、再度チャンパ王国に侵攻し、ベトナム中部(現クアンチ省あたり)を得た。
また、中央集権国家の発展にともない儒教も重要になり、1075年には科挙が実施された。
1077年には李朝に宋が侵攻するも、これを撃退した。
1177年、チャンパ王国はクメール王国と交戦した。
12世紀後半になると李朝は次第に衰退する。各地の有力者が軍事力を持つようになり、朝廷は国内の反乱を抑えることが難しくなった。
1210年、李恵宗が即位した。この時期に急速に勢力を伸ばした陳守度は軍事・政治の実権を掌握した。李恵宗が1224年にまだ幼い娘の李昭皇に譲位すると、陳守度は、李昭皇と一族の陳煚を結婚させた。そして、李昭皇は陳煚に譲位し、1225年に陳煚が即位して陳朝が成立した。
陳朝では皇帝が若くて退位し太上皇となって後継者を指導する制度が発達した。これにより安定した王位継承を実現し、陳氏一族による王朝支配を強化した。また、仏教の発展、儒教の普及、字喃(チュノム)の発展に貢献した。
13世紀半ば、モンゴル帝国は南宋を攻撃した。そして1257年以降モンゴル軍が陳朝へ侵攻した。モンゴル軍は首都昇龍を占領したが、陳朝は持久戦を展開し、最終的に補給が不足したモンゴル軍を撃退した。
モンゴル勢力により元が成立すると、1285年、元軍が再び大規模な侵攻を開始した。昇龍は再び占領されたが、持久戦を続け、これを撃退した。これにはチャンパ王国も協力した。
1287年、元は最後の大規模侵攻を開始したが、陳朝はこれも破った。
1306年には、元の脅威が後退した後も関係を維持・強化するため、チャンパ王が陳朝の皇女と婚姻した。婚姻条件として北部(現フエ市あたり)は陳朝へ割譲された。
翌1307年、婚姻からわずか1年後にチャンパ王が死去した。後継のチャンパ王は、先代が割譲した領土を受け入れず、両国関係は再び悪化し、最終的には軍事衝突に至った。
14世紀後半になると、チャンパ王国が強大化し陳朝に侵攻を繰り返した。1383年には昇龍が攻撃を受けるなど、陳朝は危機に直面した。
この混乱の中で陳朝の有力官僚たる胡季犛が台頭した。皇族との婚姻関係を持ち、勢力を拡大した。1397年には首都を昇龍から新たに建設した西都(現タインホア省)へ移転させ、1398年には陳の皇帝を退位させ、その子を皇帝に即位させた。そして1400年、胡季犛はその皇帝をも退位させ、自ら皇帝として胡朝を開き、国号を大越から大虞へ変更した。
しかし、明の永楽帝は、陳朝の王統を利用してベトナムへの介入を強め、1406年には侵攻した。胡季犛は捉えられ、1407年に胡朝は滅亡した。明はベトナムを行政区として編入した。
近世
黎利は現タインホア省の地域の有力者だった。1418年、藍山(現タインホア省)で反乱を開始した。1427年、明を破りこれをベトナムから撤退させた。1428年、黎利は即位して、後黎朝を建国した。都は引き続き昇龍に置かれた。
1460年に即位した黎聖宗は、1471年にチャンパ王国に遠征し、首都ヴィジャヤ(現ザライ省あたり)を攻略して現在のベトナム中部の大部分を支配下に置いた。チャンパ王国は現在のカインホア州及びラムドン州あたりのみを支配する小規模の勢力となった。1497年、黎聖宗が死去した。
その後、皇帝の早逝や皇位継承の不安定化、地方反乱、軍閥化により後黎朝は崩壊に向かった。
この混乱の過程で軍人出身の莫登庸が台頭し、1527年には自ら皇帝となり莫朝を成立させた。しかし、黎朝の正統性を支持する復興勢力は抵抗を続け、1533年には皇帝を擁立して黎朝を復興させた。これ以後、ベトナム北部では莫朝と黎朝が正統性を争う内戦が続いた。
復興勢力の中心となったのは、当初は阮淦らの有力者であった。阮淦の死去後は娘婿の鄭検がその軍事的地位を継承した。鄭氏は莫朝と戦い、1560年代以降、莫朝の支配地域を次第に縮小させた。
一方、阮淦の子である阮潢は、鄭検との権力闘争を避けるため、16世紀中頃に中部(現フエ市あたり)に派遣された。阮潢はその後、南下して現ダナン市あたりも統治下に置き、独自の勢力を形成した。阮氏はチャンパ王国の弱体化に乗じて南方へ勢力を拡大した。
1592年、黎氏を支持する勢力が昇龍を奪回して後黎朝は復活した。しかし、その内部では、北部を鄭氏、南部を阮氏が支配し、名目上の皇帝として黎氏が存在するという二重構造が成立した。
17世紀、鄭氏と阮氏は戦争を繰り返したが決着がつかず、両勢力の境界はザン川(現クアンチ省)に固定化された。
古来から、プレイ・ノコール(現ホーチミン市あたり)はクメール王国(クメール人)の支配下にあった。17世紀になると、鄭氏と阮氏の対立もあり北部からの移住が増加した。1698年、プレイ・ノコールは阮氏により併合された(当時の地域名はザーディン、中心都市名はサイゴン)。その後も阮氏は南進し、18世紀半ばまでにほぼ現在のベトナム領へ到達した。
1771年、当時の阮氏の君主は幼く、実権は外戚が握っていた。阮岳、阮恵、阮侶の三兄弟は、西山(現ザライ省あたり)で、腐敗に対抗するため蜂起し、阮氏と交戦した。これに乗じて鄭氏が南下し阮氏の本拠地フエ(現フエ市)を占領した。鄭氏のもとで反乱勢力は南部の阮氏を攻撃し、1777年には阮氏を滅ぼした。唯一生き残った阮福映はシャム(タイ)に援助を求めたが、1785年に反乱勢力がシャム軍を撃破した。翌1786年、反乱勢力は北へ進軍し鄭氏を打倒した。黎愍帝は清に援助を求め、清の乾隆帝は軍を派遣し1788年末に昇龍を占領する。阮恵はフエで皇帝に即位し、光中帝と名乗り、
1789年には清を撃破して後黎朝は滅亡させた。
近代
1792年、光中帝が死去した。息子が即位するも、まだ若く、父親ほどの政治的・軍事的能力はなかった。その結果、西山朝では、皇族間の対立や将軍間の権力闘争、地方統治の不安定化が進行した。
阮福映は南部で徐々に勢力を回復して北上した。その背景には、フランス人宣教師の支援があった。
1801年、西山朝の首都フエを攻略した。1802年、西山朝を滅ぼし、阮福映は皇帝に即位して嘉隆帝を名乗り、阮朝(首都はフエ)を建国した。北部から南部までを一つの皇帝の下に統合した点は特筆すべきである。皇帝は数十年にわたる内戦で荒廃した国家を再建することに努めた。
1804年、清朝との関係の中で国号を越南(Việt Nam)とすることが認められた。
1820年、嘉隆帝が死去すると、息子の明命帝が即位して行政の中央集権化を進めた。また、キリスト教は儒教的な国家秩序を破壊する可能性があるとして、宣教師やキリスト教徒への弾圧が強まった。1832年、阮朝はチャンパ王国の政権を廃止し、自国の行政制度に組み込んだ。1839年、国号を、南方の大国を意味する大南(Đại Nam)に変更した。
1841年、明命帝が死去すると、息子の紹治帝が即位し、父の政策を継承した。
1847年、紹治帝が死去すると、息子の嗣徳帝が即位し、父の政策を継承した。その頃、フランスではベトナムにおけるキリスト教宣教師への弾圧が問題視されていた。また、19世紀半ば、イギリスがインドやビルマ、マレー半島へ勢力を拡大していたことから、フランス(ナポレオン3世)は、イギリスに対抗して東南アジアに自らの勢力圏を構築する必要があると考えていた。
1858年、フランスとスペインの連合軍がダナンを攻撃した。ダナンはフエに近く、良港であった。しかし、抵抗と疫病により、フランスはフエを攻略できず、1859年に南部のサイゴン(現ホーチミン市)を攻撃した。1862年、嗣徳帝はフランスとの間でサイゴン条約を締結し、南部3省(ビエンホア、ザーディン、ディントゥオン)などをフランスに割譲した。
1867年、フランスは残る南部西側(ヴィンロン、アンザン、ハティエン)を占領し、コーチシナ全域がフランスの直接支配下に入った。
1873年、フランスはハノイを占領した。1874年、サイゴン条約(第二次)によって、阮朝は、フランスによるコーチシナの主権を正式に認め、また紅河を外国貿易に開放した。
1882年、フランスは再びハノイを占領し、1884年のフエ条約にてアンナン(中部)とトンキン(北部)がフランスの保護国となった。これは阮朝が外交権を失ったことを意味した。
1883年、嗣徳帝が死去した。新たな皇帝が擁立されるも殺害され、後継もすぐに崩御し、1884年には咸宜帝が即位した。
ベトナムに対して宗主権を主張していた清は
フランスに対抗し、1884~1885年に清仏戦争が起こった。フランスがフエを制圧すると、咸宜帝は宮廷を脱してフランスへの抵抗を呼びかけたものの、咸宜帝は捕らえられ、アルジェリアへ追放された。清の敗北後1885年の天津条約によって、清朝はベトナムに対する伝統的な宗主権を放棄した。
1887年には、フランス領インドシナ連邦が成立し、コーチシナ(一説には、古代中国のベトナム北部の呼称たる交趾cochin+支那chinaが由来)、アンナン(唐の時代の安南都護府が由来)、トンキン(東の都の意味で、後黎朝の首都昇龍の語感が変化した)のほか、カンボジアが含まれた。ただし、阮朝はこの内部で存続し続けた。植民地体制の中で一定の政治的・象徴的役割を持つ役割を果たし、フランスに逆らう皇帝は退位・追放された。
1920年、ホー・チ・ミンはフランス共産党の創設に参加した。
1925年、ホー・チ・ミンは広州でベトナム革命青年会を設立し、民族独立運動を組織するための革命家の養成を目指した。
1930年、香港にてベトナムの複数の共産主義組織が統合され、ベトナム共産党が成立した。同年、インドシナ共産党に改称。
1936年、フランスで人民戦線政権が成立し、ベトナムでは一定の政治的自由が拡大した。インドシナ共産党はただちに武装革命を目指すのではなく、民主主義・社会改革・反ファシズムを掲げる広範な運動を展開し、広い統一戦線を作ることを志向した。
第二次世界大戦が始まり、1940年にフランスがドイツに敗北すると、日本はフランス領インドシナ北部へ進駐し、1941年には南部にも進駐した。もっとも、フランスは植民地行政を維持した。
1941年、ホー・チ・ミンが帰国しら共産党を中心に民族統一戦線としてベトミンが結成された。ベトミンには多様な組織・者が参加し、独立を目指した。
1945年3月、日本はフランスの植民地行政を排除し、保大帝に独立を宣言させてベトナム帝国が成立した。しかし、日本の傀儡であるとして、ベトミンは抵抗を続けた。
現代
1945年8月、ベトミンは各地で蜂起し、ハノイなど主要都市を掌握した(八月革命)。保大帝は退位を迫られて退位した。1945年9月2日、ホー・チ・ミンが独立を宣言し、ベトナム民主共和国(首都ハノイ)が成立した。インドシナ共産党はベトミンに参加する形で形式上解散した。
ホー・チ・ミンは独立宣言の中で、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言の理念に言及した。共産主義革命だけを目的としていたのではなく、民族独立を最大の政治的目標として掲げていたことがわかる。
その後、中国国民党が日本の武装解除を名目として北部に進駐し、ベトミンに政治的圧力を加えた。一方イギリスはフランスの復帰を支援する目的で南部に進駐した。ベトナム民主共和国は南北両面で危機に陥った。
ホー・チ・ミンは、中国国民党を撤退させるために、フランスとの一時的な妥協を選択する。
1946年1月、ベトナム民主共和国は総選挙を実施した。これは、国内外に対して、正統な国家政府であることを示す意味を持っていた。また、国会が設置され、憲法が制定された。
1946年2月、中国とフランスの間で合意が成立し、中国は北部から撤退する代わりに、フランスから中国国内のフランス租界・権益について譲歩を得た。
1946年3月、フランスとベトナム民主共和国の間で協定が締結され、フランスはベトナム民主共和国を自由国家として承認した。ただし、フランス連合の一員となること(完全独立を認めないこと)が条件であった。また、フランス軍が中国軍に代わって北部へ進駐することも認められた。そして、アンナンとトンキンに対するベトナム民主共和国の自治は認めた一方で、コーチシナは住民投票に委ねることとされた。しかし、フランスの工作により1946年6月、南部にフランスの保護国としてコーチシナ共和国が成立した。
1946年末、ベトナム民主共和国とフランスの間で第一次インドシナ戦争が始まった。
1949年、フランスは、旧皇帝の保大帝を利用して、ベトナム国(首都サイゴン)を成立させた。コーチシナ共和国はベトナム国に統合された。
1949年、中国で共産党が勝利し中華人民共和国が成立した。1950年、中国とソ連はベトナム民主共和国を承認し、ベトナム民主共和国は中国からの軍事支援を得られるようになった。一方、アメリカは冷戦の激化を背景に、フランスを支援するようになった。
1951年、形式的に解散したインドシナ共産党が再編され、ベトナム労働党が成立した。
1954年、ディエンビエンフー(現ディエンビエン省)の戦いでフランスに勝利した。同年、ジュネーブ会議で第一次インドシナ戦争の終結が決定され、北緯17度線付近を軍事境界線として一時的にベトナムを分割し、1956年の全国選挙で統一の是非及び支配的勢力を決することとした。
また、1954年以降、ベトナム民主共和国ではベトナム労働党が政権を握り、本格的な社会主義国家建設を目指して土地改革や農業集団化、国有化、工業化を進めた。
1955年、南部でゴ・ディン・ジエムが保大帝を追放し、ベトナム共和国を成立させた。
1956年の統一選挙は実施されなかった。
南部のベトナム共和国のゴ・ディン・ジエム政権は反共産主義政策を強めたため、北部のベトナム民主共和国は、1959年に南部での武装闘争を本格化させる方針を決定した。レ・ズアンらベトナム労働党指導部は南部での革命を積極的に進める路線をとり、後者が強い影響力を持っていたことがわかる。
1960年、南部で南ベトナム解放民族戦線が結成され、ベトナム民主共和国の支援を受けた。
1963年、ジエム政権はクーデターによって崩壊し、ジエムは殺害された。この後、ベトナム共和国では軍事政権が次々に交代し、政治的不安定が続いた。アメリカはベトナム共和国を共産主義の拡大から守る必要があると考え、軍事関与を拡大した。
1964年、アメリカはトンキン湾事件を契機として、ベトナム民主共和国への軍事行動を本格化させ、大規模な空爆と地上軍の投入を開始した(ベトナム戦争)。ソ連と中国はベトナム民主共和国を支援した。
アメリカは戦場で勝利しても、ベトナム民主共和国がラオス経由のホーチミン・ルートを通じて南部へ人員・武器を送り続けたため、戦争が長期化した。
1968年1月、ベトナム民主共和国と南ベトナム解放民族戦線はベトナム南部各地で一斉攻撃を開始し、アメリカに政治的・心理的な衝撃を与えた。同年、パリで和平交渉が始まったが、ベトナムの正統な政治勢力の決定をめぐり難航した。
1969年、ホー・チ・ミンが死去した。レ・ズアンがベトナム労働党の中心となった。
1969年、ニクソンがアメリカ大統領に就任し、アメリカ軍を撤退させ、ベトナム共和国軍に戦争を引き継がせるという政策を進めた。
1970年にはアメリカ軍とベトナム共和国がカンボジアへ侵攻した。北ベトナムは、ラオス・カンボジアを通るホーチミン・ルートを利用して南部へ物資を輸送していたため、その補給基地を破壊する目的であった。しかし、周辺国へ戦争が拡大したことで、アメリカ国内で反発を引き起こした。
1972年、ベトナム民主共和国は大規模な通常戦を開始した。
1973年初頭、パリ和平協定が締結され、アメリカ、ベトナム共和国、ベトナム民主共和国、南ベトナム共和国臨時革命政府の4者によって署名された。主な内容は、停戦、アメリカの撤退、ベトナムの政治的将来を南北のベトナム人自身が決めることだった。
その後アメリカは撤退したものの、ベトナム民主共和国は、最終的に武力によって南部を統一する方針を維持した。一方、ベトナム共和国政府は自らを独立した国家として維持することを目指した。ベトナム共和国は従来よりアメリカから軍事援助を受けていたが、アメリカ国内では戦争への再介入に対する反対が強く議会は軍事介入に慎重だったこと、ウォーターゲート事件によってニクソン政権が弱体化していた。
1975年、ベトナム民主共和国は大規模な攻勢を開始した。ベトナム共和国の防衛線が急速に崩壊し、フエやダナンが陥落した。まもなくサイゴンも陥落し、ベトナム共和国は消滅した。
1975年から1976年にかけて、南部には、南ベトナム共和国臨時革命政府が置かれた。
1976年7月2日、南北ベトナムは正式に統一され、ベトナム社会主義共和国(首都ハノイ)が成立した。党書記長のレ・ズアンが中心人物であり、ベトナム労働党はその呼称を再びベトナム共産党に戻した。また、サイゴンはホーチミンへ改称された。
統一後、共産党は南部にも北部型の社会主義体制を導入しようとしたが、経済は停滞した。
1977年、ベトナムは国際連合に加盟した。
1978年、ベトナムはカンボジアへ侵攻した。背景には、ポル・ポト政権がベトナム国境への攻撃を繰り返し、ベトナム系住民への虐殺を行っていたことにある。
これによりポル・ポト政権を支援していた中国との関係が悪化し、1979年に中国がベトナム北部へ侵攻して中越戦争が起こったが、中国は短期間で撤退した。その間ベトナムはソ連と緊密な関係を結んだが、その結果としてASEAN諸国や西側諸国と対立した。
1980年代前半、経済危機は深刻化した。
1986年、レ・ズアンが死去した。
1986年、党書記長となったグエン・ヴァン・リンのもと、ドイモイ(刷新)を開始し、共産主義を維持したまま経済制度を市場経済へ転換して外国投資の受け入れを進めた。国際的孤立を解消してドイモイを成功させるため外交政策を転換し、1989年にカンボジアから撤退し、1991年のパリ和平協定に結実した。
グエン・ヴァン・リンは、レ・ズアンのような圧倒的な個人指導者でなかった。そのため、この時期から、党書記長のほか、党政治局・中央委員会・複数の国家機関による合議という形が強まった。
1991年、中国と国交を正常化した。その背景には、カンボジア問題の解決やソ連の弱体化、ドイモイの強化があった。
1991年末、ソ連が崩壊した。ベトナム共産党は共産主義体制を維持した。
1992年に制定された憲法では、共産党(国家や社会の指導)のほか、国会(国家権力の最高機関)、政府(行政機関)、国家主席(元首)と大枠が整理された。共産党書記長のほか、国家主席
、首相、国会議長に権力がある程度分散されたことになる。
1995年には、アメリカと国交を正常化し、ASEANに加盟した。
2000年代以降、ベトナム共産党は一党独裁を敷いたものの、経済成長を重視して外国直接投資、輸出産業、製造業、国際貿易を積極的に受け入れた。
2007年、ベトナムはWTOに加盟した。
2011年、グエン・フー・チョンが党書記長となった。経済成長を維持しながら、中国やアメリカ、ロシアといった大国との関係を維持した。また、反腐敗運動を強化し、高官・企業家・政府関係者が相次いで摘発されるに至った。また、前任の死去に伴い、2018年から2021年にかけてグエン・フー・チョンは一時的に国家主席を兼任した。
2024年、グエン・フー・チョンが死去し、トー・ラムが党書記長となった。彼は 省庁・地方政府の合理化を進め、2025年に省級行政区画が63から34へ再編された。トー・ラムは2026年、党書記長に加え国家主席にも選任された。
おわりに
ベトナムの歴史は、数多くの侵略や内戦、植民地支配を経験しながらも、そのたびに新たな国家を築き上げてきた歴史でした。また、中国文化やインド文化、西洋文化を積極的に取り入れながら、自国の制度や文化として発展させてきた点も大きな特徴です。
現在のベトナムは、社会主義体制を維持しつつも、1986年のドイモイ改革以降は市場経済を取り入れ、高い経済成長を続けています。古代から現代までの歴史の流れを理解することで、ベトナムという国がどのように形成され、現在の政治・経済・外交へとつながっているのかを、より深く理解できるでしょう。

