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世界史|イラン•イスラム共和国

世界史
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はじめに

イランは、古代ペルシア帝国の中心地として栄えた世界有数の歴史国家である。アケメネス朝、ササン朝、サファヴィー朝など多くの王朝が興亡を繰り返し、独自の文化と国家意識を形成してきた。本記事では、古代のイラン人国家の成立からイスラム化、近代化、イスラム革命を経て現代のイラン・イスラム共和国に至るまでの歴史を概観する。

歴史

古代


紀元前4000年頃、現イラン南部(ザグロス山脈の南側)にはエラム人(系統不明)が暮らしていた。中心地はスサ(現イランのフーゼスターン州あたり、世界文化遺産)。メソポタミアの諸文明と戦いや交易を繰り返しながら、紀元前600年頃にアッシリア帝国に滅ぼされた。

イラン北西部(現イランのハマダーン州あたり)には、メディア人がいた。部族が統合されてメディア王国を形成しその勢力を広げた。
紀元前612年、メディア王国は新バビロニア王国と手を組み、南西のアッシリア帝国を滅亡させた。

紀元前550年、メディア王国の有力部族アケメネス家(ペルシア人)のキュロス2世が反乱を起こし、メディア王国を滅ぼしてアケメネス朝が成立した。ペルシア人国家であり、ペルシア語を用い、ゾロアスター教を国教とした。その後、西方に進出し、リディア王国や新バビロニア王国を征服した。さらに、エジプトやアナトリアも征服した。また、ペルセポリス(現イランのファールス州)も建設された。

紀元前336年、ギリシャの北のマケドニアで即位し、東進したアレクサンドロスに敗れ、紀元前330年にアケメネス朝ペルシアは滅亡した。  
紀元前323年にアレクサンドロスが急死すると、各地の有力者が王を宣言した。最終的に、現イラン地域はマケドニア人のセレウコスによって成立したセレウコス朝シリアの支配下に置かれた。

紀元前250年頃、現イラン東部(当時パルティア地方と呼ばれた)の太守が独立した。その後、アルサケスが太守を破り、アルサケス朝パルティアが成立した。イラン系遊牧民のパルティア人国家であったが、ギリシア語を使用したとされる。セレウコス朝シリアと交戦することはあったものの、独立を維持した。
アルサケス朝は西に勢力を広げ、現イラン西部も支配するに至り、その西方のローマ帝国と接した。

3世紀初頭、長年の対ローマ戦争や有力諸侯の自立化によりアルサケス朝は衰退していた。その中で、イラン南部(現ファールス州あたり)の有力者であるササン家が勢力を拡大した。
224年にアルダシール1世が即位し、アルサケス朝を滅亡させてササン朝ペルシアを樹立した。ペルシア人国家であり、ペルシア語を再興させ、ゾロアスター教を国教とした。
西方のローマ帝国と抗争を繰り返し、東方では中央アジアの遊牧民と対峙し続けた。

602年以降、ホスロー2世の代に、ササン朝は東ローマ帝国と長期の戦争状態に入った。数十年に及ぶ戦争は国家財政を疲弊させ、王位の争いも発生した。

その頃、アラビア半島ではイスラム勢力が強大化した。636年のカーディシーヤの戦いで首都を失い、642年のニハーヴァンドの戦いでも敗北し、イラン高原の主要地域が次々と征服された。最後の王ヤズデギルド3世は東方へ逃れたが、651年に殺害され、ササン朝は滅亡した。

中世

現イラン地域はイスラム共同体、続いてウマイヤ朝の支配を受けた。ゾロアスター教は弾圧されなかったものの、ジズヤの存在もあり、イスラム教への改宗者が増加した。支配層はアラブ人であった。また、アラビア語も広まった。

749年、アブー・アッバースが反乱を起こしてウマイヤ朝を滅ぼし、750年にアッバース朝を成立させた。アッバース朝は、この過程でシーア派の支援を受けていたものの、権力掌握後は統治安定の観点等からスンナ派寄りとなった。そのため、シーア派の中には現イラン地域に移動する人々もいた。

821年、イラン東部にイラン系のターヒル朝(首都ニーシャープール:現イランのラザヴィー・ホラーサーン州)が成立し、アッバース朝のもとで勢力を広げた。860年代にはイラン南東部にイラン系のサッファール朝が成立した。873年、サッファール朝はターヒル朝を滅ぼし、独立した。

また、現ウズベキスタンのサマルカンドを中心として、819年にイラン人によるサーマーン朝が成立した。
900年、サーマーン朝は南下し、サッファール朝の領土の大半を奪って現イラン東部に進出した。

イラン北部のカスピ海沿岸では、864年、ザイド朝が成立した。第4代正統カリフであるアリーの子孫が支配者であり、イスラム教のザイド派が中心であった。軍事力の背景には、イラン系ダイラム人(エルブルズ山脈周辺の山地で生活していた)の存在があった。
927年、ザイド朝はズィヤール朝に滅ぼされた。
930年代、ズィヤール朝の支配下にあったダイラム人の有力者ブワイフの息子がブワイフ朝を興した。シーア派の王朝であった。945年には、アッバース朝の首都を掌握した。

970年頃、サーマーン朝に仕えていたトルコ系の奴隷軍人が現アフガニスタンのガズナに移り、独立してガズナ朝を成立させた。ガズナ朝はスンナ派を信仰していた。ガズナ朝は西進してサーマーン朝を破り、現イラン東部を支配してブワイフ朝と対立した。

11世紀初め、トルコ系オグズ族のアルスラーン・イスラーイールはカラハン朝やガズナ朝と戦い、カスピ海近くまで追いやられた。
1038年、その甥トゥグリル・ベクが軍勢を率いてガズナ朝のニーシャープールを支配し、セルジューク朝を興した。ガズナ朝の現イラン地域部分の領土を奪い、1055年にはブワイフ朝を滅ぼした。セルジューク朝はアッバース朝カリフからスルタンの称号を得て、スンナ派を支持した。
その後、中央アジア(サマルカンド含む)やアラビア半島(エルサレム含む)、アナトリア(コンスタンティノープル除く)まで支配領域を広げた。
1063年、トゥグリル・ベクが死去し、アルプ・アルスラーンが2代目スルタンとなった。
1077年には、アナトリアでセルジューク家の者が独立し、ルーム・セルジューク朝が成立した。
1092年、3代目スルタンが死去すると、後継者争いが起こり、その内部で分裂した。

1141年、東進した西遼(カラ・キタイ)がセルジューク朝を破った。これに乗じて、ホラズム地方の総督(ホラズム・シャー朝)が独立した。セルジューク朝は形骸化する中、ホラズム・シャー朝は勢力を拡大し、1210年代までに現イラン地域の大部分をその支配下に置いた。

1218年、チンギス・ハンはホラズム・シャー朝への遠征を開始し、ホラズム・シャー朝は現イラン地域の大半を失った。残った現イラン地域のアッバース朝支配領域についても、モンゴル帝国第4代皇帝モンケの命を受けたその弟フレグが1258年にバグダードを陥落させてアッバース朝が滅亡したことにより、モンゴル帝国の支配下に置かれた。1259年にモンケが死去し、後継者争いを経て1260年に現イラン地域を中心にイルハン朝が成立した。

1295年、イルハン朝のガザン・ハンは、現地のイスラム教へ改宗した。ガザン・ハンの死後、イルハン朝は弱体化し、その後の後継者争い等により分裂した。現イラン北東部にはイラン系のサルバダール朝が、現イラン南部を中心にアラブ系のムザッファル朝が、それぞれ成立した。

1330年代にはイランの東方にあったチャガタイ・ハン国が東西に分裂した。
1370年、西チャガタイ・ハン国の軍人出身のティムールが、ティムール朝(首都:現ウズベキスタンのサマルカンド)を樹立した。その後南下し、現イラン地域を征服した。
1405年、ティムールが死去して後継争いが起こり、ティムール朝は弱体化した。

1419年、現ロシア地域から南下した遊牧民が建てた黒羊朝(カラコユンル)がイラン中部まで占領するが、ティムール朝のシャー・ルフがこれを回復した。このように、ティムール朝、黒羊朝ほか、同様に現ロシア地域から南下した遊牧民が建てた白羊朝(アクコユンル)が、現イラン地域をめぐって争った。

近世

1447年、ティムール朝のシャー・ルフが死去し、後継者争いが起こった。アジャム国はその混乱の中でイラン中南部における有力勢力となったが、黒羊朝に敗北した。

1467年、白羊朝が黒羊朝を倒し、イラン中南部を支配した。

15世紀末になると、アゼルバイジャン地方で勢力を拡大していたサファヴィー教団が急成長し、イラン北西部で勢力を拡大した。1494年に教団指導者となったイスマーイール1世は、白羊朝の混乱を契機として1501年にタブリーズ(現イランの東アーザルバーイジャーン州)へ入城し、サファヴィー朝を建国した。国教はシーア派(十二イマーム派)であり、サファヴィー朝のもとシーア派の宗教的統一が進んだ。
一方、イラン北東部では、ティムール帝国を滅ぼしたウズベク・ハン国(シャイバーニー朝)が南下していた。1510年、サファヴィー朝がシャイバーニー朝に勝利し、現イラン全域を統一した。

1514年、サファヴィー朝はオスマン帝国に敗北し(チャルディラーンの戦い)、西方への拡大は阻止された。以後サファヴィー朝はオスマン帝国と対立し続けた。
1530年代には首都をタブリーズからガズビーン(現イランのガズビーン州)に移した。
1587年、アッバース1世が即位し、1597年には首都をイスファハーン(現イランのイスファハーン州)へ移した。シャイバーニー朝を破ってホラーサーン地域を回復した。また、ホルムズ海峡の北岸にバンダル・アッバースを建設した。
1629年、アッバース1世が死去した。その後は衰退の一途を辿った。1638年にはオスマン帝国に敗れイラクを失った。

1709年、現アフガニスタン地域で反乱が起こり、東部でホータキー朝が独立した。1722年にはホータキー朝が首都イスファハーンを陥落させ、サファヴィー朝は事実上崩壊した。これに乗じて、オスマン帝国が現イラン西部を占領した。
1725年、ホータキー朝の君主が死去すると、軍事指導者ナーディルの助けを受けてイスファハーンを奪い返した。
1736年、ナーディルが王を廃してナーディル・シャーとなり、トルコ系のアフシャール朝を樹立し、サファヴィー朝は滅亡した。首都はマシュハド(現イランのラザヴィー・ホラーサーン州)。宗教はシーア派の十二イマーム派が信仰された。
1747年、ナーディル・シャーが暗殺されてアフシャール朝は分裂した。現アフガニスタン・パキスタン地域ではドゥッラーニー朝が成立したほか、現イラン南西部ではイラン系ルーリ人(luristan)のザンド朝(シーア派の十二イマーム派)が台頭した。

1779年、ザンド朝の君主が死去すると、後継者争いが起こり王朝は衰退した。
1779年、ザンド朝の北方(カスピ海南岸)にいたトルコ系カージャール人が勢力を拡大し、カージャール朝が成立した。首都はテヘラン。支配層はトルコ系であったが、ペルシア語が用いられた。
1794年、カージャール朝は南下してザンド朝を滅ぼした。1798年には通貨イラン・リアルを導入した。

近代

1801年、カージャール朝とイギリスは、同盟を締結した。背景には、拡大するナポレオンへの対抗にあった。
1804年、南下したロシア帝国とカージャール朝は、北西部のジョージアを巡って交戦した。対仏大同盟により、カージャール朝はイギリスの支援を得ることができなかった。
1813年、これに敗れ、講和条約としてゴレスターン条約を結び、アラス川以北をロシア帝国に割譲し、ジョージアへの主権を喪失した。これは、現在のイランとアゼルバイジャンの国境にも通じる。
1826年、再度ロシア帝国が南下し、これに敗れた。1828年、講和条約としてトルコマンチャーイ条約を締結した。アルメニア地域を喪失し、治外法権を認め、関税自主権を放棄した。

その後英露の対立を原因として、ロシア帝国はカージャール朝との関係を改善した。
1842年、カージャール朝はロシア帝国とともにアフガニスタンのバーラクザイ朝へ侵攻したが失敗した。
1847年、エルズルム条約により、オスマン帝国との境界を画定させた。これは、現在のイランとトルコの国境とほぼ重なる。
1857年、再度バーラクザイ朝に侵攻したが、イギリスに敗れた。パリ条約により、現在のイランとアフガニスタンの境界が画定された。

カージャール朝は弱体化した。財政難から列強(ロシア帝国やイギリス)に利権を売却し、鉄道・鉱山・通信などの権益を譲渡した。1890年に政府がイギリス企業にタバコ事業の独占権を与えると、反発が高まり、これが取り消された。イラン人としての民族意識が高まった出来事であったといえる。
また、イラン出身の思想家アフガーニーは、ヨーロッパに対抗するためイスラム教国家は団結する必要があるとの「汎イスラーム主義」を掲げ、専制政治を批判した。
1906年、食物価格の高騰や疫病の流行から、テヘランでデモが起こった。その結果、制限的な選挙が行われ、議会が開設され、憲法の制定が進められた。

1907年、英露協商により、ロシア帝国とイギリスにより、北部はロシア領、南東部はイギリス領、それ以外は中立地帯と3分割された。これはカージャール朝の同意なく決定され、関与する力もなかった。

1908年、立憲派とその反対派が衝突し、一度は武力により議会が解散したものの、その後再開された。しかし、1911年にロシア帝国が介入し、議会を解散させ、立憲革命は失敗に終わった。

1914年、第一次世界大戦が始まった。カージャール朝は中立を宣言した。
1917年、ロシア革命が起こり現イラン北部から軍が撤退した。

1918年、第一次世界大戦が終結するも、イギリス軍が駐留を続けた。
1920年、ボリシェヴィキの工作により、カスピ海沿岸のギーラーン(現イランのギーラーン州)にイラン・ソヴィエト社会主義共和国(ギーラーン共和国)が成立した。

1921年、レザー・ハーンは宗教家等と手を組んでクーデタを起こし、政府を組織した。レザー・ハーンは、崩壊前のロシア帝国により編成されたコサックの部隊に所属しており、イギリスの将軍のもとで出世して陸軍総指揮官るを務めていた。
新政府は、ソヴィエト政府と条約を締結し、ロシア帝国に与えていた利権を放棄させた。
1923年、レザー・ハーンは議会により首相に選ばれ、西洋化を進めた。
1925年、議会にてカージャール朝の廃止が可決され、レザー・ハーンが新たな君主となった。これにより、パフレヴィー朝が成立した。レザー・ハーンは、隣国のトルコ共和国に倣い共和制を構想したが、宗教家の反対等により君主制を採用した。
1927年、治外法権が廃止され、また法律が整備された。
1935年、国号をペルシア帝国から、アーリア人の土地を意味するイラン帝国に変更した。
1937年、イラン帝国は、周辺のトルコ共和国(1923年成立)やイラク王国(1932年にイギリスから独立)、アフガニスタン(1919年にイギリスから独立)との間で、相互不可侵条約を締結した。

1939年、第二次世界大戦が勃発し、パフレヴィー朝は中立を宣言した。しかし、親ドイツ的な姿勢を見せた。その理由は、英ソの影響力排除や鉄道建設での助力に由来する。
1941年、イギリスとソ連による軍事侵攻を受けた。レザー・ハーンは亡命し、その息子が王位を継承した。
1942年、パフレヴィー朝はソ連及びイギリスと同盟を結び、その後ドイツに宣戦布告した。
1943年、ソ連、イギリス及びアメリカにより、戦後にパフレヴィー朝が独立することで合意された。
1945年、ドイツが降伏した。

現代

1945年、サンフランシスコ会議に参加し、国際連合の原加盟国となった。
北西部のクルド人地域ではソ連の支援を受けてクルディスタン共和国が成立したが、パフレヴィー朝は国連に提訴し、アメリカの支援のもとソ連に撤兵を迫った。ソ連が撤退し、これを攻撃して崩壊させた。

1948年に発生した第一次中東戦争には参加していない。

1951年、石油国有化の推進を掲げたモハンマド・モサッデクが支持を得て首相に選ばれ、石油国有化を断行した。国民からは支持を受けたが、イギリスは経済制裁や石油禁輸でこれに対抗した。モサッデクの失脚もあり、国有化は失敗に終わった。

1960年、産油国を中心にOPECを設立した。

1963年、国王が白色革命の開始を宣言した。地主の土地を農民へ分配する土地改革、女性参政権の導入、教育の拡大、工場の民営化などが実施された。しかし、宗教勢力は、西洋化や王権強化をイスラム的価値観への脅威とみなした。法学者のルーホッラー・ホメイニーは1963年の反政府運動後に逮捕されてフランスへ追放されたが、亡命先から国王批判を続けた。

1967年の第三次中東戦争や1973年の第四次中東戦争の影響で石油価格が高騰し、好景気となった。その資金でアメリカから兵器を購入するなど軍事力を格段に強化した。その一方で、インフレや格差拡大も招いた。

1977年以降、経済停滞と政治的不満から全土で抗議運動が発生したが、政府はこれを弾圧した。亡命中のホメイニーは反政府運動の象徴となり、多様な反体制勢力を結集していった。
1978年、デモに対し軍が発砲し、多数の犠牲者が出た。デモは拡大し、王の退位を要求した。
1979年1月、ホメイニーは亡命先で革命評議会を結成した。数日後、王ムハンマド・レザー・シャーはエジプトへ亡命した。
同年2月、ホメイニーが帰国し、宗教指導者として迎え入れられた。また、ホメイニーはバーザルガーンを臨時政府の首相に任命し、行政・経済を任せた。
同年4月、国民投票の賛成多数により王政が廃止され、イラン・イスラム共和国が成立した。臨時政府は正式な政府となった。

1979年10月、亡命中の王がアメリカに移動した。
1979年11月、テヘランのアメリカ大使館がイランの革命防衛隊(最高指導者直属の軍事組織)の学生らが抗議の意味で大使館員を人質に立て籠もった。バーザルガーン首相は国際法違反という点も意識し事態の収集を図ろうとしたが、強行姿勢を崩さないホメイニーや革命評議会の意向も受け、首相を辞任した。その後、革命評議会が政権をとった。1980年4月、アメリカはイランと断交した。7月、王が死去し、事態は膠着した。

1979年憲法では大統領の職も導入された。初代大統領にはバニサドルが選ばれた。

1980年9月、イラクがイランに侵攻した。イラクの大統領サッダーム・フセインは、イラン革命の波及を恐れるとともに、石油地域のとれるイランのフーゼスターン州を狙った。
イランはイスラエル(イランから石油を輸入していた)の支援も得て反攻に転じ、戦線は膠着した。
1988年、国連の交渉により停戦が成立した。

戦争中の1981年にはバニサドル大統領が議会で弾劾され、バニサドルはフランスに亡命した。第2代大統領も選任後すぐ暗殺された。第3代大統領はハメネイが選ばれた。ハメネイは議会の議長や最高裁判所長官、首相に自身の勢力の者を置いた。

1989年、最高指導者ホメイニーが死去し、大統領ハメネイが新たに最高指導者となった。大統領には議会の議長であったラフサンジャーニーが就任した。

1997年、改革派のハータミーが大統領に当選し、西側諸国との関係改善を目指した。しかし、イラン国内には反対も根強かった。

2002年以降、核の施設の存在が明らかになった。

2005年、アフマディーネジャードが大統領に就任した。革命理念への回帰や反米・反イスラエル姿勢を強調し、核開発計画を積極的に推進した。その結果、イランは欧米諸国から経済制裁を受けた。
2009年、アフマディーネジャードが再選されたが、不正選挙疑惑から大規模な抗議運動が発生した。政府はこれを弾圧した。

2013年、ロウハーニーが大統領に当選した。ロウハーニーは国際社会との対話を重視した。核問題の解決を優先課題とし、欧米諸国との交渉を進めた。
2015年、アメリカと核に関する合意を結び、イランに対する経済制裁は解除された。
2018年、アメリカのトランプ大統領はこの合意からの離脱を発表した。

2021年、ライースィーが大統領に当選した。欧米との対決姿勢を比較的強めつつ、中国やロシアとの関係拡大を進めた。国内では経済制裁やインフレ、高失業率に苦しんだ。
2022年、ヒジャブを不適切に着用した女性が警察施設で拘束死した事件から、全土でデモが発生した。
2024年、シリアのイラン大使館がイスラエルの空爆を受けた。これに対し、イランもイスラエルを空爆した。その背景には、イランがレバノンのシーア派過激派組織ヒズボラを支援していること等にある。
2024年5月、ライースィーはヘリコプター墜落事故で死亡した。

2024年6月、ペゼシュキアンが大統領に選出された。
2025年、イスラエルはイラン国内の核施設や軍事施設を攻撃し、アメリカもイランの主要核施設への空爆に参加した。
2026年2月、アメリカとイスラエルが共同でイラン国内への大規模攻撃を開始した。両国は核開発能力や弾道ミサイル能力の破壊を目的と説明したが、イラン側は体制転覆を狙った侵略行為だと非難した。その後、戦闘はペルシア湾やホルムズ海峡周辺にも拡大した。イランはホルムズ海峡を交渉材料として利用し、アメリカは海上封鎖や追加攻撃をちらつかせた。4月には停戦が成立したものの、核問題や制裁解除をめぐる対立は解決されず、緊張状態は継続した。 

おわりに

イランの歴史は、古代ペルシア帝国以来の国家伝統と、イスラム化以後の宗教的・文化的発展が重なり合う歴史であった。異民族の支配や列強の干渉を受けながらも独自の文化的連続性を維持し続けたことが特徴である。現代のイランを理解するためには、数千年に及ぶその歴史的背景を知ることが欠かせない。

他の国については、こちらをご覧ください。

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