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世界史|カンボジア王国

世界史
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はじめに

東南アジアのインドシナ半島南部に位置するカンボジアは、古代からメコン川やトンレサップ湖を中心に独自の文化を発展させてきた国である。

その歴史は、古代の扶南や真臘、アンコール・ワットを築いたクメール王国の繁栄から、アユタヤ王国やベトナムとの対立、フランスによる植民地化、第二次世界大戦と独立、そしてベトナム戦争や冷戦に伴う内戦へと続いている。特に1970年代にはクメール・ルージュによる極端な政策によって多数の人々が犠牲となり、カンボジア史は20世紀後半の東南アジア情勢とも深く結び付くこととなった。

その後、ベトナム軍の介入、長期にわたる内戦、国際的な和平交渉を経て、1993年には立憲君主制のカンボジア王国が再建された。現在のカンボジアを理解するためには、アンコール王朝の歴史だけでなく、タイやベトナムとの関係、フランス統治、冷戦、そして内戦と和平の過程を一体として見る必要がある。

本記事では、古代の扶南・真臘からアンコール王朝、近世の王国、フランス保護国時代、独立後のシハヌーク政権、クメール共和国、民主カンプチア、カンプチア人民共和国を経て、1993年の王政復活と現在に至るまでのカンボジアの歴史を、時代ごとに整理して解説する。

歴史

古代

現カンボジア地域では、メコン川、トンレサップ湖周辺を中心に稲作や漁業を基盤とする社会が形成された。

紀元1世紀頃、メコン川下流域に扶南が成立した。中心地は現カンボジア南部からメコンデルタにかけてで、現ベトナム南部のオケオが港として発展した。この時代にヒンドゥー教および大乗仏教が伝来した。

扶南は現在のカンボジアだけでなく、現ベトナム南部、ラオス南部、タイ東部・南部などに影響力を及ぼした。

6世紀、北方の真臘(クメール人が中心とされる)が台頭し、扶南は併合された。真臘は現在のカンボジアだけではなく、ラオス中南部、タイ東部、ベトナム南部にも勢力を拡大した。 

8世紀になると内紛によって分裂し、陸真臘(上真臘)と水真臘(下真臘)に分かれた。

中世

802年頃、ジャヤヴァルマン2世がシュリーヴィジャヤの宗主権から脱し、クメール人の各勢力を統合してクメール王国(首都アンコール、現シェムリアップ周辺でアンコールワットの近く)が成立した。トンレサップ湖と大規模な水利システムを利用した稲作が繁栄を支えた。

1113年、スールヤヴァルマン2世が即位し、勢力範囲を現タイ東北部やラオス、マレー半島北部まで広げた。また、ヒンドゥー教ヴィシュヌ派の信仰の表れとして、アンコール・ワットを建立した。

1177年頃、チャンパ王国がアンコールを攻撃し、一時的に都が占領された。

1182年、チャンパ王国を撃退したジャヤヴァルマン7世が即位し、全盛期を迎えた。

1210年代末頃、ジャヤヴァルマン7世が死去し、その後徐々に弱体化した。西方ではスコータイ王国、後にはアユタヤ王国が台頭した。

1431年、西方のアユタヤ王国が侵攻し、首都を占領された。カンボジア王国自体は滅亡していないが、王国は重心は南方へ移動した。

近世

アンコールを離れたクメール王権は、南東部のメコン川流域へ政治の中心を移した。

1528年、ロヴェクが王都となった。

16世紀中頃から、西方のアユタヤ王国に何度も侵攻した。また、北方のランサーン王国とも対立した。

1594年、アユタヤ王国により、首都ロヴェクは占領され、王国は混乱状態に陥った。

1620年、カンボジアは再統一され、王国の首都はロヴェクの南東に位置するウドンへ移った。

17世紀以降、ベトナム南部を支配した阮氏がメコンデルタへの移民を進めた。

1750年代、ベトナムが侵攻し、カンボジア王国は メコンデルタの広大な地域を失った。これによって、カンボジアは海への出口の多くを失った。

1767年、アユタヤ王国が滅亡し、トンブリー王朝(王タークシン)が成立した。

1779年、親トンブリー朝派のカンボジア王が反トンブリー朝派によって殺害されて幼少の王が即位すると、タークシンは軍事介入した。

1782年にトンブリー朝が滅びチャクリー朝(1855年よりシャム王国とも)が成立すると、幼少の王はチャクリー朝の下で養育されることとなり、チャクリー朝の影響力が強まった。

1794年、その王をカンボジア王として復帰させる過程で、バッタンバンやシェムリアップなど北西部がチャクリー朝に編入された。

近代

1862年、フランスはベトナム南部を植民地化した。

1863年、カンボジア王国はフランスと条約を結び、フランスの保護を受け入れた。

1865年、首都をウドンから、メコン川流域のプノンペンへ移した。

1867年、フランスとシャムの間で協定が結ばれ、シャムはカンボジアへの宗主権を放棄し、バッタンバンやシェムリアップなど北西部を保持することとなった。

1907年、フランスとシャムの条約によって、バッタンバン・シェムリアップなどを取り戻した。

1887年、フランスは仏領インドシナ連邦を成立させ、カンボジアをその構成地域に組み込んだ。

1907年、フランスとシャム王国の条約により、アンコールを含むバッタンバン・シェムリアップ地域がシャムからフランス領カンボジアへ移管された。

1940年、フランスがドイツに敗北すると、仏領インドシナはヴィシー政権の統治下に置かれ、翌年には日本軍がカンボジアに進駐した。ただし、行政権はフランスに残っていた。

1940年末、タイ王国がフランスに対してアンコールを含むバッタンバン・シェムリアップ地域の領土返還を要求し、戦争が始まった。

1941年、日本が仲介に入り、その講和条約によりフランスはタイに領土を割譲した。

1945年3月、日本がフランスを排除すると、日本の影響下でカンボジア王ノロドム・シハヌークが独立を宣言した。しかし日本の敗戦により独立体制は崩壊し、その後フランスに再占領された。

現代

第二次世界大戦の終結後、フランスはタイ王国に対し、ヴィシー政権による領土の割譲は無効だとして、アンコールを含むバッタンバン・シェムリアップ地域の返還を求めた。しかし、タイは応じなかった。

1946年、フランスはタイの国連加盟に反対し、拒否権の発動を示唆したため、タイは領土を返還した。

1946年1月、カンボジア王国はフランスと協定を結び、フランス連合内の自治王国となり、内政に一定の自治権が認められた。国内では完全独立を求める声が高まるが、ベトミンの支援を受けた反乱勢力クメール・イサラクも存在した。そのため、フランスと協力して反乱勢力を抑えつつ、フランスからの完全独立を目指した。

1947年、憲法が公布され、立憲君主制となった。国家元首は国王であるが、その権力は憲法で制限されることとなった。

1953年11月9日、カンボジア王国はフランスから完全に独立した。その背景には、フランスがベトミンとの戦争を続けるためにもカンボジアと敵対することを避ける必要があるという事情があった。

1954年のジュネーブ会議によってインドシナ戦争が終結すると、カンボジアの独立が国際的にも確認された。

1955年、国王シハヌークは王位を退き、父スラマリットに王位を譲った。その背景には、立憲君主制の制度上国王に対する政治的制約が大きかったことがある。その後シハヌークは政治組織を結成し、首相に就任して政治を支配した。

同年、バンドン会議にも参加し、カンボジア王国は大国に全面的には依存しない外交を展開した。

また同年、隣国でベトナム戦争が始まり、カンボジアが中立を宣言した。

1960年、国王スラマリットが死去した。王位は空位とされ、シハヌークが実権を握り続けた。

1960年代になると、ベトナム戦争において北ベトナム(ベトナム民主共和国)がカンボジア東部を補給路として利用するようになった。カンボジア王国はこれを完全に排除するだけの軍事力を持たず、事実上黙認した。

1969年、アメリカはカンボジア王国内の補給路を爆撃し始めた。 政治・社会も不安定化し始めた。

1970年、シハヌークが北京に滞在している間に、首相ロン・ノルを中心としたクーデターが起きた。王制は廃止されてクメール共和国が成立した。

ロン・ノル政権は明確に反共産主義・親米路線を取り、アメリカの支持を受けた。そして、北ベトナムに対してカンボジアからの撤退を要求した。

一方で、シハヌークは中国に亡命し、反ロン・ノル運動を指揮した。さらに、以前弾圧していたカンボジアの共産主義勢力(クメール・ルージュ)とも協力関係を築いた。クメール・ルージュはシハヌーク支持を宣伝して農民の支持を拡大した。

ロン・ノル政権成立後の1970年、北ベトナムのカンボジア国内基地を標的として、アメリカと南ベトナムがカンボジアへ侵攻した。これにより、ベトナム戦争とカンボジア内戦が一体化し、ロン・ノル政権、&アメリカ&および南ベトナムの陣営と、クメール・ルージュ&および北ベトナム軍の陣営という構図が成立した。

1975年、クメール・ルージュがプノンペンを占領してロン・ノル政権は打倒された。指導者ポル・ポトによるし、国号が民主カンプチアに変更されたが成立した。極端な政策が進められ極めて多数の人々が死亡した。

1976年、ベトナム社会主義共和国が成立した。民主カンプチアとベトナムの関係は次第に悪化した。

1978年末、ベトナムに逃亡したヘン・サムリンを中心として抵抗組織が結成され、ベトナムの支援を受けて民主カンプチアに侵攻した。

1979年1月、プノンペンが陥落して民主カンプチアは崩壊した。ベトナム軍が駐留するなどベトナムの強い影響の下、ヘン・サムリンを元首とするカンプチア人民共和国が成立した。王制ではなく共産党の支配であった。しかし、クメール・ルージュ、シハヌーク派、ソン・サン派(ソン・サンはカンボジア王国時代の1967年から1968年にかけて首相を務めた)などは抵抗を続け、内戦状態に陥った。

1982年、クメール・ルージュ、シハヌーク派およびソン・サン派は連合し、民主カンプチア連合政府を構成した。国連における代表は民主カンプチア連合政府に与えられた。その背景にはカンプチア人民共和国がベトナムの傀儡と捉えられていたことに起因する。民主カンプチア連合政府は米中の支援を受けた一方、カンプチア人民共和国はベトナムやソ連の支援を受け、冷戦構造下での代理戦争となったともいえる。

1989年、冷戦は終結に向かい、ベトナムがカンボジアから撤退するのと同時にカンプチア人民共和国はカンボジア国に改称した。

1990年、カンボジア国の政権派、クメール・ルージュ、シハヌーク派、ソン・サン派の4勢力の構成員から成る最高国民評議会が成立し、国連による和平案を受諾することが決められた。

1991年10月23日、パリ和平協定が締結された。

1992年、国連はUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)を設置した。UNTACは政府としての機能を果たした。

1993年5月、総選挙が行われた。シハヌーク派系のフンシンペックが第一党、カンボジア国の政権派に由来するカンボジア人民党が第二党となったが、どちらも単独過半数に届かなかった。

1993年9月、新憲法が制定され、立憲君主制のカンボジア王国となった。国王にはシハヌークが就いた。

フンシンペックのノロドム・ラナリット(王族)が第一首相、カンボジア人民党のフン・センが第二首相となった。

1997年、権力争いの結果、フン・セン派が軍事力でラナリット派を排除した。この後、カンボジア人民党が政治を支配した。

1998年、選挙の結果、カンボジア人民党が第一党となった。

1998年、ポル・ポトが死去し、クメール・ルージュは崩壊し、内戦も事実上終結した。

1999年、ASEANに加盟した。

2004年、選挙の結果、カンボジア人民党が再び第一党となった。

同年、シハヌークが退位し、息子のノロドム・シハモニが国王となった。

2008年、選挙の結果、カンボジア人民党が再び第一党となった。

2013年、カンボジア人民党が勝利したが、都市部や若者から人気を集めたカンボジア救国党が躍進した。

2017年、カンボジア救国党の党首が逮捕され、解党されるに至った。

2018年、選挙の結果、カンボジア人民党が圧勝した。

2023年、選挙の結果、カンボジア人民党が再度圧勝した。フン・センが首相を退き、長男のフン・マネットが首相となった。フン・センはなお上院議長やカンボジア人民党の党首を務めている。

おわりに

カンボジアの歴史は、アンコール・ワットに代表されるクメール文明の繁栄だけではなく、周辺のタイやベトナムとの勢力争い、フランスによる植民地支配、第二次世界大戦、そして冷戦という国際情勢の影響を強く受けながら形成されてきた。

特に20世紀後半は、シハヌークによる中立外交、ロン・ノル政権の成立、クメール・ルージュによる民主カンプチア、ベトナム軍の介入とカンプチア人民共和国の成立、さらに反政府勢力との内戦へと、短期間のうちに政治体制が大きく変化した。1980年代には米中ソなど大国の対立とも結び付き、カンボジアの内戦は東南アジアにおける冷戦の代理戦争という側面も持つことになった。

1991年のパリ和平協定と国連によるUNTACの活動を経て、1993年には立憲君主制のカンボジア王国が再建された。その後、カンボジア人民党が長期にわたって政治的優位を維持し、1998年頃までにクメール・ルージュの武装闘争も事実上終息したことで、長年続いた内戦の時代は終わりを迎えた。

現在のカンボジアを理解するには、アンコール王朝の栄光とクメール・ルージュ時代の悲劇だけを切り離して見るのではなく、その間に存在した周辺国との関係、植民地支配、独立、中立外交、ベトナム戦争、冷戦、内戦、そして和平という長い歴史の流れを捉えることが重要である。

他の国については、こちらをご覧ください。

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