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世界史|ミャンマー連邦共和国

世界史
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はじめに

東南アジア西部に位置するミャンマーは、古くからイラワジ川流域を中心にさまざまな民族や王国が興亡を繰り返してきた地域である。現在のミャンマーにつながる歴史は、ピュー人やモン人の都市国家、ビルマ人によるパガン王国、アヴァ王国やペグー王国、タウングー王国、コンバウン王国など、多様な政治勢力の関係の中で形成されてきた。

19世紀になるとイギリスの進出によって王国は滅亡し、ミャンマーはイギリス領インドの一部として植民地支配を受けることになった。その後、アウンサンらによる独立運動、第二次世界大戦、日本軍による占領を経て、1948年に独立を達成した。しかし、独立後は民族問題や共産主義勢力との対立などから内戦が発生し、軍の政治的影響力が次第に強まっていった。

1962年にはネ・ウィンによる軍事クーデターが起こり、その後長期間にわたって軍を中心とする政治体制が続いた。1988年の民主化運動ではアウンサン・スー・チーが政治指導者として台頭し、1990年の総選挙では国民民主連盟(NLD)が圧勝したものの、軍政は政権移譲を認めなかった。

2010年代には民政移管と民主化が進み、NLD政権が成立した。しかし、少数民族問題やロヒンギャ問題、国軍の政治的影響力など、独立以来の課題は残り続けた。そして2021年には国軍が再びクーデターを起こし、現在に至るまで大規模な内戦が続いている。

本記事では、古代のピュー人やモン人の時代から、パガン王国、タウングー王国、コンバウン王国、イギリスによる植民地支配、独立、軍事政権、民主化運動、そして2021年のクーデター後の内戦まで、ミャンマーの歴史を「古代」「中世」「近世」「近代」「現代」に分けて整理する。

王朝の興亡だけでなく、民族問題、仏教、植民地支配、第二次世界大戦、冷戦、民主化などにも注目することで、なぜ現在のミャンマーが複雑な政治・民族対立を抱えているのか、その歴史的背景を理解していく。

歴史

古代

紀元前、現在のミャンマーにあたる地域では、複数の民族と都市国家が存在し、現在のような統一国家は成立していなかった。

北部や中部にはピュー人の都市国家群が存在し、南部にはモン人の諸勢力が存在した。

中世

9世紀ごろ、パガン(現ミャンマーのマンダレー地方域あたり)の勢力が成長し、後のパガン朝につながる政治勢力が形成された。

1044年、アノーヤター王が即位するとパガンを中心とするビルマ人の勢力が勢力を拡大し、イラワジ川流域を統合して、初めてのビルマ人による広域的統一国家(パガン王国)を形成した。その後は南部のモン地域にも勢力を伸ばした。宗教面では、上座部仏教が王権と結びつき、寺院や仏塔の建設が進められた。しかし、13世紀になると地方の支配者や寺院勢力の自立性が強まり、中央政府の財政基盤が弱くなった。

1277年、北方よりモンゴル勢力が侵入した。

1287年、モンゴル勢力により、弱体化していたパガン王国の統一が崩壊した。その後、イラワジ川中流域ではシャン人によるミンザイン王国が政治秩序を引き継いだ。

同年、パガン王国の混乱に乗じて、モン人が離反・自立し、南部(下ビルマ)のマルタバン(現ミャンマーのモン州あたり、現モッタマ)にてペグー王国(ハンターワディー王国)が成立した。

1310年代、ミンザイン王国の兄弟間で争いがおき、ピンヤ王国とサガイン王国がイラワジ川を挟んで並立した。しかし、1360年頃に両王国は滅んだ。

1364年、サガイン王国の王家に繋がる人物によりアヴァ王国が建国された。首都はアヴァ(現ミャンマーのマンダレー地方域、現インワ)。その後、北方のアヴァ王国と南方のペグー王国は長期間抗争した。

1369年、ペグー王国は首都をペグー(ハンターワディー)に移した。

1407年、ペグー王国はアラカン山脈を挟んだ西方のアラカン王国に侵攻した。アラカン王はベンガル王国に亡命した。

1430年、ベンガル王国(イスラム教)の軍事的支援により、アラカン王は復位した。都をムラウク・ユー(現ラカイン州のミャウウー)に起き、上座部仏教とイスラム教が独自に融合した。

近世

1480年代以降、アヴァ王国は北方のシャン人の圧力や内部抗争により弱体化した。その過程でシッタン川上流(アヴァ王国の首都アヴァの南東)の属国である、ビルマ人によるタウングー王国が勢力を拡大し自立性を強めた。

1510年、タウングー王国はアヴァ王国から事実上独立した。このとき、北西方面にはアヴァ王国、南方にはペグー王国があった。

1527年、シャン人がアヴァを攻略し、アヴァ王国は事実上崩壊した。上ビルマのビルマ人勢力はシャン人による支配を嫌って南東のタウングーへ流入し、タウングー王国は急速に成長した。

1531年、タウングー王国にて第5代タビンシュエーティー王が即位し、周囲への侵略を開始した。

1530年代、南進しペグー王国との戦争を本格化させ、1540年代前半にはその主要地域を支配下に置いた。

1540年代後半、北進しシャン人との戦争を本格化させ、また西方のアラカン王国や東方のアユタヤ王国とも交戦した。

1551年、タウングー王国にて第6代バインナウン王が即位した。前王の領土を再統一すると、さらなる領土拡張を図った。

1558年、東方のラーンナー王国を征服した。

1560年代、数度アユタヤ王国を属国とした。

1581年、バインナウン王が死去し、王国は分裂した。

1584年、アユタヤ王国は再独立した。

1599年以降、ニャウンヤン王が上ビルマを中心に勢力を再建した。しかし、その後中央政府の権力が弱まり、地方勢力が自立を始めた。

1730年代、政治的混乱が増加し、南部ではモン系勢力が勢力を強め、ペグー王国が復活した。

1751年、ペグー王国が北上してタウングー王国の首都アヴァを攻撃し、1752年にアヴァが陥落してタウングー王国が滅亡した。

1752年、シュウェボー(現ミャンマーのサガイン地方域)領主アラウンパヤーが、北上するペグー王国を撃退してコンバウン王国を建てた。その後アヴァまで南下してこれを奪回し、上ビルマを統合した。

1755年、南下したコンバウン王国はダゴンを征服し、ラングーンに改称した。

1757年、南下したコンバウン王国によりペグーが陥落し、ペグー王国が崩壊した。

1759年、東進しアユタヤ王国へ遠征したが、遠征中にアラウンパヤー王が死去した。

1765年以降数年間、北方の清が数度コンバウン王国に侵攻したが、独立を維持した。

1767年、コンバウン王国はアユタヤを攻略し、アユタヤ王国を滅ぼした。

1784年、コンバウン王国は西進し、アラカン王国を征服してベンガル湾東岸まで領域を拡大した。

1810年代に入ると、コンバウン王国はアッサム王国(現インドのアッサム州あたり)やマニプル王国(現インドのマニプル州あたり)へ侵攻し支配下に置いた。コンバウン王国とイギリス領インドの国境が接近し緊張が高まった。

1819年、コンバウン王国第7代国王バジードーが即位した。

近代

1824年、コンバウン王国はイギリスと軍事衝突し、コンバウン王国は敗北した。

1826年、ヤンダボ(現ミャンマーのマンダレー地方域あたり)にて講和条約が結ばれ、コンバウン王国は賠償金の支払義務を負ったほか、沿岸部のアラカン(現ミャンマーのラカイン地方域あたり)やテナセリム(現ミャンマーのタニンダーリ地方域あたり)、内陸部のアッサムやマニプールなどを失った。

1846年、第9代パガン王が即位した。

1852年、イギリスによる自由貿易の圧力等から、コンバウン王国はイギリスと2度目の軍事衝突に至った。その結果、イギリスが平和条約なしに下ビルマを併合した。コンバウン王国はペグーを初めとする沿岸部を失い、上ビルマ中心の王国となった。

1853年、政変によりミンドン王が即位した。フランスとの外交関係も重視するようになった。

1875年、イギリスとの協定によりカレンニー地域(現ミャンマーのカヤー地方域あたり)西部の独立が確認され、コンバウン王国とイギリス双方が主権を主張しないことが定められた。

1878年、ティーボー王が即位した。

1885年、コンバウン王国は、スコットランド人により設立され、上ビルマを中心に高級木材たるチーク材の伐採から貿易を行っていたボンベイ・ビルマ商会に対し、伐採量を過少申告したとして罰金を科した。これを直接の契機として、イギリスは三度目の戦争に踏み切り上ビルマに侵攻した。その背景には、フランスのインドシナ進出、イギリスの経済的利益、インド帝国の安全保障などもあった。

首都の占領と王の捕縛により、イギリスは上ビルマを併合し、コンバウン王国は滅亡した。

1886年以後、イギリス領インドの一部として統治された。統治の中心はラングーンであった。下ビルマの米、上ビルマのチーク材や石油などの供給地として開発された。また、インドから多数の労働者や商人が移住し、植民地支配の担い手は必ずしもビルマ人ではなかった。

20世紀以降、植民地支配に対する民族主義運動が徐々に発達した。

1906年、仏教徒青年会(YMBA)が設立された。コンバウン王国時代、国王は仏教教団の保護者であった。国王の権威は仏教秩序と結びついていたため、コンバウン王国滅亡は仏教保護体制の崩壊も意味した。イギリスは植民地行政のもとで宗教を管理する方針をとったが、僧侶や知識人の一部は、仏教の保護とビルマ人社会の自立を結びつけて考えるようになった。

1920年、ラングーン大学で学生ストライキが発生した。学内にラングーン大学学生組合が設立された。

また同年、YMBAを前身として、政治運動を行うことを明確化するため、ビルマ人の政治団体ジェネラル・カウンシル・オブ・ビルマ・アソシエーション(GCBA)が結成された。

1923年、イギリスにより限定的な自治制度が導入され、教育や農業など一部の分野でビルマ人の政治家が権限を与えられた。GCBAは、賛成派と反対派に分裂した。その後もGCBAは分裂を繰り返した。

1930年から1932年、GCBAと関わりのある指導者を中心としてイギリスに対する農民反乱(サヤー・サンの反乱)が発生した。

1930年、GCBAより指導力のある組織を目指し、われらがビルマ人連盟(タキン党)が成立した。タキンは主人や支配者の意であり、イギリス人が自らを支配者として用いていた呼称を、ビルマ人自身が取り戻すという意味合いである。

1933年、アウンサン(18歳)はラングーン大学に入学した。その後、学生運動の指導者になる。

1936年、ラングーン大学でのアウンサンの停学処分に対する学生ストライキにおいて、タキン党が学生側を支援したことを契機として、学生が多くタキン党に参加した。

1937年、ビルマ統治法により、イギリスはビルマをインドから分離した。イギリスの国王が任命するビルマ総督が置かれ、ビルマ総督が下院の主要政党の議員から首相を指名した。初代首相は貧民党のバー・モウ。彼は1930年の農民反乱の首謀者の代理人弁護士をも務めた人物で人気が高く、親英路線の政権運営を行った。

1938年、タキン党の工作もあり、石油産業などで大規模ストライキが発生した。タキン党はこの活動を通じて労働者層の支持を得た。

また、タキン党の勧誘を受け、アウンサンは大学院を中退し加入した。その後、タキン党は内部分裂し、アウンサンはタキン党の第二位の地位に就いた。

1939年、バー・モウは不信任により首相を辞任した。第二次世界大戦が始まり、バー・モウ率いる貧民党、タキン党および全ビルマ学生組合連合が合併して自由同盟を結成し、反英姿勢を明確化した。

1940年、後継内閣が適用したビルマ防衛法により、自由同盟の幹部および関係者は投獄され、自由同盟は非合法化された。このとき、アウンサンは厦門に脱出し中国共産党との接触を図ったが失敗し、日本軍に発見されて東京へ連行された。

1941年末、日本の支援のもと、アウンサンはビルマ独立軍を結成した。

1942年3月、ビルマ独立軍は日本に協力して共にタイ方面から侵攻しラングーンを占領し、イギリスをインド方面へ撤退させた。アウンサンにとって日本との協力は、イギリスから独立するための手段だった。しかし、日本は東南アジアの資源と軍事拠点を確保することも主目的としており、この齟齬は占領後に両者の関係が悪化する原因となった。

1943年8月、日本はビルマ国の独立を宣言し、バー・モウは国家元首に、アウンサンは国防大臣となった。国軍としてビルマ国民軍が組織された。ただ、日本が軍事・政治の主要な権限を握っていた。

1944年8月、第二次世界大戦における日本の劣勢が決定的になると、アウンサンらは反ファシスト組織(AFO)を結成し、日本軍に対する抵抗運動の準備を進めた。

1945年3月、AFOは反ファシスト組織を中心に、共産党、人民革命党、民族主義者らを含む広範な連合体として反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)に改称され、明確に完全独立を掲げた。

1945年3月27日、アウンサン指導下のビルマ国民軍は日本に対する蜂起を開始した。ビルマ国民軍は連合国と協力してインド方面から進撃し、5月にはラングーンを奪回した。

1945年8月、日本の降伏によって戦争は終結した。ビルマは再びイギリスの軍事占領下に置かれたが、戦前と異なり、アウンサンを中心とする民族主義者が軍事組織と全国的な政治基盤を獲得していた。

現代

1947年1月、ロンドンにてアウンサンとイギリス首相アトリーの間で、1年以内での独立に向けた協定が具体化した。

1947年2月、政府とシャン人、カチン人、チン人の代表との間で、少数民族の処遇をめぐるパンロン協定が結ばれた。独立を早期に達成するため、少数民族の地域的な自治権と対等な地位を保障することを条件に、一つの連邦国家として独立することを取り決めた。

1947年4月、制憲議会選挙においてアウンサン率いるAFPFLが勝利した。議会では、旧コンバウン王国の王政を復活させず、またイギリス連邦の自治領でもなく、イギリス連邦に属さない独立共和国の建設が進められた。

1947年7月、ラングーンの行政庁舎にてアウン・サンは閣僚らとともに暗殺された。後継の指導者となったウー・ヌは、AFPFLを引き継ぎ、憲法制定と独立交渉を継続した。

1947年9月、憲法が採択された。連邦制の共和国として構成することを定め、国家の名称はビルマ連邦(Union of Burma)とされた。また、少数民族について主に次のことを定めた。①少数民族の居住地域を州として区分し、固有の議会と政府を置くことを認める。②イギリス植民地時代より高度な自治権を有していた東部のシャン州とカヤー州に対して、独立から10年後に連邦から自由に離脱できる権利を認める。③ 国会を二院制(上院の民族院と下院の国民院)とし、民族院において多数派のビルマ族よりも少数民族(北部のカチン人のカチン州、東部のシャン人のシャン州とカヤー人のカヤー州、南部のカレン人のコートゥーレー特別区、西部のチン人のチン特別行政区域など)の議席の合計が上回るようにする。

このように形式上は連邦制を採用したが、各民族勢力が期待した自治権を十分に実現したわけではなく、連邦制と民族自治をめぐる対立が残った。

1947年10月、イギリスとの間で独立に関する条約が締結された。

1948年1月4日、ビルマ連邦がイギリスから独立した。国王を元首とする立憲君主制ではなく、議会と大統領を持つ共和制を採用し、サオ・シュエタイッが初代大統領に、ウー・ヌが初代首相になった。ウー・ヌ政権は、アウンサンが暗殺された後に独立運動を引き継いだAFPFLを中心とする政府だった。

同年、ミャンマー内戦が始まった。独立運動の時期には民族主義勢力と協力していたが、独立後政権との政治的対立を深めていたビルマ共産党が武装闘争を開始した。また、カレン人の一部も独立時に十分な自治や独立保障が得られなかったとして武装闘争を開始した。中央政府は主要都市と中央平野部を維持し、反政府勢力は周辺の山岳地帯で勢力を維持した。内戦が長期化したことで中央政府の統治能力は低下し、軍の政治的影響力が強まった。

1950年、国共内戦に敗れた中国国民党の一部が数万人シャン州に逃げ込み、中国共産党への反攻拠点とした。ミャンマーは国軍を派遣したが苦戦し、国軍の権力を拡大・中央集権化させる一因となった。その後、ミャンマーは主権侵害であるとして国連に提訴し、送還や拠点の一掃が進んだ。

1951年、憲法改正により、カレン人の武装蜂起を抑えるため、コートゥーレー特別区はカレン州に昇格した。

1954年から1956年にかけてウー・ヌ首相の主導により第6回仏教結集が開催され、上座部仏教の経典が校訂、確認された。また、政治的な効果として、国家アイデンティティを強固にする狙いもあった。しかし、キリスト教やイスラム教を信仰する少数民族との少数派との緊張を生む要因ともなった。

1956年、総選挙においてAFPFLの支持が低下し、AFPFLの分裂が進んだ。

1958年、ウー・ヌはネ・ウィンに政権運営を委ね、軍中心の暫定政府が成立した。

1960年、総選挙でウー・ヌが勝利し、議会政治が復活した。

1961年、憲法改正により上座部仏教を国家宗教として認める政策が導入された。

1962年3月、ネ・ウィンが軍事クーデターを起こし、ウー・ヌ政権を打倒した。その後、議会が解散され、憲法が停止された。軍は革命評議会を設置し、ネ・ウィンが議長として最高指導者となった。また、民族問題を処理するため、中央集権を進めて国家統一を優先した。その後、革命評議会が掲げるビルマ式社会主義に基づき、主要産業や銀行、貿易などを国有化し、外国企業の活動を大幅に制限した。さらに、政治体制は一党支配へ向かった。

1960年代、外交面では非同盟と中立を掲げた。冷戦下でアメリカやソ連、中国のいずれの陣営にも属さず、独自の外交路線を維持した。

経済面では国有化、対外貿易の制限などによって経済成長は停滞した。また、内戦は収束せず、ビルマ共産党は中国の支援を受けて中央政府と交戦した。

1974年1月、新憲法が制定された。革命評議会に代わり人民議会を中心とする新体制へ移行した。機関として議会および大統領が置かれたものの、ビルマ社会主義計画党(BSPP)の一党独裁は維持された。大統領にはネ・ウィンが就いた。また、国名はビルマ連邦社会主義共和国となった。チン特別行政区域はチン州に昇格したものの自治権は失われた。

1981年、ネ・ウィンは大統領を辞職し、サン・ユが大統領となった。しかし、ネ・ウィンはBSPPの議長としてなお政治的影響力を維持した。

1980年代、経済政策の失敗と通貨問題が深刻化し、ビルマ経済は行き詰まった。

1987年、政府が高額紙幣を突然無効化する政策を実施した。

1988年、学生を中心とする反政府運動が全国的に拡大した。同年7月、ネ・ウィンはBSPPの議長を辞任するも効果はなかった。同年8月8日、大規模な民主化運動(8888運動)が発生した。民主化運動の中でアウンサンの長女アウンサン・スー・チーが政治指導者として台頭した。同年9月18日、ソー・マウン率いる軍がクーデタを起こし、国家法秩序回復評議会を設立して軍政を開始した。その後、軍が民主化運動の参加者を武力で鎮圧し、多数の死者が発生した。

政治面では、新たな評議会がBSPPの一党独裁ではなく複数政党による選挙を約束したため、スー・チーは国民民主連盟(NLD)を政党登録した。

経済面では、市場経済を導入して外国投資を促進した。

内戦においては、1989年にビルマ共産党が崩壊し、一部の少数民族の武装組織と停戦した。しかし、政治的解決とは言えない状況であった。

また、国名はビルマ連邦に変更された。さらに、国名の英語表記をミャンマー連邦、ラングーンをヤンゴン、ペグーをバゴーとするなど、表記をビルマ語の発音に基づく名称に変更した。一方、民主化勢力や一部の外国政府は、軍事政権が国民の合意を経ず名称を変更した点を問題視した。

1989年、軍政は戒厳令を強化し、国民的な人気が高まるスー・チーを自宅軟禁した。

1990年、総選挙が実施され、NLDが圧勝した。しかし、軍政は憲法制定議会の選挙として扱って政権移譲を行わず、NLDによる政府の成立を認めなかった。

1991年、スー・チーはノーベル平和賞を受賞した。

1992年、ソー・マウンが辞任しタン・シュエが軍政の最高指導者となった。

1995年、スー・チーは解放された。

1997年、軍政下の国家法秩序回復評議会が国家平和発展評議会軍政へ改組された。

1997年、ミャンマーはASEANに加盟した。

2000年、スー・チーは2度目の自宅軟禁となった。

2002年、スー・チーは解放された。

2003年、スー・チーは3度目の自宅軟禁となった。

同年、軍政は民主化へのロードマップを発表し、憲法制定と選挙を通じて政治制度を再編する方針を示した。

2006年3月、首都がヤンゴンから、内陸部のネピドーに移った。

2007年、燃料価格の引き上げを契機として、僧侶を中心とする大規模な民主化要求運動が発生したが(サフラン革命)、軍により鎮圧された。

2007年10月、テイン・セインが第14代首相となった。

2008年、沿岸部のサイクロンは死者・行方不明者が10万人を超える大災害となった。

同年、軍政は新憲法を国民投票で承認した。複数政党制と議会制を採用したが、連邦議会の議席の25%は軍人枠であった。憲法改正には連邦議会の75%を超える賛成が必要とされており、軍人議員の反対があれば改正を阻止できる構造であった。

2010年、民政への移行を狙い、テイン・セインら主要閣僚が軍を退役し軍籍を離れ、新たに軍の指示のもと結成された連邦団結発展党(USDP)の政治家となった。国名はミャンマー連邦からミャンマー連邦共和国と変更された。

2010年11月、2008年憲法に基づき総選挙が実施され、USDPが勝利した。NLDは選挙をボイコットした。テイン・セインが大統領に就任し、軍事政権から形式上の文民政府へ移行した。

テイン・セイン政権は政治犯の釈放、メディア規制の緩和、スー・チーとの対話など、民主化に向けた改革を進めた。欧米諸国による経済制裁の緩和も進んだ。

2012年、補欠選挙によりNLDが国政に復帰した。スー・チーも国会議員となった。

2015年10月、政府と少数民族武装勢力の一部の間で停戦合意が署名され、連邦制に基づく和平に近づいた。

2015年11月、総選挙が実施された。NLDは圧勝し、国会の非軍人議席の大多数を獲得した。

2016年3月、スー・チーの側近のティン・チョーが大統領に選出された。スー・チーは外国籍の家族がいるため、憲法上大統領となれなかったため、国家顧問という新たな役職に就き、実質的な政府指導者となった。一方で、2008年憲法によって国軍には国会議席の25%が保障されており、国軍の政治的な力は残り続けた。

2017年、ミャンマー西部(ラカイン州)で、ロヒンギャ系武装勢力アラカン・ロヒンギャ救世軍が警察施設を一斉襲撃した。これに対して国軍が軍事作戦を行い、その結果70万人以上のロヒンギャ住民が西方のバングラデシュへ逃れた。ロヒンギャの大多数はムスリムである。これにより、NLD政権に対する国際的な批判が強まった。

2018年3月、ティン・チョーが大統領を辞任し、ウィン・ミンが大統領に就任した。

2020年11月、再び総選挙が行われ、NLDが大勝した。

2021年2月1日、新国会の開会予定日に、国軍が総司令官ミン・アウン・フラインを中心にクーデターを起こし、スー・チー、ウィンミン大統領らを拘束した。ミン・アウン・フラインに三権(立法権、行政権、司法権)が移され、彼は新たに設置された国家行政評議会(SAC)の議長となった。多くの市民が抵抗を続けたが、軍はデモを武力で弾圧し多数の死傷者や逮捕者が発生した。抗議運動は次第に武装抵抗へと変化した。

同年4月、民主派の議員らは国民統一政府(NUG)を結成した。

同年5月、各地でNUGが人民防衛隊(PDF)を組織化し、少数民族武装勢力と連携する動きが広がった。その結果、国軍と民主派勢力、さらに多数の少数民族武装勢力が複雑に戦う内戦状態が深刻化した。

2025年7月、SACに代わって国家安全保障・平和委員会(SSPC)が設置された。

2025年末から2026年1月にかけて、軍主導による総選挙が実施された。USDPが圧勝した。ただし、NLDなど主要野党は参加できず、内戦のため投票自体が実施されなかった地域も多かった。

2026年3月16日、2021年のクーデター後初めて国会が再開された。4月3日、国会はミン・アウン・フラインを大統領に選出した。これに伴い、軍政は形式上は2008年憲法に基づく政府へ移行したが、新政府の閣僚の多くは軍出身者や軍系政党USDPの関係者であり、軍の政治的影響力は維持された。新政府発足に伴ってSSPCは解散され、同時に憲法上の国家防衛・安全保障評議会(NDSC)が再編成された。

2026年10月時点でも、軍政側と反政府勢力の双方が異なる地域で行政・軍事的な支配を行っており、国土全域を統一的に統治する政府は存在していない。

おわりに

ミャンマーの歴史は、複数の民族と政治勢力が共存・対立しながら、一つの国家を形成してきた歴史である。

古代にはピュー人やモン人などの都市国家が形成され、その後、パガン王国がイラワジ川流域を統合した。パガン王国の崩壊後には、アヴァ王国やペグー王国などが並立し、さらにタウングー王国、コンバウン王国へと政治的な統合が進んだ。一方で、シャン人、モン人、アラカン人など周辺の民族・地域勢力との関係は、その後のミャンマー史にも大きな影響を与えることになった。

19世紀にはイギリスの軍事的・経済的進出によってコンバウン王国が滅亡し、ミャンマーは植民地支配の下に置かれた。植民地時代には経済開発が進められた一方、インド系住民の移住や民族間の社会的分断も進み、独立後の民族問題にもつながることになった。

第二次世界大戦では、アウンサンらが日本と協力してイギリスからの独立を目指したが、日本による占領が進むと関係は悪化した。その後、アウンサンらは日本に対する抵抗へ転じ、第二次世界大戦後には独立運動の中心となった。1948年に独立を達成したものの、ビルマ共産党やカレン人などによる武装闘争が始まり、民族問題と内戦は独立後の国家形成を大きく制約した。

1962年のネ・ウィンによるクーデター以降、ミャンマーでは長期間にわたって軍が政治の中心となった。1988年の民主化運動、1990年の総選挙、アウンサン・スー・チーの自宅軟禁などを経て、2010年代にはようやく民政移管が進んだ。しかし、2008年憲法によって国軍には大きな政治的権限が残され、完全な文民統制が実現したわけではなかった。

2015年の総選挙ではNLDが勝利し、2016年にはスー・チーを事実上の政府指導者とする政権が成立した。しかし、ロヒンギャ問題や少数民族武装勢力との対立など、国内には依然として深刻な問題が残った。そして2021年2月、国軍によるクーデターによって再び軍事支配が強まり、民主派勢力や少数民族武装勢力との武力衝突が全国各地へ広がった。

このように、現在のミャンマーを理解するためには、2021年のクーデターだけを見るのではなく、古代から続く民族・地域の多様性、王朝による統合、イギリスによる植民地支配、独立後の内戦、軍部の政治的台頭、そして民主化運動という長い歴史を合わせて見る必要がある。

ミャンマーの歴史は、国家統合と民族自治、民主化と軍の政治的影響力、中央政府と地方勢力の関係が複雑に絡み合ってきた歴史でもある。現在もその対立は続いており、ミャンマーが今後どのような国家体制を形成していくのかを考える上でも、その歴史的背景を知ることは重要である。

他の国については、こちらをご覧ください。

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